俺とモイナと小粋な奴ら
都アスンの隣町クヤデに落ち着き、坊っちゃまは定例会準備も着々と進行中。アリュー爺さんのもくろみも着々と進行中?
「くふぁ…」
朝から雲一つねぇ青空。大きく伸びをして、清々しい空気を胸一杯に吸い込む。朝の冷え込みも大分緩んで来たな。春の風が心地いい。今日も良い天気になりそうだ。
中庭のベンチに座ってパイプを一服。この頃の俺の日課だ。
ここの庭は居心地が良い。こんな街中でも鳥が来る。高い塀に囲まれてるわりには風通しもいい。ハイドラも咲き始めたようだな。ぼんやりするには、もってこいだ。
花祭りまであと10日。定例会まで2週間を切った。例の計画も今のところ順調だ。もう、俺はやる事がねぇ。
だがよう…毎日、ブラブラしてると…何か、こう落ちつかねぇ。貧乏性なんだな。身の回りの事は全部、使用人とモイナがやっちまう。メシの支度も洗濯も、薪割りもしなくていい生活。最初は楽だ!最高だ!と思ったがよ、どうもなぁ…俺には向かねぇようだ。暇で、暇で、しょうがねぇ。時間を持て余しちまう。老い先短けぇのに、勿体ねぇ話さ。
屋敷の仕事を手伝おうにも、丁重に断られちまう。
参ったのは、屋敷のモンが俺を「旦那様」何て呼びやがること。どうも、背中の辺りが痒くってしょうがねぇ。こいつぁ、モイナの『当て付け』だ。
「当然でしょ。屋敷の『当主』なんだから、そのくらい我慢なさい。」
文句を言う俺に、涼しい顔でそう言いやがった。まあ、ずっとほったらかしだったからな…仕様がねぇかけどよ。
当主といっても『名義上の』であって、俺にゃあ一切関係ねぇ。屋敷をエルダー爺さんから貰う時に、「名義人は男性名」ってぇ変な法律に引っ掛かるからと、モイナに頼まれて書類にサインした。
それを今更「当主らしく」小綺麗にしろとか、立ち居振る舞いに気をつけろとか口喧しく言われてもなぁ。堅苦しいったら、ありゃしねぇ。勘弁してほしいぜ。
しょうがねぇから、ラキムをからかいに行ってもよ、最近相手にしちゃくれねぇ。掃除なんてやったこともなかった坊っちゃまが、案外楽しそうに仕事に没頭してやがる。まあ、成長してるのが嬉しくもあり頼もしくもあるが…ただ、俺としちゃぁ、正直つまらねぇわなぁ。
それで、せっかく街にいることだし、ちょいと羽を伸ばして馴染みの酒場や賭場に行こうかと思ったんだがよ。即、モイナにバレて大目玉をくらっちまった。ありゃあ、トゥトゥイーに見張らせてやがったに違いねぇ。おかげで小遣いまで取り上げられちまった。ジョルディも金は貸してくれねぇし、参ったぜ。おまけにガキ共まで、クイガン一派に見つかったらどうするんだと説教する始末だ。まるで籠の鳥だな、俺。
ああ、面倒くせぇ。
こんなンだったら、山ン中歩いてた方がずーっといい。気楽だ。モイナには悪いが…定例会が早く終らねぇかなぁ。タスコーに帰りてぇよ。
砦の明け2の鐘(6時)が鳴った。今朝は朝帰りの客もねぇらしい。屋敷は静まり返ってる。モイナは花祭りの打ち合わせに都アスンに行ったまま、まだ帰って来ねぇ。
さてと。こんな機会は滅多にねぇ。ちょいと散歩でも行ってみるか。
さすがのクイガン達も、こんな朝早くにゃぁ起きちゃいねぇだろ。珍しく裏門も閉まってやがる。当直の警備員も屯所の中で居眠り中だ。起こすのも何なんで、ちょいちょいっと鍵をこじ開けて、屋敷を出た。
さすがに街はもう起き出している。この道を真っ直ぐ行けば市場だ。肉入り揚げパンは随分食べてねぇなぁ。熱い蜜茶も悪くねぇ。
まだ早朝だってぇのに市場はえらい賑わいだ。
野菜や果物、川魚や肉、それらを買い求めるカミさん達から、弁当の屋台や露天の食堂で朝食を取る旅装束の商人。巡礼者まで雑多な人々が入り交じる。俺は人の流れに任せてブラブラと歩いた。
昔よりも大分店が増えたなぁ。品物も多くなって賑わってる。その割に歩きやすいてぇのは、道幅を前より広くしたせいpだろう。しかも、女の子どもが一人で買い物出来るってな治安が良い証拠だ。ゴロツキもスリっぽいヤツも見ねぇ。昔とえらい違いだ。
さすがタウルスだぜ。元締めが替わっただけで、こうも変わるもンなんだな。悪名高きナタンの野郎も歯噛みしてるこったろうぜ。お貴族様になっちまったからな。形だけでも元締めを降りるつもりだったろうが、その隙をついたタウルスが市場商人をまとめて元締に収まっちまった。ざまぁみろだ。
「何だぁ?買うのか、買わねぇのか、はっきりいいな!」
ちょいと先の布地の屋台で娘相手に店主が大声を出してやがる。
傍目には怒鳴っているように見えるが、あの店主はただ地声がでかいだけで悪気はねぇ。けど、娘はすっかり縮こまっちまったようだ。俯いたまま動けねぇ。
「ちょいと!そんなに怒鳴るんじゃないよ!娘さん、怖がってるだろ!」
威勢のいいカミさん連中が加勢して店主と喧嘩を始めた。娘はやっと正気に返ってオロオロしていたが、店主とカミさん連中を止めようとして、ふらりとよろけて倒れた。カミさん達の悲鳴。
その時、白いリネンキャップから真っ赤な髪がこぼれた。おやっと思って顔を覗き込めば案の定だ。
「おい、ツェラ!」
駆け寄って抱き起こすと、顔が真っ青だ。目の下にクマ。意識はあるが、動けねぇようだ。こりゃあ、貧血かもな。
「あんたの知り合いかい?」
「ああ」
店主とカミさん達に手伝ってもらって、市場の隅まで運ぶ。
「すまねぇな、助かったぜ。」
若い娘でも俺ひとりじゃぁ、さすがにもう運べねぇ。
「こっちこそ、怖がらせちまって悪かったな。あんたの娘かい?」
素焼きのカップを差し出しながら、店主が声を掛けてきた。蜜茶をわざわざ買ってきてくれたらしい。
「まあ、そんなところだ。」
「そんなわけないだろ!孫だよ、孫!」
…まったく、カミさん連中はどうでもいいことでも容赦ねぇな。
「ありがとうございました。助かりました。」
ツェラは頭を下げる。蜜茶でひと心地ついたらしい。少し顔色も良くなった。
いつもは仕事用の地味な服だが、今日は薄紅色の服を着ているせいか、年相応に可愛らしい。いつもはかぶらないリネンキャップをすっぽりと冠ってンのは、市場という場所柄を意識してンだろう。
「いいさ。俺ぁ、ブラついてるだけだ。こんな別嬪さんと朝から蜜茶が飲めるなんて、今日は得したぜ。」
はにかんだ笑顔をみせるが、目は合わせない。
「ちょっと寝不足で…みなさんにご迷惑をおかけしました。」
人気店だけあって忙しいんだろう。『水盤』から修行の名目で何人かお針子に行ってるはずだが…まあ、他人の手が納得いく仕上がりになるとはかぎらねぇ。難しいとこだな。
「そうかい。若いからって、あんまり無理しなさんなよ。」
はいと素直に返事をして、蜜茶を飲む。屋敷で見かけるツェラは、まっすぐ前を見てキリリとしてた。あれは『営業用』で、実はこっちが素かもしれねぇな。
「ラキムの礼装、見たぜ。えらく立派だった。3割増し…いや、9割増しに男ぶりが上がったぜ。馬子にも衣装たぁ、あのことだな。」
ツェラの顔がまるで花が咲いたみてぇにぱあっと明るくなった。初めて目を合わせて笑う。良い顔だ。
「刺繍も生地も黒一色てぇのがいい。襟元のシャツの白とアイツの松明みてぇな髪がよく映える。」
そうでしょう?って目が言った。灰色の大きな瞳がキラキラしてる。
「あまり色を使わない方が映えると思ったんです。」
職人の顔になってツェラは続けた。
「髪の色と瞳の主張が勝ってしまうので、他の色だと野暮ったくなったり負けてしまうんです。黒も主張が強い色ですし、何より赤と緑が引き立ちます。細身なので頭がアクセントになれば、より身長も高くスタイリッシュにみえますもの。」
誰かに聞いて欲しかったのか、ツェラは夢中で話している。いいねぇ、思わず見とれちまう。若さってなぁ…眩しもンだな。
「ヤツも、満足してたろう?ちゃんと礼は言ったかい?」
ラキムは生意気なボンボンだが正直だ。自尊心は強いが自分の否を認めないほどバカじゃねぇ。さて、どんな顔をして礼を言ったか、さぞ見物だったろうぜ。
してやったりと自慢気なツェラの返事を待っていたが、返ってきたのは沈黙。
見れば、ぼうっとした表情で押し黙っている。
「ツェラ?」
声を掛けると、途端に顔が真っ赤になった。何だ?何か、あったか?
「あ、ええ、ええ、そう。ちゃんとお礼を言ってくださいましたし、ご満足いただけました。このまま仕上げます。ええ、…ご、ご満足いただいて…。」
そこで、また何かを思い出したのか沈黙。おやぁ?これは、もしかして…
ツェラは突然立ち上がった。その拍子に持っていた蜜茶も落としちまう。
「あ、ああ、ごめんなさい!私ったら…!」
「ああ、いいさ、どうせ捨てるもんだ。それより大丈夫かい。」
「あ、はい。あの、大丈夫です。私、まだ買い物があるので失礼します。今日は本当にありがとうございました。後ほど、お礼に伺います。」
いやいや、と言ってる側から「それでは失礼します!」と駆け出して行っちまった。何とも忙しなく、俺の目から逃げるように。
…ははぁん、ラキムのヤツ、何かやったなぁ?こいつは面白れぇことになってきやがった。小さくなるツェラの背中を見送りながら、思わず顔がニヤついちまう。ほんと、若えぇてなぁ、いいもんだ。
「あんたが想像してるような事は、何もないよ。安心しな。てか、残念かな。」
すぐ後ろで声がした。ギョッとして振り返る。やっぱり、こいつだ。
「…トゥトゥイーよ、俺は年寄りなんだ。心の臓が止まったらどうする。」
「そんなタマかよ。」
チャラリと笑っているが相変わらず、朝の日射しが似合わねぇヤツだ。
「坊っちゃんはね、『前言撤回する、君が正しいかった。素晴らしい。ありがとう。』といって、片膝ついて彼女の手を取ってキスしただけ。」
うっは!礼儀正しく手に接吻!どこの御貴族様だよ。まあ、ヤツらしいっちゃ、らしいわな。
「ツェラは『では、5日後に。』と彼の前では素っ気なかったけど、動揺を抑える気力もそこまで。彼が帰った後、やたら物は落とすは、ドアにぶつかるはでフラフラしながら帰って行ったよ。」
キャー、ウブだねぇ。爺ちゃん、照れちゃう。
…けどよ。
空は一面の青。まさに青春だねぇ。かわいいじゃねぇか。
「送ってやらなかったのかい?ノーク女史。」
「それは、彼女の仕事じゃないさ。替わりにクートフさんに頼んだ。それより、俺がどうしてここにいるか、わかる?」
「あぁ?」
トゥトゥイーは無言で指差した。黒ひげのでかい身体が、人波をかき分けながら猛然とこっちに向かっているのが見える。…ありゃあ、まだ居やがったよ。
「お前、もうちょっと早く…」
振り返るとトゥトゥイーのヤツ、もう消えやがった。チクショー、何て薄情な野郎だ。
…待てよ。今日はヤツ一人だ。他の奴らは見あたらねぇ。村に返したか。まあ、滞在費用はバカにならねぇからな。さりとて、娘を置いては帰れねぇ。そんなところか。
…これは好機かもしれねぇな。逃げるのは簡単だが、この先、しつこく絡まれるのも厄介だ。例の件も控えてる。ここは、一度ケリを付けておくべきかもしれねぇ。
コンコンと、杖で地面を叩く。
まあ、こいつもあるし何とかなるか。
「よう、クイガン。早いじゃねぇか。朝飯の買い出しかい?」
顔を真っ赤にして、荒い息を吐きながら俺を睨んでやがる。相当怒ってンなぁ、こりゃあ。
「てめぇ!ラシュアをどこへやった!返しやがれ!」
いきなり大音声で怒鳴りやがる。生地屋の店主も顔負けだぜ。元気なこった。
「うるせぇなぁ、耳は遠くなっちゃいねぇよ。そんな大声は周りの衆に迷惑だ。」
買い物客や店主らが何事かと、俺らを見ていた。市場ってのは、野次馬が多い。クイガンは舌打ちしたものの、俺の襟首を締め上げる。
「ラシュアを今すぐ返さねぇと、ただじゃおかねぇぞ!借金を踏み倒しただけじゃ飽き足らず、ひとの娘を攫うたぁどういう了見だ!」
何てぇこと言いやがる。それじゃあ、俺が悪人みてぇじゃねぇか。
「人聞きの悪い事いうなよ。俺は借金踏み倒すつもりはねぇし、攫ってもいねぇ。ラシュアが勝手について来たのさ。」
「そんなわけあるか!今、どこにいる!案内しやがれ!」
正直、ラシュアには帰ってもらったほうが面倒がねぇ。ただ、あの娘も頑固だからなぁ。俺はヤツの足を杖で思いっきり突いた。悲鳴を上げて手が緩んだ隙に、払い除けた。襟が乱れを直しながら、ちょいと悪い顔を作る。
「さぁて、そいつは出来ねぇ相談だ。…ちょいと厄介な御仁の家に居るんでな。騒動起こしたら…あんたも俺もただじゃ済まねぇ。」
「…どういう意味だ。」
訝し気に俺を睨め付ける。俺は出来るだけ無表情に言った。
「言葉通りの意味さ。」
「誰だ。」
「エルダー将軍。」
「…しょ、将軍?」
沈黙。疑いながらも用心してやがるな、よしよし。ここクヤデはヤツにとっちゃ他人の縄張りだ。俺がどういう『輩』と親交があるかなんて知る由もねぇ。ヤツがエルダー爺さんを知っているとは思えねぇし、誰かに聞いても『厄介な御仁』で納得する。ちょいと小綺麗になった俺の身形も気にかかるようだ。山賊まがいのマネをしている身にゃぁ、軍人は避けたいよなぁ。しかも今は一人だ。どう考えても分が悪いと思ってくれりゃあいいが…。
果たして、しばらく逡巡した挙句、やがてクイガンは大きなため息をついた。
「わかった。…連れてこい。会わせてくれ。」
「いいだろう、じゃあ、時の鐘五つ(午後3時)に、ここで。」
「ああ。」
案外大人しく帰ってくれて助かったぜ。大きな後ろ姿が少し縮んだようだ。ヤツも人の親ってぇことか。娘の父親ほど哀愁漂う男はいねぇなぁ。猫っ可愛がりに可愛がっても年頃になりゃぁ煙たがられ、挙げ句の果てには他の男に持ってかれちまう。親父がこんなに必死になっても、ラシュアは疎ましいだけだろう。
ーまあ、それも幸せなこった。死なれるよりゃぁマシってもンだ、俺みたいにな…。
「絶対に、イヤ!」
ほらなぁ。ラシュアは俺の予想通りの反応だ。親の心、子知らずってな。
「あたしはヨルーと絶対に離れないよ。オヤジの所なんかに帰るもんか!」
「親父さん、心配してたぜ。一度会って、自分の口からちゃんと断りを入れた方がいい。どっちにしろ、このまんまって訳にはいかねぇだろ。ヤツは俺が攫ったと思ってンだよ。おめぇさんから違うって言ってもらわんことには、疑いは晴れねぇからよ。」
「元々は、さっさと借金返さない爺さんが悪いんじゃないか。」
…ああ言えばこう言う。よくもまあ、ポンポンと言い返すもんだ。クイガンの苦労が偲ばれるぜ。
「まあ、そうだな。この旅の報酬で返すさ。」
「アリューはここの『旦那様』なんでしょ?お金ならいっぱいあるじゃない。」
俺はウンザリめの大きなため息をついた。
「書類上のってだけさ。ここはモイナの城だ。俺のものなんざ一つもねぇよ。」
「マダムに借りればいいじゃない。」
「貸してくれると思うか?」
しばらく眉間に皺を寄せ、俺を眺めながら考える。
「…無理ね。あたしだったら貸さない。」
「ほら、みろ。」
不毛な駆け引きを見かねて、ヨルーが助け舟を出す。
「ねぇ、ラシュア。僕も、お父さんと会って話した方がいいと思う。君の顔を見せて、安心させてあげなよ。」
ヨルーに向き直ったラシュアは、もう女の顔になってやがる。
「酷いわ、ヨルー。あなたはオヤ…父さんを知らないからよ。私が連れ戻されちゃってもいいの?」
恋人に抱きつきながら、涙目(いつの間にか)で仰ぎ見る。ヨルーは、安心させるようにキュッと抱きしめながら、歯の浮くような事を大真面目に言う。
「それは困るけど、君のお父さんの誤解を解かないとね。アリューは大事な案内人だし、大役を前に坊っちゃまがまた騒動に巻き込まれるのは困るよ。それに、これは僕らの将来にも関わることだからね。」
お、出たよ、殺し文句!案の定、ラシュアは瞳を輝かせてヨルーを見つめる。
「何なら、僕も一緒に行ってお願いするよ。」
「ダメよ!そんなの絶対ダメ!あなた殺されちゃうわ!オヤジは何するか、わかんないヤツよ!」
夢から現実に引き戻されて、彼女は必死に止め出した。その激しさに戸惑い、ヨルーは俺に目を向ける。俺も、肩を竦めてみせた。
そこで、やっとラシュアが折れた。盛大にため息を付く。こういうときの反応は親父そっくりだな。
「わかったよ。会えばいいんでしょ。」
うんざりしたように重い腰を上げた。
仕事を抜けるって断って来るよと、洗濯場に向かう。やれやれだ。
「助かったぜ。」
ヨルーは微笑みながら首を振る。温かな笑みだ。
「彼女、愛されてるんですね。」
「そりゃあ、な。一人娘だからな。」
一服付けて煙を空に吐く。白い煙はあっという間に青空に霧散した。
「ところで、親父さんってそんなに怖い人なんですか?僕、不安だな。」
「ああ、お前も会った事あるじゃねぇか。」
「え?」
「クイガンだ。」
ヨルーが蒼白になったのは言うまでものねぇ。
パン!
小気味いい音に、周りで買い物をしていた連中が振り返る。
顔を合わせた瞬間、いきなりクイガンがラシュアを平手で打た。彼女は覚悟してたンだろうな、両足を踏ん張って倒れずに立っている。
ラシュアが口を開きかけた次の瞬間、大男は娘を抱きしめた。顔はくしゃくしゃ。こりゃあ、予想外だったなぁ。こいつが人前で泣くとはねぇ。
「ちょ、ちょっと!よしてよ!恥ずかしい!」
娘にボカスカ殴られても、大きな身体はビクともしねぇ。最後にゃあ蹴りを入れられて、やっと開放した。
「黙っていなくなって、悪かったよ。…その、心配させて、ゴメンなさい。」
案外、素直に謝るじゃねぇか。まあ、反省の色は全然ねぇけどな。クイガンを正面から見ながら続ける。
「で、改めて言うけど、あたし、しばらくこっちにいるから。」
「…バカ言ってんじゃねぇ、帰るぞ。」
娘の腕を掴もうとして、振り払われた。
クイガンは娘と俺を睨みつける。おいおい、俺がそそのかした訳じゃねぇぜ。
「あたし、クヤデで働く。村には帰らない。」
「働くって、お前…」
「もちろん、村のためさ。村にいたって金にならないからね。」
「女のお前がどれほど稼げるってんだ。そんなことは俺に任せろ。」
「けど、ナタンの旦那に断られたんだろ?」
へ?…ナタンときたよ。あんな野郎に金の無心たぁ、とんでもねぇ話だ。そうか、クイガンは俺を追って来たてぇよりヤツに会いに来たのか。可笑しいと思ったぜ。俺はその『ついで』だったわけだ。
「今から少しでも稼ないと、冬越しが厳しくなるよ。」
「だからって、お前がここで働くことはねぇ!俺達が村でのシノギに精を出しゃいいだけだ。」
「ふん、あんなことに精を出したって多寡が知れてるさ。最近じゃあ旅人だって減ってるのはわかってんだろ。ヤバいことになる前に止したがいいさ。」
おいおい、大声で言う話じゃねぇだろ。クイガンが言葉を探してるうちに、ラシュアが叫んだ。
「あたしだって役に立ちたいんだよ!」
クイガンは動きを止めた。黙って娘を見つめている。その目は意外に静かだ。寂寥感をたたえた深い目差し。ヤツがそんな目を向けるのは、多分この娘にだけだ。
ラシュアにしても、ヨルーの話はするなと口止めはしたがよ。即興ででっち上げた理由にしちゃぁ、筋が通ってる。今まで村のことは口にしなかったが、ずっと頭にあったんだろうよ。案外、本心かもしれねぇな。ラシュアは聡い子だ。『百花の園』の自立しようとする女達を見て、影響されねぇわけがねぇ。
だから、つい口を挟んじまった。ああ、俺ってバカだ。
「なあ、クイガン。相談だがよ。俺にラシュアを預けちゃくれねぇか。」
二人の目が一斉に向く。
「俺達がこっちにいるたった3週間だけだ。タスコー村に戻る時、一緒に連れて帰るからよ。」
親子は黙って、互いに睨みあっている。
「意地らしいじゃねぇか、村のために働くってんだぜ。ラシュアはお前ェさんが思うほど子どもじゃねぇよ。自立するにはいい年頃だ。気持ちをくんでやっても、バチは当たらねぇさ。」
ラシュアが畳み掛ける。
「あたしがアリュー爺さんをマラボまで見張って行くよ。帰り道で賭場に寄らないようにさ。」
ちぇ、有り難迷惑なこった。
「…稼ぐって、どこでどうやって稼ぐ。」
しまった!と、思った時には、もうラシュアが答えちまってた。
「洗濯女さ。『百花の園』の。」
「…高級娼館だと?」
ヤバい。案の定、クイガンのこめかみに青筋が立つ。高級とはいえ、娼館にはかわりはねぇ。そんなところで下働きさせられてるなんざ、親だったら許せねぇはずだ。
だが、ラシュアはあっけらかんとしたもんだ。
「そうさ。なんせ高級だからね。あたしら裏方の使用人も、他より給金はいいのさ。」
「…」
ヤツは黙り込んだ。お?怒鳴るかと思いきや、意外に冷静じゃねぇか。クイガンもヤツなりに調べてきやがったな。エルダー爺さん絡みで娼館だってことはすぐにわかる。でなきゃ、こんなに落ち着いているわきゃねぇ。
「心配いらねぇよ。ヤバい店じゃねぇ。俺が保証する。」
「フン、てめぇの保証なんざ、アテになるか。」
鼻であしらわれちまった。
「だったら、ラシュアを信じてやんな。外の世界を見せるのも、親の勤めじゃねぇのか。」
ラシュアを見つめる。負けじと見返す娘に何を思ったのか。
「…勝手にしろ。」
ぼそり、と一言。そのまま踵を返す。歩き出す背に、ラシュアは駆け寄った。
「父さん、ありがとう。」
クイガンの腕に額を当てる。立ち止まったヤツは振り向かねぇが、どんな顔してっか想像は付く。
「…身体に気をつけろよ。」
「うん。父さんも。」
「アリュー!ラシュアに何かあったら、ただじゃおかねぇからな!」
まあ、親心はわかるわな。俺も真摯に受け止める。
「任せとけ。」
歩きかけたが立ち止まり、すぐ俺に向かって戻って来た。
「変な野郎を近づけるなよ。」
「もちろんだ。俺がこいつで追っ払ってやるよ。」
杖をかざしてみせた。まあ、もう野郎は付いちまってるがな。
また歩きかけて、…また戻って来る。しつけぇな!今度は俺の耳元に口を寄せて早口に囁く。
「利息はチャラにしてやってもいい。…だ、だから、百花の園で一席設けろ!」
「アホ抜かせ!寝言も大概にしやがれ!」
…父親の顔も打ち止めらしい。ーったく、百花の園は男の憧れだから、しょうがねぇけどよ。一席いくらだと思ってるんだ?利息どころか、借金チャラにしてもお釣りが来るぜ。
俺の反応を見て、親父が何を言ったかわかったらしい。ウンザリ顔でラシュアが呟く。
「…ホント、男ってバカ。」
…ホント、俺もそう思うわ。
しょうがねぇなぁ。父親の株、下げちまったぜ。
「レイナック卿と話が付いたわ。」
都から戻ったモイナが開口一番、懐かしい名前を投げて来た。早速、一つ目の芽が出た。
「そいつは上々。ご苦労だったな。」
私室のソファーのクッションに凭れるように座ったモイナに、熱い茶を入れて労う。
「花祭りの実行委員長が、あのレイナックのボンボンとはなぁ。俺が歳を取るわけだ。」
カップを受け取りながら、モイナも微笑む。
「『隊長殿に会いたい』そうよ。視察も兼ねて2,3日中に来るって言ってたわ。」
「そうか。そいつは話が早い。」
俺の部隊には変わり種が多かった。町のゴロツキから、有事訓練目的の使用人、田舎のボンボン、全然やる気のない良家の若様まで様々。…まあ、どこの部隊でも持て余した奴らが集ったってほうが正しいがな。
アーロン・レイナック卿もその一人で、剣を振るより踊り歌うほうが上手かった。観劇好きで、見たい演目があれば部隊を抜け出してでも観に行く。翌日帰って来ては懲罰房に自ら入って行くのだから笑える。房内でひとり、昨日観た感動を反芻してたらしい。
そんなアーロンの大のお気に入りはもちろん、歌姫マラエだった。仲が良いペレンを脱走の道連れに通い詰めていたっけ。だから、まあ二人が恋仲だと知った時のショックは大きかったに違ぇねぇ。一週間訓練を仮病で休みやがった。
「ヨルーの出自は伏せてあるな。」
「ええ、もちろん。『朝告げの鳥』候補の品定めを頼んだだけよ。」
『朝告げの鳥』とは、花祭りで夜通し続いた祭りを締めくくる歌い手だ。選ばれれば大変な名誉とされる。今回、領主の宴席にヨルーを歌い手として招集させるためには、打って付けの舞台だ。ただ、売り込みを目論むヤツは山ほどいるわけで、競争は激しい。歌舞音曲の目利きとして知られるアーロンのお墨付きがあれば、選ばれる公算は高くなる。
「ねえ、試しに今夜サロンで歌わせてみない?」
「えらい、急だな。」
「アーロンに聴かせる前に、私達だけじゃなく玄人にも観てもらいたいのよ。」
「ああ、フィラネスやセイララにもな?」
「そう。」
最高位『華』のフェラネスは歌舞音曲に優れている。美と芸術の女神セロネラの化身と称されるほどだ。セイララはクヤデ随一の演芸場の家主で、元は歌い手だった。
「そいつはいい。じゃあ、ヨルーを呼んで来よう。」
「執務室に連れて来て。その前に…」
席を立ちかけた俺の腕に手を伸ばしてくる。
「ご褒美をちょーだい。」
悪戯っぽく微笑みながら、俺を見つめる。こいつは…拒めねぇよな。
「え?ぼ、僕ですか?」
呆然としているヨルーに構わずモイナが話を進める。
「そうよ。今夜サロンで歌って欲しいの。得意な曲2、3曲でいいわ。歌ってくちょうだい。」
「や…でも、僕は素人で、その…」
言い淀む相手に畳み掛けるように言葉を繰り出す。
「そうね、素人だわ。でも、私は貴方ならいけると思うのよ。」
モイナは噛んで含めるようにゆっくりと話した。
「仕事しながら歌ってるわよね。」
ヨルーの顔が赤くなった。今更、なに照れてんだ?いつも仕事しながら歌ってるだろうよ。窓ふきながら、草取りしながら、厩の掃除しながらな。ここに来てから歌う曲も増えた。ありゃあ、サロンから聞こえる曲を覚えたんだな。
真っ赤になって、でも嬉しさを隠しきれない様子のヨルーを眺めながらモイナは微笑んだ。
「じゃあ、お願いね。出来次第では報酬も払うわ。伴奏はリュート。このエディンと一緒に歌を決めなさい。砦の鐘、夜8つの頃に出られるように準備をするように。」
部屋の隅に控えていたエディンがニカっと笑う。
「あの…」
「下がっていいわ。」
徹頭徹尾、ヨルーに断る隙をを与えず話を切り上げた。さすがのお手並みだ。
エディンに背中を押されながら出て行くヨルーは、何か以前と違う妙な感じがした。歌に関しては、もっと自信があったような気がしたが、今日は何やらおどおどしてやがる。
「玄人の演奏を毎日聴いていれば、当然じゃないかしら。むしろ、いい傾向よ。」
事もなげにモイナは言った。ああ、だから有無を言わせなかったわけか。
確かにな。村じゃあ、祭りなんかの時に旅芸人が来るくらいで、その質にもバラツキがあった。屋敷は、毎日選りすぐりの芸人が来て演奏や歌を披露する。目の前で聴けないまでも、同じ屋敷内だ。音は漏れ聴こえてくるからな。耳も肥えるってわけだ。
「今夜は貴方のもサロンに顔を出してね。」
不意打ちを食らう。えー、俺はいなくてもいいんじゃねぇか?
「当然でしょ。御当主様。」
…ああ、面倒くせぇ。
砦の鐘・夜8つ(午後6時)。
サロンはそこそこの客で賑わっていた。
この時間、客と娼妓『睡蓮』達が最初のダンスを終えて一休みする。冷えた飲み物で喉を潤し、今夜のお相手と褥までの駆け引きを楽しむひと時だ。
俺はそれとなく客の間を回りながら、その場の様子を伺う。
このサロンは色々な場面で使われる。商談や密談、根拠の有る無しにかかわらず様々な『情報』が飛び交う。たまーに、剣呑な輩も紛れ込んじまうから、まあ目ぇ光らせてねぇとな。
今夜は珍しく娼妓の最上格『華』のフィネラスがサロンに出てるもんで、ちょいと場がザワ付いてる。『氷の女神』の異名をとるだけあって、相変わらずニコリともしねぇ。
『華』は、ほとんどホールに出るこたぁ無い。客か自分がダンスに興じたい時や、新たな客の関心を引きたい時ぐらいだ。
だから、サロンに出た時の吸引力は凄まじい。一挙手一投足すべてが男心をそそる。まあ、そういう風に修練を積んでっから、当たり前なんだがよ。回りの『睡蓮』達が霞むほどの色香を醸し出す。
そのフィラネスの装いはいつも至ってシンプルだ。確かに、下手な飾りなんぞ必要ねぇ。
結い上げた髪には香り立つ白い小花のひと房。飾り櫛の類いは付けない。ほんのりと緑がかったラッパ型の小さな白い花の群れは金髪を飾り、瑠璃色のドレスにも良く映える。大きく開いた白い胸元から、甘い香りが匂い立つようだ。唯一の宝飾品は、ダイヤの耳飾り。デザインもシンプルながら客からの貢ぎ物だけあって、一級品であることは遠目にもわかる。
ただでさえ男を引きつけて止まねぇのに、今夜のドレスときた日にゃぁ…ちょいと扇情的過ぎやしないか。まあ、客からの貢ぎ物だから仕方がねぇけどよ。周りの男どもにとっちゃぁ目の毒、御気の毒だぜ。
幾重もの繊細なレースで縁取られた胸元は、締め上げられたコルセットから今にも胸が溢れ出そうだ。おまけに動くたびにレースの間から薄紅色が覗くとありゃあ、目は釘付けだわな。
一つのソファでフィラネスに寄り添われて、ご満悦な様子で寛ぐ野郎。このドレスの送り主、ルマー伯爵だ。歳の頃は40半ば。中肉中背、ちょいと神経質そうな黒髪の美男だ。モイナは『こだわりが強いロマンチスト』と言っていたが、フィラネスに言わせれば『まどろっこしい変態』と容赦がねぇ。
しきりに褥へと誘う伯爵に対して、フィラネスはソファーを動こうとしない。セイララがまだ来てねぇからだ。それをいいことに、えらい勢いで酒の杯を重ねてやがる。この女神、実はとんでもない酒豪で酒癖が悪い。モイナが嘆いていた。今の姿をみたら、青筋を立てるだろうぜ。
ふいに、サロンが響めいた。入口を見ると、ド派手なピンク色の固まりがやって来る。セイララ登場だ。
「あ〜ら皆さん、御機嫌よう。劇場に御運びがないと思ったら、こ〜んなところに隠れてたのね。」
バリトンのオネェ言葉が響き渡る。熊のような体格が動くたびにキラキラとビーズが光る様は、なかなかお目にかかれねぇ代物だ。
「こんなところとはご挨拶ね」
振り向くとモイナ…マダム・ルルーシュが立っていた。
「ようこそ、『百花の園』へ。」
「モイナ!」
漆黒のドレスで出迎えたモイナにピンク色の固まりが抱きつく。機嫌良く挨拶をかわしはじめた。この二人、実は大親友…らしい。
カラーン!
フィラネスだった。 飲み干したゴブレットを放り投げ、セイララとモイナを睨め付けている。早くしろと、催促しやがった。無表情の美人てな、怖いねぇ。
それを合図にリュートの音が響いた。いつの間にか、サロンの一角の楽団スペースにエディンが一人座って華やかなリズムを刻んでいる。うん、いいタイミングだ。
その場の空気が和らぎ、音に紛れるように客達は寛ぎ始めた。これを期に娼妓と部屋へ向かう者、ビーク酒で喉を潤し談笑しはじめる者…俺もそれに紛れて退散だ…と思たんだが、
「あ〜ら、隊長。お見限りだったわね〜。」
ヤバい!と思った時、すでに遅し。いきなりヘッドロックを決められる。相手はもちろん、セイララだ。
「お、おう、元気そうだな。」
「この通り、元気よ〜。せっかくだから三人で飲みましょうよ〜。」
言いながら、俺を引き摺って行きやがる。いい加減、腕を放しやがれ!く、苦しい!
ようやく開放されたのは、テラスに近い隅の席だ。楽団スペースからは随分遠い。モイナはもちろん、なんとフィラネスもいやがった。ルマー伯爵は…いない。
「フィラネスよ。伯爵はどうしたい?」
澄まし顔でひと言。
「帰ったわ。」
「やあねぇ、この子ったら。『逃げた』んでしょ。ウチのお客が言ってたわよ。あんた、酔うと相手に『お仕置き』しちゃうんだって?」
ふん、と鼻で笑ってフィラネスは嘯いた。
「あら、その手の趣味人には大好評よ。」
「おお、恐っ!」
セイララが大袈裟に身震いしてみせた。おめぇの方が、よっぽど怖ぇよ。
そういやぁ、さっきフィラネス達のソファーの後ろを通ったとき、ルマー伯爵に花言葉について謎掛けをしてた。
「この花の花言葉をご存知かしら」
「いいや?」
酔いで艶を増した彼女が、伯爵の耳元に唇を寄せる。
「『危険な快楽』ですわ」
そう言って意味有り気に笑った。その時のルマー伯の青ざめた顔!ありゃあ、『お仕置き』を臭わせて、怯えさせてたのか。体よく追い返したわけだ、…怖ぇ女。
リュートの曲調が変わった。
いつの間にか、エディンの傍らにヨルーが立っていた。お、いよいよか。
澄んだ歌声がリュートに合わせて響き始める。
柔らかなテノールは人々の間をすり抜けて、俺達の所まで流れて来た。山ン中で聞いた時より、ちょいと堅いような気はするが、心がすぅと落ち着くような感じはそのままだ。サロンも段々と静かになっていく。耳に心地良い、いつまでも聞いていたいーそんな気分にさせる。ヨルーの声はそんな不思議な声だった。
何気なく振り返って、ぎょっとした。恐ろしく真剣で値踏みするような顔が三つ並んでいた。こいつら玄人の耳にはどう聴こえるかしれねぇ。
1曲目、2曲目と進むうちに、聞き手の三人の表情が変わって来た。セイララは面白そうに、モイナは何か考え込み、フィラネスは無表情のまま酒を呷る。何だ、この反応は。
3曲目の前奏に入った時、フィラネスが立ち上がった。つかつかとヨルーに向かって歩いて行く。おいおい、何をする気だ。止めようとしたが、モイナに止められた。歌に聴き入っていた人々も何事かと顔を上げる。
突然、歌い出しから女声がテノールに絡み付く。絶妙なデュエットが響きだし、えも言われぬ感覚に包まれた。
最初、びっくりしていたヨルーも楽しそうに声を合わせ始める。フィラネスの歌声には力があった。その声と競うようにヨルーの声も強さが増していく。一人で歌っていた時よりも深い響きに満たされる。
こんなの、俺は聞いたことがねぇ。初めてだ。歌の海に浸されて、人々は動きを止めて聴き入っている。
朗々と響き合う二人の歌声が、サロンを包み込んだ。
リュートの音が止んでもサロンは静まり返ったままだった。
歌い手達と奏者が満足そうに笑みを交わしている意外、動く気配がない。後ろで一人が拍手をした。それを切っ掛けに割れんばかりの拍手と歓声が湧き上がった。俺も我知らず手を叩いていた。モイナに気付かれねぇように、目元を拭う。チクショウめ!歳を取ると涙もろくなっていけねぇ。
興奮冷めやらぬ空気がその場を満たしていた。
フィラネスに讃辞を告げようと客達は回りに集まっているが、上気した女神の迫力に誰もが一歩引いている。逆にヨルーは客に揉みくちゃにされていて、とても近寄れねぇ。
一瞬だけ目が合った時、眩しい笑顔が返って来た。いけねぇ、それだけで泣けて来る。良かったな、坊主。ジョルディが上手く客との間に入って行ったのを見て、俺はその場を離れた。
セイララとモイナはさっさと先に引き上げている。しばらくすると、遠くでまたリュートの音が聞こえて始めた。
「なかなか好いんじゃな〜い?」
モイナの執務室で、上機嫌なセイララはゴブレットを受け取る。それに対して、モイナは異を唱えた。
「ちょっと弱いわ。」
「ん〜、まあ、ソロとしてはまだまだね。でも、何とかなるんじゃない?」
3人で酒を煽る。高揚した身体に冷えた酒は心地良い。二人の見解は割れているようだが、門外漢の俺に理屈は関係ねぇ。歌の余韻に浸っていた。
バン!とドアを乱暴に開け、女神が登場。入るなり、酒のテーブルに直行して手酌で呷るに至ってモイナが窘める。相変わらず、いい飲みっぷりだぜ。
「お疲れ様。どう?あんたの見立ては。」
二杯目を注いでやりながら、セイララ。フィラネスは手近な椅子に座った。
「一緒に歌うのは最高。」
とろけるような笑みを浮かべて、椅子にしなだれる。
「でも、あのままじゃ、まだ『朝』は来ないわね。」
ドキリとした。『朝告げの鳥』のことだ。
セイララもモイナも目線で頷き合う。どうやら、ヨルーは失格ではないにしろ、合格点は貰えなかったようだ。う〜ん、俺としちゃぁ納得いかねぇがな。
3人が話し合いを始めたのを期に、俺は引き上げた。ここからは玄人の領域だ。俺がいたって仕方ねぇ。明日の朝、出た結論から考えりゃあいい。
廊下は静まり返っている。遠くからリュートの静かな調べ。ゆっくりと歩を進めながら、ヨルーの歌声を思い返していた。伸びやかに、澄んだ響き。誰が何と言おうと、俺にゃあ最高の歌だった。それで十分だ。
あのままでもいい…と思い返して、いけねぇ、いけねぇ。目的を忘れるところだった。
別棟に向かう廊下に出ると、月明かりが窓から差し込んでいた。手にした燭台を消して、窓辺に寄ると満月。
俺は庭に面したテラスに出た。この時間は誰もいない。月明かりに青白く染まった庭は、別の世界に来たみたいだ。
ゆっくりと白い大理石の階段を降りて、いつものベンチに座る。
涼やかな月の光に、溜まった毒気が抜けてくようだ。思わず、ため息が出た。
満月は何処で見ても変わらねぇ。山ン中でも、街ン中でも、…戦場でさえ、夜空にただ浮かんでる。
そう、ただ浮かんでるだけの月が、見上げる俺の心持ちによって色ンな風に見えるんだから、面白れぇ。ただ綺麗なだけのときもあれば、恐ろしかったり、時に恨めしかったりな。
今夜は、ただ澄んで見える。心が落ち着く。
(次の満月も一緒に飲みましょう。今度は僕が奢りますよ。)
そう言ったヤツは、もういない。
(月明かりが仇になったな、コソ泥。)
腐れ縁の旦那に出会ったのも、こんな夜だった。
(…家に、帰りてぇ…)
そう言ったきり、月を見上げたまま死んだヤツ。お前の分まで、長生きしてるぜ、俺は。
(モイナはもう子どもじゃないわよ、アリュー。受け止めてあげて)
…そう言ったのはエマンだったか。やっぱり、ヨルーの歌声はお前さん譲りだ。余計なモンが入って無え、透明な光みてぇに、心を照らす。
ガザリと、音がして大きな人影が現れた。
「あ!こ、これは失敬」
一瞬、身構えちまったが、相手の驚き顔を見て力が抜ける。
大柄な割にのほほんとした顔。この男、どっかで見た覚えがある。えーと、確か、庭師の手伝いをしてたヤツだ。
「ああ、いいさ。俺は客じゃねぇよ。ところで、こんな夜更けにどうしたい?」
「あ、いや、まあ、その…」
参ったように頭を掻く。ありゃ、俺とした事が野暮なこと聞いちまったか。高級娼館なんざ、なかなか入れるもんじゃねぇからな。仕事で来たついでに、綺麗な娼妓をちょいとでも拝みたいてぇと思うの人情だ。
「残念だったな、この時間にゃあ、もう誰も来ねぇよ」
さほど残念がるでもなく、そうですかと言って笑う。
男はラドゥールといい、大学で農業を教える教師だと名乗った。農業に先生だぁ!?初めて聞いたぜ。何でも、その土地に合った作物を選んだり、肥料を調合したり、病気に強い野菜を作ったりしているらしい。世の中にゃあ、いろんな学問があるもんだな。俺は感心しちまった。長生きはするもんだな。
庭師とは古くからの友人で、毎年春先のこの時期に手伝いに来るのだそうだ。
「あ、そうだ。夜に咲く珍しい花があるんですよ。ご覧になりませんか」
へえ、この庭にそんな花があるとは知らなかった。せっかくだ、見せてもらおう。
案内されて進むうちに、ほのかに甘い香りが漂ってきた。近づくにつれ、香りが強くなる…ん?この香り…
「ヘぇ…」
それは、腰丈ほどの小さなラッパ型の白い花の一群れだった。やっぱりな、フィラネスが髪に差していた花だ。
「蘭の仲間で『月下香』というんです。これは珍しい八重咲きで、香りもいい。夕方から咲き始めるんですよ」
俺は、ちょいと意地悪い言葉を吐く。
「…まるで、娼妓達のようだなぁ」
ふいに、男の顔に影が差す。こっちに向けた目に、ほんの少し怒気が混ざる。「…『花』は、案外強いものですよ。どんな環境でも精一杯生きる。だから、美しいのだと、私は思います」
娼妓を『花』に例えて、儚く弱いだけじゃねぇと庇うか…なかなか粋なことを言う。真摯な目差しが真っ直ぐに俺を見る。うん、なかなか良い眼だ。顔の作りは精悍とはほど遠いが、肝が座っている。どうやら俺の勘が当ったらしい。こいつはフィラネスの『男』だな。
モイナの話しだと、この男の『学資』のために彼女は『百花の園』に入った。こいつは10年を掛けて借金を返済。女のために10年か…なるほど、気骨があるわけだ。まあ、普通の女じゃねぇからな。あのじゃじゃ馬がずっと待ってたてンだから、そんだけ『いい男』なのかもしれねぇ。
そんでこの春、晴れてフィラネスは開放され、アスンの花祭りを最後に館を去るってぇわけだ。
だがよ、美女を娶るてぇのは、案外難しい。しかも、豪商でも貴族でもねぇ男ならなおさらだ。女神に例えられるほどの美女なら、どんな汚い手を使ってでも、腕づくで手に入れたい連中はいくらでもいる。その辺、こいつはどう、思ってるかねぇ。
そこまで考えて、ふと、ひらめいた。
(…もしかして、あれもこれも、うまく行くかもしれねぇ。)
俺って天才かぁ!?
「…なあ、あんた。これから、どうするね」
「え?」
「わかってると思うが…あれを嫁にするてぇのは…大変だぜ」
話しが唐突だったせいか、ラドゥールは困惑顔だ。
「あ、あなたは一体…」
俺は構わず続けた。
「フィラネスほどの美女が娼館を離れるとなりゃあ、男達が放っておかねぇってことさ。下手すりゃあ、あんた、殺されるぜ」
ちょいと脅し文句を言っちまったが、まあ、本当の事だ。だが、ヤツは揺るがない。
「…それは覚悟しています。私達は田舎育ちですし、どこかでひっそり暮らすつもりです。他国へ行ったっていい。二人でなら、何でも乗り越えられるような気がします」
何とも、歯の浮くような真面目な答えに、さすがの俺も毒気を抜かれ…俺は思わず爆笑しちまった。さすがのラドゥールも眉間にシワが寄る。
「悪い、お前さんを笑ったわけじゃねぇよ」
俺は急いで言い足した。
「ただ、あんたの後ろに仁王立ちのフィラネスが立ってるのを想像しちまったら、どうにも…」
「はは、それは確かに怖い。彼女の座右の銘は『ケンカ上等』ですからね」
「あ?俺は『売られたケンカは、楽しく反撃♡』って聞いたぞ。まあ、同じようなもンか」
二人で一頻り笑った後で、ある意味さきが思いやられますと、笑いを納めた。フィラネスはただ美しいだけの女じゃねぇ。肝の据わり方、行動力、判断力、実行力と悪知恵にかけても天下一品だ。確かに、二人なら幸せを勝ち取っていけるような気がする。いや、ぶんどりに行くだろうな。
「なあ、もしまだ行き先が決まってねぇんだったら、あんたに相談したいことがあるんだがな」
「…はい?」
「先月の雨にやられちまった村がある。俺の見たとこ、今から手を打たねぇと冬が越せねぇかもしらん」
ラドゥールの顔つきが変わった。
「あんたの知恵を貸しちゃあ、くれねぇかい?」
<つづく>
さてさて、次はいよいよ花祭り。