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統一戦争3

統一戦争3


松風軍が京都御所を包囲してから2日後。

朝廷の使者がやって来た。

朝廷は松風の提案を飲むことにしたのだ。

その提案とは、松風は二重政府構造をよくないと思っていた。

なので朝廷をお飾りにしてしまえば良いと考えたのだ。

今の象徴天皇制みたいな感じである。

特に錦の御旗や、官位、勅令などは迷惑きわまりないものだった。

また、公家が天皇を唆すのも危険だと判断した。

彼は別に天皇制廃止をしたいわけではないのでこのような措置に踏み切ったのだ。

まず天皇には警護兼監視の近衛兵がつくことになった。

公家はすべて新政府内での役職をつけることを条件にその制度を廃止した。


また天皇が持っていた権利も消え彼は廃領置県を行うことにした。

徳川、上杉以東の大名に対して国に対して領地を返還せよという措置に出たのだ。

もちろん相手側から見たら先祖代々受け継いで来た土地を政府に差し出せというのだから暴論であるが松風政府は日本統一のために実行した。期限は一ヶ月だった。

8月徳川、北条、上杉などから拒否を行うメールが入ってきた。

これにより松風領土内からの生産物の輸出が止まった。

そして、8月15日徳川領三河、遠江、駿河に新たに新設されていた海兵隊と陸路から15万の大軍が侵攻した。

北陸でも上杉領内に向かって13万の大軍が侵攻した。

徳川、北条、上杉は三国同盟を結んだ。

しかし、さらに下田に九州からの輸送船によって60000の兵が上陸。信濃口から上野に90000の松風軍も侵攻。

既に徳川領内では街道が分断され各個撃破が相次いでいて安城、掛川、小山、蒲原、等の支城が落ちた。

下田城も強襲揚陸によって陥落。

ここの部隊は韮山に向かって進軍を開始し、上野でも西上野が陥落。さらに越後では糸魚川の戦いで上杉は松風軍を退却させたが飯山城が陥落し、春日山城に迫っている報を聞いて7000を残して退却した隙にその7000を撃破し松風軍が春日山に急進撃。

春日山城付近で挟み撃ちに会うような形で戦闘になり上杉軍が壊滅的打撃を受けた。

この戦いで柿崎景家と小島弥太郎、水原、樋口等の譜代家臣が討死。上杉景勝と直江兼続は籠城したが命の免除の代わりに所領没収で上杉は降伏した。

これにより、越後征伐軍13万北条の沼田城に押し寄せ陥落させ、そのままの勢いで上野を制圧。

武蔵へ侵攻。川越城で大規模な戦闘になったがやはり最新の戦法を使って練度がある松風軍の圧勝。

石神井、八王子等の城も陥落した。武蔵も平定された。

その頃韮山城も海兵隊中心の部隊によって制圧され甲斐口から来た40000と韮山の60000、武蔵の160000が合流して小田原城は三方と海はを囲まれ包囲された。

その間にも下野、上総、下総が制圧され常陸も制圧された。

小田原城は2ヶ月籠城したけれどある時松風忍軍と海軍によって城内が、大きく爆発した。

それによって三の丸の櫓と城門が壊れたのだ。

すぐに正面にいた藤堂高虎率いる15000が城内に突入する。

ここで小田原城内が大パニックなった。

それで城は終わりだと勘違いした兵が降伏。

さらに首脳部も諦めて集団で自害した。

こうして、関東の雄北条家は滅びた。

徳川家も同様に滅びの時を迎えると思ったが最後に家康が浜松会戦で一矢報いて降伏した。

家康は隠居及び政治参加不可。

また、その子供達は再教育となった。

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