第二次世界大戦12
第二次世界大戦12
10月1日21時頃
イギリス海兵隊は本国からの指示で速やかに東京を落とせと言う指示を受けた。
イギリス海兵隊が陸路を制圧しソ連軍戦車部隊を進軍できるだけ早くすることが重要だった。
そのためには夜間に群馬県の前橋まで海兵隊10000が機動車両にのって移動する必要があった。
また、イギリス軍情報部の情報収集で越後湯沢に第51山岳レンジャーはなく彼らの配置はまだ2週間前の十勝駐屯地のままだった。
そのためこの山間部には敵軍はおらず安全に前橋まで移動できると彼らは踏んでいた。
既に新潟市内と周辺の市は英ソ軍の占領下にあり新発田と高田の部隊はソ連軍の上陸部隊7000と戦闘を繰り広げていた。
兵坦も今のところ無事で舞鶴艦隊も大湊艦隊も来ておらず英国の空母艦隊とソ連の沿岸部の空軍基地から展開している哨戒機によって安全も確保されていて彼らは慢心していた。
東京空襲も上手く行き万全の体制だった。
そう、彼らさえいなかったら。
湯檜曽川と谷川岳付近。
ここら一帯全域に第51山岳レンジャーは展開した。
というか新潟から群馬に抜けるルートはここ国道291号線と赤谷湖を通る国道17号と関越自動車道のたった3つ。
彼らは数が少ないため大阪の日本本土国防司令部は関越自動車道には相馬原と新町から急行させてるらしい。
また、国道17号にも我々の半分が展開していた。
相馬原の部隊と新町の部隊は戦車を持っているためそれが使いやすい高速道路の警備をするらしい。
だけど高速は訓練で演習場がある長岡通信所にいた空軍の第57空挺大隊が新潟から撤退する際に魚沼と六日町で高速を破壊したらしくまた、彼らは塩沢付近で待機し我々の防衛線のところに敵が来たところで背面奇襲をするらしい。
我々の兵器は山岳用重機関銃と軽機関銃に迫撃砲、対戦車砲ぐらいで中戦車もない。
まぁ山岳戦の中でめっちゃ急勾配のエリアに展開しているから別に要らないけど。
そして、通信で塩沢待機の部隊から先ほど英国の海兵隊の先発4000が塩沢から越後湯沢方面に向かったらしい。
実は越後湯沢にもまだ兵士が残っていて部隊は越後湯沢にいた市民の中の予備役から作った01臨時連隊だ。
ガーラ湯沢のスキー場近辺に臨時本部を設置して彼らも偵察活動をしている。
おそらく我々の見込みだとあと3時間で敵海兵隊が谷川岳付近の国道291号の山岳休憩所を通る。
そこで縦に長い敵の戦列に一撃を加える。
さらに今、こっそり千歳の爆撃機が会津のマル秘空軍基地に来てるらしくそっちがだめ押しの一発もしてくれるらしい。
あと三時間。
10月2日 24:30 谷川岳休憩所
イギリス海兵隊は山道を進んでここまで出てきた。
今まで奇襲はなく敵も人もほとんど見ておらず兵士達は夜間で危険なのにたるみまくっていた。
重機関銃と迫撃砲の銃口がその休憩所に向く。
「砲撃開始!」
山中に設置された迫撃砲が一斉に攻撃を始める。
ドーン!!!と大きな音が連続して響き渡り国道291号線の道路とその休憩所と駐車場中に着弾する。
さらにあらゆるものが壊れて逃げ場がない状態で重機関銃での掃射が行われ英国海兵隊員の悲鳴と体がくだけ散る音が鳴り響いている。
時折休憩所の瓦礫の中から生き残っている英国海兵隊員が銃を撃ってくる。
敵の反撃で4人が死んだが彼らはだめ押しの一発のために掃討作戦を実施した。
国道をすべてくまなく探して生存者は反抗的なら射殺。
降伏するなら捕虜とした。
まぁほとんどいなかったけど。
敵兵は休憩所の先にもいたがそっちは逃亡したらしい。
英国海兵隊が乗っていた装甲車の中に砲撃で破壊されていないものを見つけて我々は追いかける。
装甲車で少し行った先に敵兵がいた。
「装甲車の影に隠れながら攻撃!」
隊長の指示で車から下車して車を盾に銃撃戦が起こる。敵は山の中に逃げる。
「敵兵が山の中に!」
「北の兵士に知らせて掃討しろ!」
「了解しました。」
実際彼らは3000人程度が死亡した。
300人程度は越後湯沢のベースに撤退した。
500人は降伏し、200人程度は掃討から逃れようと山の中を逃げた。
英国海兵隊の本部は夜間に狭い道路を支援なしで通るのは今回と同じようになるとして明日の昼に高速から侵攻することになった。




