第二次世界大戦7
第二次世界大戦7
10月1日と2日で起こった世界情勢
日本本土が英露連合軍に攻撃されて、中国で停戦が破棄されて北京ソ連連合軍が中国連邦に攻め込みさらに朝鮮にも攻撃した頃。
アメリカでは合衆国陸軍によって南への侵攻作戦が実施された。
ノースカロライナ、テネシー、アーカンソー、オクラホマの各州に攻め込んだ。
目標はシャーロット、ナッシュビル、メンフィス、リトルロック、オクラハマシティの5箇所。
また、海兵隊がフロリダのマイアミとオーランド、チャールストン、ジャクソンビル、タンパに上陸。
ロサンゼルス方面部隊もダラスに向かってアマリノ、ミッドランドの南アメリカ連合国の要塞の攻撃を仕掛けた。
緯度33°50°ラインには南アメリカ連合軍が数十万詰めていたが合衆国陸軍は後方に空挺降下したのだ。
それに浮き足だった南アメリカ連合軍を正面から機甲部隊が突撃しさらに上空の戦闘では日米新開発の零戦2型が南のソ連製の戦闘機を圧倒する。
そこに爆撃編隊が現れて地上にいる南の陸軍の機甲部隊に攻撃する。
南アメリカ連合軍機甲部隊は戦車を破壊されて逃げようとするが後ろには空挺降下した敵兵前には機甲部隊と敵歩兵部隊。
彼らは囲まれたのだ。
こちらの戦闘機部隊はまったく役に立たない。
南アメリカ連合軍のノースカロライナや、テネシー、アーカンソー、オクラハマの国境守備隊は戦闘開始8時間で降伏した。
また、合衆国陸軍は各都市に進軍して制圧した。
これは世界戦争開始から一日、10月2日のことだった。
南アメリカ連合国
首脳部は浮き足立っていた。
今まで防戦一方だった合衆国軍が動いたからだ。
突然攻めてきた合衆国軍によって国境守備隊は降伏。
開戦から一日でシャーロットを中心に主要5都市が無防備都市宣言を出した。
これは由々しき事態だった。
さらに最悪な事態が起こる。
民衆からの支持率が高かったアイアンマン大統領が病床に伏せてしまった。
さらにリーダーシップをとるものがいないのだ。
さらに派閥争いも本格した。
たった3日の間に4人の与党の重鎮が死んだ。
そう何者かに暗殺されたのだ。
おそらく何者かが殺ったわけではなく、それぞれ彼らか送っていたようにみんなが送っていたためみんな死んでしまったのだ。
さらにこれが混乱に拍車をかける。
軍はリーダーシップをとれふリーダーを求めているがそれがいっこうに現れずまったく指示も出さないことに苛立っていた。
10月6日にはさらにフロリダ陥落の方が入る。
10月7日にはスペインの援軍がメキシコからヒューストンに入った。
それでも混乱は続いた。
インド
インド国民軍に名前を改称した反乱軍は東はダッカから南はスリランカ直前、西はイラン国境まで制圧した。それは10月6日のことだった。
各地で反乱を起こしていた同士たちは首都ニューデリーで合流した。
日本軍の支援も確かに大きかったが独立したいという気持ちとインドの人民の願いこれを実現させたと彼らは思い人民のための政治を行うことを決意する。
ただ、それは社会主義のような抑圧された社会ではなく解放された自由な経済で政治。
そう日本のような自由な経済で格差も確かにあるけどそれでも人々が楽しく笑って過ごせる社会を目指したのだ。
彼らは日本との約束であるインドを英国海軍を押さえるために使うという日本軍との約束を実行するために動き始めた。
インド国民軍の次の目標はスリランカ。
ここにはイギリスインド海艦隊がいるためそれを拿捕しようとしたのだ。
中東
中東は今回の戦争は中立を宣言した。
石油がほしい日本やイギリス、トルコには石油を売っていたがそれでも中立を保った。
イラン、サウジアラビア、イラクの3つの国の利害は一致していた。
欧米やアジアにはなびかず我々は我々だ。
そういう感じでやっていた。
トルコ
トルコ政府は日本との仲が良かった。
1905年にトルコの軍艦がブルネイ沖で座礁して沈没しそうになったときに助けたのが日本沿岸警備隊の一等巡視艦(元駆逐艦)ながやみ だった。
トルコ人の乗組員77人が助かって無事日本の軍艦によってトルコまで帰ってくることができたのだ。
これに国内では親日感情が高まった。
当時の世界で訳も分からない国の人のために命を懸けて助けようとする精神はなかった。
だから日本人が持っていた武士道精神は彼らに伝わった。
それからトルコはずっと親日路線でこの戦争が始まってもそれは続いた。
トルコは日本から軍艦を買っていたし周囲は味方のオーストリアと中立国。
ソ連は危険だがドイツと北京政府支援でトルコに向ける部隊はない。
ギリシャは滅ぼそうとしていた国だしイタリア海軍は危険だが見つかったら逃げろという命令が出ていた。
10月4日トルコはギリシャに攻撃をしかけた。
ギリシャの国境警備隊を退けたトルコ軍はアテネに迫ったが洋上には危険なイタリア軍とイギリス軍がいた。




