第二次世界大戦19
第二次世界大戦19
ドイツの南西部側の国境での防衛線が崩れたのは10月21日のことだった。
もちろん遊撃部隊がそこに突入して敵を押し返そうとしたが敵の数が異常に多すぎた。
そこからフランス陸軍が雪崩れ込んだ。
瞬く間にフライブルクとオッフェンブルクがフランス軍によって制圧された。
またこれにより後方に防衛線が下がったのだが後方の防衛線は未完成で突貫工事だったためじりじりと押されていった。
さらにドイツ南西部が落ちたことによってスイスが危険になった。
バーゼルは最終防衛ラインだったはずが最前線になった。
ドイツ領側から撤退してきたドイツ南西部駐屯のフライブルク連隊はバーゼル基地に入ってスイス軍とともに戦った。
また、防衛線の引き直しが行われた。
しかし急造の防衛線では突破されやすかった。
各地の防衛線の綻びが一週間程度で見え始めて10月30日には
南部の都市であるミュンヘンにフランス軍が迫っていた。
オーストリア軍はドイツが思いの外破られていることに危機感を覚えて日本のアラブ駐屯軍に救援を要請したが日本のアラブ駐屯軍は既にイギリスのエジプトからの攻撃に対してアラブ諸国を纏めて防衛するのに精一杯だった。
また、アフリカの日本経済圏加盟国から悲鳴のように救援要請がひっきりなしに届いており海軍も空軍も、強いては陸軍にもそんな余裕などなかった。
付近の日米側国家としてはインドがそこそこの軍隊を持っていたが独立後一ヶ月ではさすがに国家としては大規模な軍隊を派遣するのは厳しかった。
ドイツ軍は援軍が得られないまま孤軍奮闘するものの11月10日にミュンヘンが陥落。
さらに11月18日にはドイツオーストリア国境までフランス軍が迫りオーストリア軍との戦闘を開始した。
また、スイスは戦況がさらに厳しくなったがそれでもまだアルプス山脈と民兵、組織的抵抗を駆使して戦っていた。
ドイツは11月12日にはニュルンベルクとシュットガルトが陥落してしまった。
ドイツ軍の防衛線は次々と北上していった。
11月15日にはヒトラーが中部に絶対国防ラインを設定。
なんとしても守るためかなり頑丈な防衛ラインが構築された。
さらにドイツ国内の軍事産業は危険地帯を避けてまだ安全だったスカンディナビアの特にスウェーデン地域に疎開した。
デュッセルドルフ、ケルン、フランクフルト、ライプツィヒ、ドレスデン、プラハ、リンツ、ザルツブルクを結ぶ防衛線とスロベニアとイタリア国境に大軍が配備された
ちなみに当時のイタリア軍はスイス攻略に手間取っていた上に、
イギリス軍に従ってスエズからアラビア半島を攻撃していた。
ソ連もまたオーストリアに手間取っていたのとスカンディナビア領フィンランドで激しいゲリラ戦術に会い手間取っていたためヨーロッパはまだ日米連合が残っていた。
アメリカ大陸
アメリカ合衆国陸軍は南の軍隊を各地で破っていた。
そもそも支援を表明していたソ連は自分の領土拡大に躍起になり南の支援を滞らせていた。
さらにイギリスは確かに妨害をしていたがそもそも南で多数の反乱が起こっていてとりあえずイギリスは欧州戦線を重視したためそこまで多くのイギリス兵は南にいなかった。
アメリカ軍は10月1日には南アメリカ連合の首都ヒューストンを制圧し、その他のフロリダ半島の制圧もしてほとんどの統一に成功した。
国内では北部の黒人が多く戦争に参加していたし人種差別について大きな議論が巻き起こり戦時の特異性からか可決されていた。
そのため南部の各地で北部に併合されたいがために黒人の反乱が起こりそれが首都制圧と南の政府の降伏が想定よりも早く行われたのだった。
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