第二次世界大戦26
第二次世界大戦26
世界大戦はなかなか決着がつきそうもなかった。
既に1939年も10月まで来ていた。
ソ連は日本に極東で敗北したが日本軍が侵攻しようとすると南支那担当の部隊をバイカル湖警備に回した上に中部と支那に展開していたソ連空軍の全部隊がバイカル湖に集結。
いくら日本軍が高性能な戦闘機を持っていたって本土防空やアラブ救援用にも戦闘機は必要だったためなかなか戦闘機を回せずにいた。
さらに、戦闘機の数自体は戦時体制に入ってから量はどんどん増えていたが上に旧式戦闘機は淘汰されていてそれは多くが南支那や、インドに流れていたが新型戦闘機はそこの抜けた穴埋めや、アラブに持っていかれたためシベリアに展開する日本空軍機は基本600機程度で推移していた。
また、少しずつ増えてはいたものの今度はパイロットの深刻な不足に空軍は困った。
さらに、新造空母も出来ていて海軍とも奪い合いになっていた。
日本連邦各地からパイロットが集結したのはさらに、イギリス、イタリアと激しくぶつかっているアラビア半島だった。
そのためソ連とは一進一退の攻防戦をシベリアの大地で繰り広げていた。
さらに、冬になると猛吹雪によって戦闘どころではなくなり行軍も遅れるので事実上の休戦状態になり始めていた。
時折、空中戦が起こったが数で押しきろうとするソ連軍を性能差で圧倒する日本軍なんとか撃退するという構図が出来上がっていてこちらはまったく戦線は動きそうになかった。
日本政府ははっきり言ってバイカル湖から西進するよりもトルコや、イラン経由で一気にモスクワ目指して突撃するのが一番手っ取り早くて楽なんじゃないかと思い始めていた。
それに、欧州戦線はここ半年はドイツの驚異的な守備とスカンディナビアの特殊部隊によって北は安全だったしオーストリアや東欧国家群はトルコの支援でなんとか持っていた。
あと、欧州諸国は陸上戦にそんなにリソースをつぎ込めなくなったのだ。
それはアメリカとの度重なる海戦である。
1939年5月
イギリスは大いに焦っていた。
カナダがアメリカに占領されそうになっていた。
というか、すでにケベックの一部を除いて占領されていた。
ぶっちゃけ戦闘状況はメキシコよりも悪く既にカナダ政府は亡命していた。
散発的な抵抗は各地で見られたが圧倒的兵力のアメリカ軍によって沈黙させられた。
そして、イギリス政府はフランスとスペインを誘って大艦隊を組織。
さらに、援助物資と陸軍3個師団50000を輸送しようとした。
それに対してアメリカ大西洋艦隊は全軍をもって迎撃することを選択。(当たり前。)
それに対してイギリスは空母3、戦艦5からなる本国艦隊。
フランスは空母1、戦艦3の大西洋艦隊。
スペインは空母2、戦艦4からなる新無敵艦隊を繰り出した。
さらに、イタリア海軍の空母1と戦艦2もそのあと飛び入り参加した。
こうして、空母7と戦艦14とその他多数の護衛艦艇と輸送艦、補給艦、物資運搬艦が随行した。
さらに、イギリス側は商戦改造型空母を4隻を+αとして繰り出した。
全艦隊を合わしての航空機数は550機。
エアガハーも十分だった。
アメリカ大西洋艦隊は空母サラトガ、レキシントン、ヨークタウンに戦時量産型空母のインディペンデンス級軽空母3隻とアイオワ級戦艦4隻、その他の1930年型及び1920年型戦艦を合わせて7隻を中心に多数の防空駆逐艦と重巡洋艦で固めた艦隊を繰り広げた。
前哨戦は5月下旬頃から潜水艦同士の雷撃戦から始まった。
さらに、そこに対潜型駆逐艦が爆雷を投下し始めてそれを護衛するための対水上戦の駆逐艦が出るようになった。
そして、その警備する駆逐艦を沈めるために軽巡洋艦を欧州側が出すと負けじとアメリカ海軍側が出してというのを繰り返して、
遂に両軍が大西洋中央で衝突した。
1939年9月8日のことだった。
次は金曜日です。
今週は期末考査なので水曜日ではありません。