東南アジア攻略2
東南アジア攻略2
日本はマラッカカリマンタンラインを敷きそこに海軍の軍艦150隻体制で警備した。
1780年日本は最新式の船を投入した。
八雲型巡洋艦である。
これはイギリス海軍とフランス海軍に大きな打撃を与えた。
また、既に日本も英仏も戦い始めてから早12年。
どちらの国も財政が傾き始めた。
日本でも長引く戦争に厭戦気分が広まり政府には講和を求めるようになった。
日本軍司令部でもこれ以上の戦線拡大は無理だし海軍の被害もそこそこ大きいし、ミャンマーがイギリスによって制圧されたためマレー半島北部では時々上陸兵と守備隊が交戦している。
また、ジャワ島攻略部隊も何度やっても押し戻されて被害が大きいのだ。
なので講和を求めた。
反対にイギリス政府もアメリカ独立戦争で負け始めてアジアに口出してはいられなくなった。
フランスはアジアに植民地が欲しいことから戦争継続を訴えたが日本とイギリスは講和。
イギリスはマレー半島、カリマンタン島を日本の植民地に認めた。
その代わりに日本はイギリスのスマトラ島、ミャンマーをイギリス植民地として認めた。
また、マラッカ海峡は国際海峡にすることとした。
フランスは日英講和に、反対した。
しかしオランダからバリのテンパサルとビマまでをもらって日本と講和した。
フランスは日本は強いことを確認した。
そこで別のところに目をつけたのだ。そう清である。
しかし、それも頓挫することになる。
欧州はフランス革命からの戦乱の時代を迎えるからである。
さて、日本は講和した後国内からの移民をカリマンタン、マレー半島に送った。
また、経済界も新しい植民地に進出した。
政府は欧州の産業革命が始まったとして戦争中の1775年に技術秘匿法の秘匿技術の解放を始めた。
また、蒸気機関車を使った鉄道を国家方針の柱として交通革命を始めた。
まず、大阪と名古屋の間に結ばれた。
また、政府はある計画を始めた。関東の江戸を開拓するという案である。
関東の中心地は小田原だった。
江戸周辺は沼地で開拓されていなかった。
小田原から横浜にかけては開発されていたがなぜかそこだけは、開拓されていなかった。
実は初代名誉宰相松風天馬が江戸は新しい時になるまで開拓するなといったのだ。
そして、政府と立法議会、枢密院は今こそ変革の時だとして江戸から東京に名前を変えて東京新首都開発計画を始めた。
総工費今のお金の価値の100兆円。
大規模プロジェクトだった。
まぁこれは次の話で述べよう。
日本国内の鉄道網はすごい勢いで発展していった。
大阪から名古屋の次は小田原、松本、金沢反対側に広島、下関続き海を越えて九州では博多を基点として各地に。
四国でも同じように。
山陰、東北、北海道でも多く作られた。
オーストラリアでは西部と東部を結ぶ豪州本線がシドニーとパースを結んだ。
フィリピン、台湾、ニュージーランドでも作られた。
鉄道により、日本の交通はさらに便利になった。