戦国期1
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この世界線とは別の新たな世界へ。
戦国期1
長く続いた戦国の世は終焉を迎えようとしていた。
その立役者となったのは後に日本の礎と呼ばれる初代名誉宰相松風天馬。彼が生涯をかけて作った日本の礎。それまでの彼が通った道を見てみよう。
時は1560年。清洲城にある少年が仕官した。
後の宰相 松風天馬である。この時15歳。
彼を引き立てたのは織田信長だった。
彼はすぐ後の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った。
これが最初の彼の功績だろう。
そこから岐阜城攻略戦では竹中半兵衛の調略を担当して彼を配下に加えた。
ちなみにここで彼は信長の妹 お市を娶った。
そこから分かる彼が信長から圧倒的な信頼を得ていたことが分かる。その後将軍義昭が信長を訪ねてきた。
しかし、ここからいや、既に歴史線はずれ始めていたが明確にずれ始めた。天馬は信長に進言したのだ。
「彼は室町幕府を復興させてやっても恐らく我が織田を潰そうとするでしょう。昔からあの将軍の家系は強い大名に対して
畿内の中規模な大名に手紙を送り敵対しろという手紙を送り
政権維持してきました。それが今度織田に向かない可能性は
0ではありません。ここはいっそう将軍の供回りを含めて秘密裏に処理しましょう。私の甲賀者にやらせましょうか?」
と。信長は一考したあとそれを許可した。
これによって上洛を信長はせずさらに将軍は天馬によって秘密裏に暗殺された。
1563年 浅井と朝倉と戦争が起こった。姉川の戦いである。
徳川5000と織田25000と浅井20000と朝倉10000の戦いである。
戦況は当初五分五分だったが、天馬率いる別動隊と忍軍の
合同部隊が小谷城を強襲し制圧。そして、情報閉鎖をして小谷城陥落を知らない本隊を天馬隊7000が後ろ側から浅井本陣を強襲。
それに乗じて本隊と徳川軍が慌てている浅井朝倉先見隊を壊滅させ、本陣に迫る。
しかし、朝倉本隊5000は当主朝倉義景が臆病風を吹かして撤退したのだ。浅井本陣と、右翼左翼あわせて17000は包囲された。
そこで織田軍得意の鉄砲が登場。
浅井軍に向かって四方から撃ちまくった。
浅井軍の騎馬隊と特攻隊が道を切り開こうとするが鉄砲の前に全滅し、本隊は織田軍の降伏勧告に乗り、降伏。
さらに、右翼は突撃を繰り返して全滅。
左翼は徳川軍の猛攻にあい全滅した。
当主浅井長政は天馬の元で陪臣となり、この戦いを主導した久政は切腹となった。勢いに乗る織田軍は六角の観音寺城を攻略。音羽、石部の城を攻略して近江全域を支配した。
さらに、若狭を強襲、制圧した。
1564年春。越前朝倉攻めが始まった。金ヶ崎で朝倉軍を
破ると一気に一乗谷を制圧した。
1565年には加賀までを制圧した。
1566年、伊勢攻めが始まった。総大将織田信雄だった。
彼は確かに才は無かったが身の程をわきまえており、家臣に頼ることができた。
この作戦には前田利家と佐々成政が同行しており伊勢と鳥羽を1567年に制圧した。
1568年伊賀攻めが始まった。既に忍軍によって伊賀忍者と甲賀忍者による戦争が起こっていたが織田軍は50000による攻撃によって伊賀はあっという間に制圧された。この後伊賀者は天馬の指揮下に入ることになる。
1569年遂に上洛戦が始まった。当時畿内を支配していた三好氏に
対して陽動作戦も含めて京の都に30000、伊勢から大和に25000、伊賀から槙島に7000。が投入された。
8月7日京で伏見の戦いが起こった。
三好軍は鉄砲対策に竹束を持ってきていたが
織田軍は新開発された大砲を使って粉砕した。
さらに調略によって松永久秀が三好を裏切った。
これにより、三好の敗北は決定的になった。
こうして、京の都は織田軍に制圧されたのだった。