戦国期3
戦国期3
1578年 ここで日本の歴史を変える重大事件が起こる。
越中方面担当司令官の柴田勝家。彼が謀反を起こしたのだ。
彼がこれを起こすきっかけは本能寺の変5日前だった。
あるところから使者が来たのだ。
そして、その使者は言った。
「今この機会を逃せばあなたの天下の夢は途切れますよ。」
普通ならばこの状況で織田に反旗を翻すことはあり得ない。
しかし、彼は数日前に信長からこっぴどく怒られており正常な判断が
出来なかった。
彼は織田信孝と滝川一益を抱き込み信長が本能寺に泊まっているところを急襲した。
もちろん信長の近衛兵は必死に抵抗したが数百と反乱軍は四国方面侵攻隊8000。
さらに北陸から10000。
勝ち目はなかった。
信長も信忠も今日の町で自害し京の町は戦火に包まれた。
しかし、信長は最後に彼の腹心であった松風天馬に使者を送った。
使者森蘭丸が中国方面に行っている天馬の元に着いたのは2日後だった。
松風天馬が本能寺の変のことを聞いたのは6月5日のことだった。
彼は手紙を受け取った時に涙を流した。
彼にとって信長は自分を登用してくれてここまで育ててくれた肉親のようなものだったのだ。
彼の決断は速かった。
彼は毛利と講和しようとは思わなかった。
黒田官兵衛に12000の兵を残して山中鹿之助の7000を後詰めにして本隊20000がわずか5日で備中松山から大阪城まで戻ってきた。
その後筒井、伊賀上野、和歌山、高屋、岸和田から来た15000と合流して京に進軍した。
6月15日山崎で柴田軍23000と松風軍と羽柴軍、仙石軍合計54000が相対した。
もちろん天王山の戦いが起こった。
松風軍は大砲を惜しみもなく使いまくって突撃隊を支援する。
鈴木重秀率いる突撃隊は前田利家の兵を撃破し佐々成政の部隊をも撃破する。
松風配下の蒲生氏郷、竹中半兵衛、九鬼嘉隆、可児才蔵、真田昌幸、稲葉一鉄、細川藤孝、島左近に桃谷玲香、佐野孝義らと言った彼が設立した松風学校出身者もまた活躍する。
元々の兵力差に加えて士気、将兵の熟練度も相まって柴田軍は戦闘開始から8時間で撤退した。
彼らはその後逃げる柴田軍を追って京、さらに北近江と若狭を制圧。ちなみに丹羽長秀は柴田派についた。別動隊竹中半兵衛率いる7000は安土城、長浜城を制圧。
さらに、織田直轄領の兵を使って織田信孝が領する美濃を攻撃した。
本隊は越前に攻撃を始めた。越前の鯖江で両軍はまた相対した。
松風天馬率いる本隊は数を増やし65000。
対して柴田軍はもう後がない30000。
しかし、ここでも天は天馬に味方する。
彼らの部隊の忍が隠密行動中に松風軍の諜報部隊に捕まって暗号を解読され柴田軍の行動がすべて筒抜けになってしまったのだ。
彼らが布陣している山のもう一つ柴田軍の後続側の山に竹中半兵衛率いる6000がひっそりと布陣。
さらに後続が来そうなタイミングで旗印等を全くつけずに柴田軍の本陣に向かって歩き出す。
先頭には柴田軍の捕虜を並べてバレないようにして近づく。
そして、距離が十数メートルのところで進軍を停止。
柴田軍はどうした?という風にこちらを見ている。
そして、蒲生氏郷が「全軍突撃」と言った。
蒲生軍6000に背後から急襲され柴田本軍12000は大混乱に陥った。
さらに前方から松風天馬の子供の松風玄武が10000の兵で突撃。
二方向から突撃されて柴田軍は持ちこたえられない。
なんとか大将の柴田勝家は士気を鼓舞して兵を戦わそうとするが既に兵は恐慌状態で敗走を開始。
今戦っているのは勝家の近くにいた3000程。
そんな兵力で勝てるわけもなく3000は散り散りになり、柴田勝家は「無念」といい、自害した。
一部の柴田派の部隊は撤退したがそれでもこの戦いで負けたという事実は大きく能登、加賀も落とされ、飛騨、越中も陥落。
同時に竹中半兵衛が攻めていた岐阜城も陥落。
織田信雄領の清洲城、さらに、鳥羽城、霧山御所も開城。滝川一益が領する信濃と甲斐にも北陸と美濃攻めをしていた部隊が合流して侵攻。
いろいろ合わせて100000を越えた。
それが侵攻したのである。もちろん各城の守備隊は抵抗するがこの勢いは止められず飯田、木曾、深志、上原、小諸、海津の城が陥落。
上田城では滝川益重が自害、高遠城では城主仁科盛信が降伏。
遂に滝川一益が守る新府城に迫ろうかというときに滝川一益は降伏した。この本能寺の変から始まるゴタゴタで織田家は国力を失った。
しかし、信長の意思は自分の息子たちではなく彼が育てた松風家臣団によって成されていくことになる。