第二次世界大戦23
第二次世界大戦23
日本軍の第41旅団と第25.36.37師団は未だに朝鮮半島北部で戦闘を繰り広げていた。
ソ連軍10万と北京政府8万の大軍は未だに山間部を突破できずにいたのだ。
日本軍の地上部隊の戦車部隊は粘り強く対抗していたし山間部の道路のあちこちには地雷や機関銃陣地や、対戦車砲陣地が多く設置されていて多数の兵士の死体がそこら中に散らばっていた。
さらに、山岳戦を得意とする第41旅団はわずか6000人で4万人の北朝鮮州の北部山岳地帯の方から平壌に侵攻しようとする敵を押し止めた。
さらに、独立が保証されている北朝鮮州軍の士気は高いものだった。
南の州軍の士気はあまり高くなく使い物にならなかったが北朝鮮州軍は山岳戦とゲリラ戦で大きく日本軍の役に立った。
また、使い物にならない南より北の方を重視する戦後の軍の風潮が生まれたのはこのときだった。
さらに、制空権がなんとか維持されていたのも味方に作用した。
零戦や、99式戦闘爆撃機もソ連軍に対して奮闘し朝鮮はソ連軍機の墓場と言われたほどだった。
戦車も最初はソ連の戦車に対して性能的に劣勢だったが開戦2ヶ月で改良型戦車が朝鮮に向かってから戦線は崩されることも少なくなった。
また、さすがに各地からの救援物資も届きはじめて戦線はどんどん強固になっていくのであった。
12月3日 モロッコ
モロッコ国防軍は未だに抵抗を続けていた。
既にイギリス軍はスペイン軍に任せてアラビア半島に向かい国内の敵は減ったがそれでも厳しい状況に変わりはなかった。
モロッコ軍の二個師団はカブランサカ市内で市街地戦を実施していた。
市民の義勇兵も加わって市内各所で制圧しようとするスペイン軍と戦闘になっていた。
また、カブランサカの地下には国防司令部とゲリラ戦術本部が置かれていてカブランサカの地下中が軍事基地になっていた。
スペイン軍は地上掃討作戦を既に8回実施したがそれでも抵抗は弱まっておらず軍隊は市街地戦をすると被害が大きくなる上後ろや下から攻撃を受けるためスペイン軍の現地派遣部隊は掃討戦を拒否しており未だに抵抗を続けていたのだった。
12月7日
アラビア半島では英国陸軍とイタリア陸軍相手に日本陸軍と日本経済圏加盟国3ヵ国の連合陸軍による戦争が続いていた。
そして、英国陸軍はなかなか攻めきれていないのが現状であった。
日本国は軽いイスラム主義を認めていて良い同盟国であったので対英国でアラビア国家が援助しているのだ。
特に対英国の禁輸措置はかなりイギリスに効いていた。
当時の東南アジアからの輸送ルートは断たれていて油田をアラブに頼っていたのに結局、フランスのギニアの油田かベネズエラ地域の油田からしか頼れなくなったのだ。
世界最大級の油田地帯のアラブを敵に回したのは大きな失点だった。
また、海軍が大西洋でアメリカに対して大規模作戦を行うためアラビアに物資が少なくなっていることも影響していた。
また、日本の国防情報局がエジプトに独立を呼び掛けていてそれを煽っていたのでエジプトの安全も脅かされていた。
そのため英国は少しずつ疲弊していた。
12月9日 日本 東京
東京は好景気に沸き始めていた。
戦争が始まってから一斉に軍需企業と民需の中でも軍の維持にかかせない商品の緊急増産で日本国内では経済が良くなり始めていた。
日本政府の非常事態時国庫拠出金が8000億円拠出されたのだ。
軍需企業は大儲かりだし、その他の産業もその余波を受けて好景気に沸いていた。
失業率は0.5%まで低くなり、軍人の緊急募集も行われていてさらに下がりそうな傾向だった。
さらに、アメリカからの物資も入ってきていて未だ日本経済は成長を見せていた。
そして、国民の間にはすぐに戦争を終わらしたいという共通の理念があったが日本政府の方針はとりあえず自国の安全を確保することだった。
ポイント、感想お待ちしております。
次の投稿日は水曜日です。




