閑話 超特急 新幹線計画
今回はちょっとしたお話。
閑話 超特急 新幹線計画
さて、新幹線計画は1932年に議会で認可されて世界恐慌対策として始まった日本でも類を見ない大工事となった。
東京駅を出発して新横浜、小田原、熱海、三島、静岡、浜松、豊橋、名古屋、米原、京都、新大阪まで高速列車で結ぼうと前代未聞の計画だった。
当時は東海道線を長々と電車で揺られて東京から熱海、
そこから静岡行きに乗って
さらに、豊橋まで行き、
さらに、米原まで行くと接続列車で大阪まで行くということをしていたのだ。
昔は、11時間程度で東京と大阪を結んでいた。
そして、それを5時間で結ぼうと言うのだ。
最初の関門は土地の確保だった。
特に土地にしがみつくじいさんが厄介だった。
政府が高額を出して買い取ってやるっていうのに売らないのだ。
まぁそれをどうにかして売ってもらって建造が始まる。
当時は不況なので人はいくらでもいる。
大阪側と東京側からどんどん作られた。
当時の雇用者は30万人以上。
彼らは恐慌の時だったのでたくさんいたのでたくさん雇用されて急ピッチでたくさん作った。
東海道新幹線は0系新幹線を走らせる予定で作られる予定だったのだが当時の国鉄総裁が未来を見据えて300㎞まで耐えられる線路にしたのだ。
ちなみに開業時の最高速度は210㎞の予定だった。
また、エンジンは空軍の戦闘機用のエンジンを改造して搭載された。
実験上では290㎞まで出る試算が出たがこれは寿命がめっちゃ短くなるので止められた。
そして、安全に運行できる速度として210㎞が決まった。
そして、工事は1941年の12月に終了して完成した。
多額のお金が投入された公共事業はこうして完成したのだ。
はじめて乗った当時の経済担当大臣の岸信介は、
「これは、日本を変えるおおきな力となる。」
そういい放ったという。
当初は軍人の移送用に作られたこの鉄道は大戦中に普通経済に移行した日本経済に大きな影響を与えた。
また、東京都市圏と名古屋軍需都市圏と大阪経済圏が最短5時間で結ばれたことは東西の経済交流を促進して一気に日本は第一次高度経済成長を始める。
毎年8%を越えて成長する日本の経済力は市民にも還元されて日本人一人あたりのGDPも大きくアップすることになる。
そして、日本国内の新幹線計画は各地に浮かび上がり各地でできることになる。
次の投稿日は土曜日です。




