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第二次世界大戦18

 第二次世界大戦18


極東側の戦線は少しの間、日本本土の新潟戦線を除いてすべての戦線が膠着状態になった。

タイはバンコク防衛を行っていたしマレー半島も一部を除いて膠着状態になった。

朝鮮での戦線はなんとか中国軍を国境地帯まで押し返してそこで塹壕と高射陣地を作ってそこで長い間戦闘が行われるようになる。

どの戦線も動き出すのは11月に入ってからだった。

その理由は欧州での戦闘にあった。


オランダ戦線

オランダ戦線はなんとかスカンディナビアとドイツの救援で保っている状況だった。

しかしハンブルクからの救援物資は時々途切れることもありきつい状況が続いていた。

オランダはハーグの英国派とアムステルダムの王室の日米派で別れていた。

しかしオランダ本土を全体を使って防衛するというオランダ政府の理想は開戦時に崩れた。

親英派がロッテルダムにイギリス軍を招き入れてしまった。

さらにエイントホウェーンで国境警備隊が敵を中に入れてしまった。

ちなみにオランダ領の東インドはもとろん親英派だったため残らず自由オランダに加盟した。

オランダ王国政府は新たにアムステルダム、ユトレヒト、アレンヘムとドイツ国境までの場所を最高防衛ラインにして防衛したがフランス、ベルギー、イギリス、裏切った自由オランダ軍は激しくオランダ政府の防衛ラインを攻め立てた。

スカンディナビアとドイツ北部軍は救援に来たがまだ第一陣が来たぐらいで各地の防衛線が破綻し始めた。

そのためオランダ軍はユトレヒトとアムステルダム周辺の放棄を決定。

彼らは王室をドイツに避難させてさらに最終防衛ラインをフローニンゲンに置いて祖国防衛戦争を始めた。

オランダの自由派は少数派で良い治世をしていて議会にも寛容なオランダ王室は国民から慕われていた。

オランダ国民の多くは国王を支持した。

国民の多くは防衛ライン再設定に伴い二つの勢力に別れた。

北の北まで逃げて戦い続けるか、レジスタンスとして抵抗活動を敵の手中に落ちたアムステルダムで反抗するかだった。

市民は多くは逃げれないためレジスタンスが多く各地のオランダの都市で起こった。

また、一部市民はイギリス本土に渡りロンドンでテロを起こした。

彼らはオランダ王室に忠誠を誓っていた。

そして、オランダ王室の政府と軍隊はオランダ北部しか残っていなくても戦い続けた。

10月11日にはフローニンゲンの市街地まで敵軍に入り込まれたが街中を要塞にしていたため突入したフランス軍の一個旅団は壊滅した。

さらに防衛線はさらに強化された。

日本領アラブから日本軍の最新戦車が送られてきた。

アラブのイエメンや、オマーン、カタールの日本連邦加盟国では本土からアラブ死守命令が飛んでいて多数の戦車を生産していた。

そして、一部は本国から売却許可が出ていたので欧州に輸出されていた。

特に今、切羽詰まっていたオランダ王室の状況を見た松風王家はなるべくすぐに戦車を輸出してほしいとアラブの企業に要請していた。

そのため複数の戦車が急いで派遣されていた。

第一陣の28両がオランダに届いたのは12日のことだった。

そのため少しの間オランダはこの戦線を止めることができたのだった。


フランスベルギードイツ国境地帯はドイツ軍の苦しい防衛が行われていた。ドイツの5号、65号、6号、62号、1号、421号、51号、477号、57号、58号、31号に西部方面防衛部隊が置かれ防衛していた。

そこには道路の上に鉄条網と多数の地雷が置かれさらに各地に機関銃と対戦車砲が狙っていた。

さらに対空機関銃が空を飛ぶ英仏空軍の戦闘機を撃墜していたが各地の戦線が突破されそうだった。

一部突破されたところにはドイツ軍の機動部隊が突入して防衛線まで敵を押し返していた。

それでもスイスのおかげでまだ南部は安全だったしボーランド、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ウクライナはなんとかソ連の侵攻を押し止めいた。

理由は日本産の軍事兵器とトルコが支援しているからだった。

特にブルガリア、ウクライナの地域が突破されたら次はトルコの唯一のバルカン半島のイスタンブールが陥落してしまうからだった。

これにはその先のギリシャも危惧して英仏から誘われたけど拒否して自国防衛とブルガリア、ウクライナの支援をしていた。

オーストリアは初戦で手痛い攻撃を受けて開戦1、2週間はあまり効率的な反撃をできなかったがオーストリアの意地と誇りにかけてオーストリア軍は奮闘した。

山岳地帯でソ連軍を撃破。

防衛線を国境線まで巻き返した。

これは、スイスや、ポーランド、オランダ、ウクライナで苦しい戦いをしている同胞を勇気づけた。

スイスはイタリアに防衛ラインを破られたが国民全員がゲリラになりスイス軍も国民徴兵を開始。

さらに、永世中立が破られたことでなりふり構えなくなったスイスは少しずつ地下に作っていた地上が制圧されてもずっとレジスタンスができるように作っていたところに国民を避難させ始めた。

スイスはドイツの援軍を得ながら10月15日にスイス全土に徹底抗戦命令と地下司令部設置を宣言し国民にレジスタンス活動を実施せよと布告した。

さらに、南部はレジスタンス地域としてジュネーブを放棄。

ベルンとチューリッヒを基点としてバーゼルを最終防衛ラインとして戦闘を続けた。

ポーランドは騎兵師団はあっさり初戦で壊滅したが日本から輸入されていたJC-5戦車がソ連軍に牙を剥いた。

ソ連軍の主敵は主にオーストリア戦線と満州攻撃使われていたし戦線がバカ広くさらにスターリンによる将校団の大規模な粛清によってソ連軍はめちゃくちゃ弱体化していてさらに優秀で政府に柔順な将校は主にオーストリア戦線に投入されていたためポーランド方面は問題児から無能か、反政府派の左遷将校しかいなかったのでまったくやる気も士気も低かった。

そのためまったく強くはなかった。

それでもポーランド軍は全域を反抗作戦によって奪還はできなかったが戦闘を膠着状態にすることに成功した。

しかし一番最初に崩れたのはドイツの戦線だった。

次は日曜日です。

ポイント評価、感想お待ちしております。

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