新首都開発計画
新首都開発計画
1780年新首都東京の開発が始まった。まず政府は小田原から東海道線を延長して東京駅を現在のところに作った。また、東京を一周する複複線の山手線が作られた。政府機関が霞が関に東京駅の近くに皇居が作られた。国防軍の事務型庁舎が市ヶ谷に。都心の陸軍基地が上野、目黒、品川に建設された。企業群の本社を品川、新宿に誘致。立法議会本庁舎が桜田門に。枢密院が九段下に。商業の店街が銀座に。代々木に公園が。建設された。
1781年に東京まで東海道線が通ってからまず開始されたのは旧江戸城を全取っ替えしてきれいな皇居が整備された。その後鉄道省が山手線を作った。当時は東京、上野、池袋、新宿、目黒、品川、浜松町、有楽町しかなかった。その後東京駅周辺に企業群が立ち、それが銀座、品川の方まで伸びた。有楽町には歓楽街ができて工事労働者の楽しむ場所もできた。国会議事堂が桜田門に作られた。すぐ横に警視庁が作られた。1782年には中央線が八王子まで伸ばされてニュータウン。住宅街が作られた。立川には日本最大規模の立川総合基地が作られた。陸軍の主力部隊が配備された。今までは小田原城内にいた部隊だ。1783年には官庁街はほぼ作られてコンクリート作りの建物が山手線内側には増えた。ちなみにコンクリートは1756年に権田秋喜によって作られたものである。1785年には人口が50万人を突破。山手線内には多くの企業やマンションが立ち、地価が大きく上がった。公園整備や、既にボルタ電池を使った初期型自動車?が出ていたので道路も整備された。山手線を中心に環状1-13号まで整備された。また、南北東西を突っ切る道路も整備された。1787年には私鉄が登場して関東各地の再開発と今まで開発されていなかった土地の開発が始まった。1789年には人口が100万人を突破。東京23区が作られた。東京湾各地でも開発ラッシュになった。多摩川上水と利根川上水が1792年に作られた。さらに、隅田川上水と作られた。さらに、台場湾岸要塞も建設された。池袋と上野を基点に北と東へ線路が伸びた。1800年には東京都市圏の人口は200万人を突破して郊外の開発も進んだ。
京都御所
「なぜ世が移らなければならぬ!!」この日政府の使者が天皇に首都移転に基づく天皇の移動が通告された。そして、天皇は京都から移りたくないと言って駄々をこねているのだ。「もう数世紀ここから離れてないぞ、それを変えるというのか!」政府の使者にキレるが何を言っても決まったことである。宮内省も既に移転を終えているのだ。既に上皇が京都御所に残ることは決まっている。現天皇はここにいる必要がないのだ。そして、彼らは「駄々をこねるなら強制的に連れていかれますがよろしいですか?」そう聞いてきた。そもそも天皇は象徴である。そのため象徴が時代の流れと共に場所を移すことは必然だと政府は考えていた。天皇は抵抗しても無駄だった。天皇は泣く泣く了解し東京に移ることになった。ちなみに、大阪でも首都移転反対デモが起こったが立法議会の全会一致で可決されて首都移転した。新しい東京には東京湾の川崎に東京港が作られた。かなりでかい港である。これは商人によって支持され日本海運のハブ港は大阪の堺から東京港に移ることになる。