産業革命と東南アジア攻略
産業革命と東南アジア攻略
1714年に第六代名誉宰相に松風洋介が就任した。
彼は稀代の発明家だった。
1715年彼の研究室がある広島国立大学で繊維産業を大きく変える洋介紡績機が作られた。
これによって繊維産業は洋服を作りやすくなった。
しかし、政府はこの情報を秘匿することにした。
欧州にバレた場合危険だと判断したのだ。
どうせ欧州でもそのうち発明される。
そう判断して政府内で判断され秘密裏に立法議会の産業育成委員会に提出され欧州ではっきりと産業革命が行われるまで政府内のみで使われることになった。
1723年には真田佑馬がピストン式のエンジンを作ってしまった。
政府は技術秘匿法を秘密裏に施行した。
それからもちょくちょく進展した。
コークス製鉄法を強化した長澤製鉄法も秘匿法に入れられたがそれによって作られた鉄は各地で使われた。
1735年松風洋介の早死ににより第七代名誉宰相松風高虎が就任した。
1740年頃にはエンジンが小型化された。
1750年頃には四川寧々という天才によって蒸気エンジンで動く船が開発された。
これも秘匿されたが速やかに海軍への配備が始まった。
最新式の大砲も作られた。
当時日本はイギリスとの交易でシンガポール周辺を通ったのだがそこでの海賊対策用に敵船撃破用に旧式で狙いにくい陸用改造大砲ではなく海軍用大砲が開発された。
1760年第八代名誉宰相松風蓮が就任した。
1765年日本は新たな移民先として東南アジアに目をつけた。
最後の現内地、当時は制圧地のフィリピンをとってから早100年。
各地で人口が多くなりすぎた。
オーストラリアも沿岸部はほぼすべて開発された。
このような要因で日本は清を刺激しないように院門ではなくマレー半島とカリマンタン島、ジャワ島、スマトラ島を取ろうとしたのだ。
これは当時の名誉宰相と枢密院、立法議会すべてが賛成した。
また、当時1762年に鉄道が開発され兵員輸送が楽になったのだ。
政府は1766年に東南アジア攻略命令を出した。
ただイギリスが史実よりも早く東南アジア獲得に動き始めたのだ。
ただ、それも破綻することになる。
アメリカ独立戦争である。アメリカ独立戦争に兵を送らなければ行けなくなりアジア派兵は取り止めになった。
日本はまず東南アジアの内地化はすぐには厳しいことを知っていた。フィリピンでも80年かかったのだ。
そのためまずタイを抱き込んだ。
日泰同盟である。
当時日本では石炭が重視されていたが一部の科学者の間で石油の重要性が問われていた。
元燃料工学部出身の松風蓮は油田があるカリマンタン島だけはしっかりと内地化するつもりだった。
1768年日本軍はポルトガル管理下のシンガポールを急襲して奪取。カリマンタン島にも軍を送って全域を制圧。
マレー半島ではポルトガルと戦いになったが斜陽帝国ポルトガルは、産業革命と好調経済に巨大な太平洋領土を持つ日本では話にならずマレー半島は日本によって制圧された。
しかし、ここでイギリスが日本の巨大化を阻止するためフランスと共に動いた。
スマトラ島で両軍は激突した。
しかし、日本陸軍は戦闘らしい戦闘をこの戦争で始めてやった新兵も多く防衛線を突破されて撤退。
さらに騎馬隊を使った戦術にも惑わされ撤退を始める。
しかし、これにも技量不足であっという間に追い付かれて被害が出るという繰り返しがスマトラ島各地で行われた。
日本政府は慌てた。
まさか、こんなにも負けて損害が出るとは思っていなかったのだ。
英仏軍はスマトラ全域を制圧し日本の占領下のマレー半島にも攻めてきた。
日本海軍がマラッカ海峡で迎撃するがこちらも練度不足。
しかし、装備の差でなんとか英仏軍を撤退させるがこれが何度も続いた。
日本はその隙にジャワ島を奪取しようとしたがこちらはオランダ軍の激しい抵抗にあい、かいなく撤退した。