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スペイン戦争

スペイン戦争


コルベット新居見が撃沈されたことは漂流した乗組員が高雄海軍基地になんとか戻ったことで発覚した。

速やかに連絡船で大阪に連絡が入り時の自由党内閣の総理大臣土岐川新助は対応を練り始めた。

既に名誉宰相は第4代松風翔太になっていた。

彼は基本的に政治に口出ししなかった。

彼は国内のインフラ強化に尽力していた。

彼は枢密院に今回の一件は行きすぎなければ内閣に一任すると言った。

速やかに内閣主導で枢密院の安全保障委員と立法議会の国防委員会からなるフィリピン問題対応委員会が作られた。

政府は1666年フィリピン侵攻作戦の提示を軍務省に要求した。

軍は半年以内にフィリピン全土を制圧しスペインの侵攻に持ちこたえるという計画を立案した。

日本政府は1667年にスペインのフィリピン総督に宣戦布告を実施した。

そして、日本海軍の500隻からなる大船団がスペイン北部と南部にそれぞれ上陸した。

北部には海兵隊50000。

南部に陸軍の精鋭四個師団が上陸した。

スペインの総督府はまさか本当に攻めてくるとは思っておらず対応をしておらずマニラ、ダバオに二大都市が呆気なく陥落した。

日本政府のフィリピン問題対応委員会は、はっ?

というぐらい唖然としたが計画はどんどん進み半年どころか3ヶ月で全土を平定した。

さらに、フィリピン総督は捕らえられこちらの捕虜になったのだ1668年マカオでマカオ条約が締結された。

これにより、新たにフィリピンが日本領に編入された。

これにより、新たな場所に日本企業は殺到することになる。


1715年日本の広島国立大学で繊維産業からの産業革命が始まった。日本では綿花の需要が急速に高まり生糸の生産量が大きく増えた。1723年ピストン運動を使ったエンジンが真田佑馬によって発明された。

当時はデカ過ぎて用途が限られたが1740年頃には小型化された。

日本は広大な太平洋諸島地域を持っており造船技術も産業革命と共に進化した。

蒸気船が1750年に始めて作られ、1760年には鉄道が作られた。


少し戻して1688年に第五代名誉宰相松風謙二になった。

彼は基本的人権の新権利の更新とフィリピンの統治を進めた。

既に日本国の人口は1600年の2500万人から7500万人まで増えておりその増えた分の多くはオーストラリア、

1670年頃からニュージーランド、太平洋島嶼部、北海道と樺太、

台湾そして、フィリピンで増えた。

本国人口は5000万人を越えて関西の人口は過多状態だった。

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