アフリカ侵略
アフリカ侵略
1803年、日本は日英同盟をイギリス政府と結んだ。これは当時戦争をしないためともうひとつ日本がヨーロッパ市場へ参加するためにイギリスが持つ港を使いたかったためである。逆にイギリスも多くの人口を抱える日本市場に唯一の外国として参加できるのだ。ちなみに当時上流階層ではイギリス文化が流行っておりイギリスから輸出してほしいと日本政府にイギリス製品を日本に入れるように要請があったのだ。二ヶ国間で関税も決められて日本とイギリスとの輸出入が始まった。これにより、日本ではヨーロピアンカルチャーである洋服や、洋食、イギリス流文化が大きく流行った。ちなみにイギリスでもジャパニーズカルチャーが世間を席巻。日本でイギリスの紅茶文化や、甘い砂糖菓子が流行ったように抹茶やうどんなどがイギリスでも流行った。輸出入が大きくなるにつれて日本も欧州側に植民地がほしくなった。そして、当時どこの国も注目していなかったアフリカに目をつけた。日本政府はイギリスからもらった世界地図を見ていくつかの場所をピックアップした。中継港は現在ムンバイとカイロ、バロセロナなのだが攻め取れるとしたらジブチ、モロッコあたりが中継港になるとなった。また、日本国内の論者達が石油が後に必要になると訴えていた。それらも踏まえてアラブ地域に傀儡国家を立てる必要があるとなった。植民地化しないのはアラブ地域で日本の印象を悪くしないため。こうして1810年にジブチ、と付近のアデン港、1812年にモロッコ北部を植民地にした。また、1815年、現アラブ首長国連邦、カタール、バーレーン、オマーン、イエメンの地域にアラブ共和国が作られた。ちなみにサウジアラビア王国とはまだ仲が良かった。イランとは対立。オスマントルコにも警戒された。それでも日本は中継港をゲットした。イギリスも日本に触発されて1817年エジプト侵略をおよそ80年早く行った。それでも当時はこの程度ですんだ。別に彼らの目的は航路の維持だったので、別に中部も南部も必要なかった。ただ、非常事態が起こった。なんと、帝政スペインの王がスローガン「再び強いスペインへ」を目標に手始めにカリブ海諸国を再び押さえ込み、メキシコにも強いスペイン政府を見せつけ自治を取り上げた。また、アジアにも大艦隊を送った。この時のスペイン国王は賢明でフィリピン奪還とか言ったら大戦争になったのだけどそんなことは言わず当時力を弱めていたジャワ島を侵略した。当然オランダは抗議したがオランダ海軍とスペイン海軍がボルドー沖でぶつかり新生スペイン海軍が圧勝。オランダはベルギーを差し出して降伏した。さらに、侵略は続く。まず、モロッコ南部、そこから南下してスペインの動きに反応して緊急でイギリスが取ったナイジェリアまでを侵略した。サハラ砂漠ではフランス植民地軍と衝突した。まぁ砂漠なのでフランスもスペインも譲歩して国境線が決まった。日本はその後ナミビア、タンザニア、アンゴラも侵略し植民地化した。ちなみにフランスや、イタリア、ドイツも危機感を覚えてフランスがマダガスカル、ケニア、モザンビーク。。ドイツがカメルーンからベルギー領コンゴまで。イタリアはリビアとソマリア、エリトリア。イギリスがこれらに表記されていないところだ。これらは1840年頃までに確定した。
スペイン王は不満だった。当時世界の海洋帝国イギリスと日本が各地で良い領土を持っていた。巨大日本市場に入れるのはヨーロッパ各国まで拡大されたが移民は制限されていたしイギリスは最恵国待遇だった。スペインは領土を欲しがった。しかし、もうそんな場所は早々ない。ちなみに清は当時強い国だと思われていた。そこにスペイン王に凶報が入る。南アメリカ大陸で大反乱である。当時ブラジルがポルトガルから独立していた。南アメリカの植民地は1820年代に彼が一度押さえ込んだのだがまた、起こったのだ。彼は死ぬまで領土野望を持っていたが彼は南アメリカ問題を解決中に死んだ。