日本の版図拡大2
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1628年名誉宰相は松風謙介から松風遼に変わった。
彼は遠いオーストラリア大陸よりも近い北海道の開拓を進めた。
当時日本本土は人口が爆発的に増加したので飽和状態になったのだ。もちろん対策として国立大学の農学者達が真島農法を考え出した。
ちなみに史実でいうノーフォーク農法である。
しかし、これでも食料生産が追い付かず東北でも東北内の需要を賄うのに必死になり畿内で米不足及び野菜不足になった。
当時南の島では砂糖や、代用品のとうもろこしが栽培されていたが日本国民は米を求めていた。
日本政府は北海道の開拓を1630年に立法議会の保守党内閣が北海道開拓法が作られて農地開拓が進んだ。
また、日本政府は北海道より北に目を向けた。
海産資源である。当時、肉、魚といったたんぱく質不足も不足していたためである。
これらの施策で樺太と千島列島に移民を乗せて魚を輸送することになった。
また、人を北海道に移住させた。
1638年台湾開拓基本法が時の日本労働党内閣によって可決された。今後20年を目安に台湾を日本の一地方レベルまで振興させること。
また、それに加えて国内で増える人口を将来的に200万人台湾に移住させること。
さらに足りない米を台湾地域で育てることが決まった。
最初はやはり、ゴールドラッシュ中のオーストラリアが人気だった。しかし、既に政府は量を決めながら取り過ぎないように取り始めていたし、砂金は数が多すぎてでかいところしか規制されておらず小さいところもあったけれどそういうところはもう少なくなってきていることを知っていた人達は台湾で商業を興したりした。
1649年、ラバウルから東の島々を制圧していた日本の開拓船の根性丸がサモア、クック、ポリネシア、フィジー周辺海域の開拓エリアで行方不明になったのだ。
当時日本の開拓船がこの島嶼地域に多くいたため海軍による船の安全チェックが行われていた。
この船もポリネシアからラバウル港に戻ると海軍のサモアのアピア事務所に航海予定表を提出していたため海軍による捜索が行われていた。
既に初めの頃ならまだしも航路も確立し商船が迷うことなどほぼなかったため海軍が捜索したところ新たな島を発見した。
カウアイ島である。
現在のハワイ州の西の島に上陸した。
海軍船は2隻で航行していたため一隻がサモアに戻って報告することになった。
島の先住民は何をしゃべっているか分からなかったが日本は既に太平洋の島々を占領していてこのてのことは得意だった。
絵文字会話である。
そして、相手の国の言語をなんとなくわかった船員達による会話が行われここがハワイ王国の一つの島であることがわかった。
この事は発見から4か月後日本政府でハワイ併合が決定され日本本土から艦隊が派遣された。
また、ミッドウェー島を発見しここを中継基地にすることも決まった。
ハワイは太平洋の中心の島であるので地政学的に必要な島になったのだ。
艦隊はホノルル湾に入っていって威圧した。
ハワイ王国政府はあわてふためき対応はごてごてに回った。
その間に海軍の海兵隊はホノルル港を制圧した。
さらに、威圧するとハワイ政府は降伏した。
ハワイ王室は日本本土に子供が。
ハワイに象徴として名誉王が残り国としては日本に併合された。
ハワイ王室は後に枢密院議員になることになる。
1665年各地の移民先でまた、増加が始まった頃台湾の南側の海域で日本海軍のコルベット艦新居見がスペイン海軍の軍艦に撃沈させられる事件が起こった。