統一戦争2
統一戦争2
1581年11月筑前筑後豊前豊後に畿内中国四国から25万の軍勢が上陸した。
まだ九州の島津は九州統一していないし龍造寺も大友もいるけどどんどん攻撃していく。
さらに湾岸近くにあった府内館は松風海軍の対地用砲撃艦隊によって壊滅。
さらに大友首脳部がほぼ全員死亡。
さらにそれを行くすべての城の前で言いふらしたことで豊前、筑前の各城は開城した。
筑後は岩屋城に立て籠る高橋と立花コンビが奮戦するが75000という筑後方面隊によって力攻めされ陥落。
彼は最後討死しようとしたが松風軍筑後方面隊羽柴秀吉によって命を取られなかった。
さらに秀吉率いる筑後方面隊は筑後を平定後、肥前を攻撃。
龍造寺を佐賀決戦にてふるぼっこにして、肥前を平定。
筑前方面隊の竹中半兵衛率いる65000と豊前方面隊の加藤清正30000はそのまま肥後に侵攻。
この時島津が隈本城まで取っていたがその北、菊名で戦闘になった。島津義弘と島津家久が島津75000を持ってきた。
しかし、海側には松風海軍舞鶴基地所属の艦隊がいた。
海から次から次へと砲弾が撃ち込まれる。
旧式の戦いを望む人にとってはズルいと思うかもしれないが天馬が育てた生徒達は損害を0にすることが最も重要だと信じていた。
そのため武士の面目等気にしない。
そもそも生徒の多くは農民出身の才男と才媛達である。
武士ではない。
ようするに松風軍はヨーロッパよりおよそ250年早く国民軍隊化したのだ。
まぁそれはおいておいて、島津軍は果敢に突撃した。
松風方の磯野一昌や、荒木村重等が島津騎馬隊の突撃で討死した。
しかし、損害が大きいのと松風方の呉基地所属の上陸隊が島津軍後方に上陸したため退路が塞がれる危険性があった。
これにより島津軍は撤退を始める。
島津軍はここで釣り野伏せを行うことにした。
しかし、これは既に松風忍軍によって知られていた情報だった。
確かに功を焦ったのか滝川一益が突撃した。
彼は天馬に逆らったが助命されてこの九州征伐に陸軍の一個連隊を率いていた。
もちろんきれいに引っ掛かって退却中に鉄砲で撃たれて死亡した。
本軍はそんな馬鹿なことはせずに忍軍に命じて隈本城内に爆薬をセットして起爆した。
島津軍は爆音を聞いて隈本城を見ると城が赤く燃え上がっている様子を見て後方支援基地隈本城が陥落したことを悟った。
ちなみにこの時爆破しただけで陥落もしていなかったが。
それにより士気がだだおちになり、降伏する兵が続出。
焦った島津義弘と島津家久は近衆15000程を連れて豊後経由でなんとか南肥後に帰った。
隈本側でも島津軍が食い止めてるはずだった松風軍が現れて大混乱になった。
まだ豪族などが結構いたため反乱が起こり島津軍は四方を敵に囲まれ、もちろん徹底抗戦をしようとしたが部下の猛反対隈本城主は降伏した。
その後八代城も陥落。
豊後も岡城が落ちて制圧され、肥前も全域が落ちた。
征伐軍は南肥後と日向に雪崩れ込んだ。
島津は1582年3月下旬には薩摩と大隅の南部を除いて全域が陥落。
島津は降伏した。
島津義久が出家。義弘と家久、歳久は軍に出仕、全領召しあげという結果になった。
ちなみに全領召しあげをするのが松風流だった。
7月。松風軍は京の天皇御所を包囲した。