植民地主義の陰りと日本連邦発足10
植民地主義の陰りと日本連邦発足10
1907年3月25日18時 キラサラリー市本庁舎
ダルエスサラームで起こったテロ事件を受けて国防海軍の第7海兵旅団がここキラサラリーに投入された。テロ事件とほぼ同時刻にキラサラリー郊外の山にあるキラサラリー旧城が解放政府軍によって制圧されたのだ。おそらくほとんどのシンパがそこに立て籠っていて国防軍の試算では3000人が立て籠っている。海兵旅団は5400人。さらに、タンザニア駐屯のタンザニア自治軍ではなく日本本国からの派遣軍6000も展開していた。戦車、偵察機、自走砲、装甲車、攻城砲までもが持ち出されていた。日本軍も本気だった。ここまで調子に乗られて黙っている日本軍ではなかった。それに、海兵旅団とは別に艦隊に乗船していた特務部隊がいた。JSTF日本海軍の特殊部隊である。人数は200人ながらも工作、潜入、情報収集、暗殺、急襲をやらせたら日本国内に右に出る部隊はほぼいないと言われていた。(まぁSと呼ばれる日本陸軍の特殊作戦群やGBAと呼ばれるオーストラリアにいる第九師団内にあるグリーンボスアタックと呼ばれる部隊、日本空軍の空挺部隊であるSTF、枢密院秘密情報処理隊という秘密部隊並だった。)作戦はこうだ。まず、旧城に繋がる二本の道から戦車部隊を前進させて敵防衛陣地を破壊。さらに、装甲車も突入させて敵を粉砕。自走砲は旧城の西側の川の対岸から城に向けて発射。海兵旅団は南側の道路から陸軍は北側の道路から。そして、東側の絶壁から特務部隊が上ることになった。
20時
特務部隊の東側の絶壁からの攻撃が始まった。
高さ80mのロッククライミング。普通の部隊にはできない。
南側、北側の道路から機甲部隊が発進する。
最初にキラサラリー城に到達したのは西側の川の対岸から攻撃した自走砲と攻城砲による殲滅攻撃だった。
最初の攻撃によってキラサラリー城の中央にある弾薬庫の近くに落ちたため、弾薬が誘爆した。
火はすぐに消し止められたけど弾薬が足りなくなってしまった。
そして、南側の道路では解放政府軍が迫撃砲を戦車に向かって向けていた。
軽戦車ならまだしも重装甲の0式戦車の相手は少し重かったのだ。
戦車砲はあっという間に南側の城門を破壊して突入した。
さらに、東側の崖から突入した特務部隊が司令部を強襲した。
司令部から火の手が上がったことで解放政府軍は敵が司令部を制圧して戦うことを放棄した。
こうして、タンザニア独立事件は終わった。
三ヶ月後
タンザニアは無事タンザニア共和国として独立した。日本軍は安全保障条約を結びタンザニアから撤退した。タンザニアはこの後インド洋情勢にて重要な役割を果たすことになる。




