僕とヨルーと夜の花達
何とかアリューの隠れ家(?)に落ちついた一行。そこは何と高級娼館!ラキム坊っちゃまが語る高級娼館ライフとは。
「ダメだ、やり直し。」
相手は盛大にため息をついて立ち去った。
屈辱と怒りで、顔が赤くなる。何度目かのやり直しに徒労感が募る一方だ。一瞥しだだけで、何故そう言える!
僕は水の入った桶にモップを乱暴に突っ込んだ。当然水しぶきが上がり、回りの床は水浸し。あーもう!イライラがする。
(こんな仕事、やってられるか。)
ここへ来て、もう三日日だ。言われた仕事を熟しているのに、何度もやり直しをさせられる。そのため、一日の仕事がその日のうちに終らない。何なのだ、これは。イジメとしか思えない。
そもそも石造りのテラスを水拭きする必要があるのか。白く滑らかな石敷をビチャビチャとモップで拭きながら、悶々と考えている。これは無意味なことではないのか。非常に不愉快だ。こんなことは僕の仕事じゃない。使用人がすればいいんだ。
(ああ、早く本が読みたい。)
マダムにああ言った手前、早く取りかからないと目標達成は出来ない。…まさか、そのための仕打ちか。やっかみほど無意味なものはない。
「坊っちゃま。」
顔を上げるとヨルーが立っていた。自分の仕事の合間に、僕の仕事を覗きに来るのだ。
「…その呼び方、止めろと言ったろう。」
つい、ヨルーに当たってしまう。
我ながら情けないが、今の僕には正直、その呼び方も耐えられない。他の使用人や娼妓達が影で笑っているのを知っている。
「すみません、ラキムぼっ…様。」
「…ラキムでいい。」
「え…いや、でも、それは」
「いい!」
「…すみません。」
謝られると余計、自分がどんどん情けないヤツになっていくようで気が滅入る。大きなため息をついて話を替えた。
「これで3度目だ。何が悪いというのだ。」
モップでテラスを叩く。ベシャっと水が飛び散った。ヨルーは自分のブーツにかかった水を見て眉を顰める。
「そりゃ、当然でしょうね。」
少し考えてから、肩をすくめて素っ気なくこう言った。
「濡れた石は滑りやすいですから。それに、絹物は水やホコリで汚れたら、そりゃあ綺麗に落とすのが大変なんですよ。」
目は笑っていない。『雑だ』と言われているような気がした。汚れを落とす?絹物ーああ、そうか。ここは高級だったな。娼妓が絹物を着ていても不思議はない。なるほど、絹物は洗濯をするのが大変なのか。そういえば、礼装用の絹のブラウスを着た時、イーダ(自宅の女中)が汚すなとうるさかった。(ーそういうことか)
じゃあ、と手を挙げて自分の仕事に戻っていった。
ヨルーは決して手伝わない。僕が最初にそれを断ったからだ。仕事を始める前の晩、二人で話し合って決めた。将来、人の上に立つ僕にとっても良い経験になると思ったからだ。
しかし、任される仕事すべてにおいて、ケチを付けられるのには閉口する。
(まず、何が問題か考えろ、ラキム。そこが、第一歩だ)
仕事を始めて気がついた事がある。ウチの下男ヨルーは、かなり優秀な男だということだ。10年以上もウチで働いているから当然と言えば当然だが、全てにおいて仕事が早い。
任されたことは丁寧かつテキパキとこなし無駄がない。薪割り、厩の掃除、庭木の剪定などの外回りはもちろん、部屋の掃除、窓ふき、絨毯干しまでこ手伝っている。とにかく、手が空けば自分から仕事を探すのだ。何と奇特な事よ。まあ、使える助っ人に他の使用人達も大喜びで、すぐに打ち解けていた。
当初は、僕も鼻高々だった。こんな簡単な仕事、ヤツにとっては朝飯前だと思っていたが、…そうじゃない。ヨルーは僕のために頑張っているんだと気付いた。僕の仕事が遅い分、二倍働いて少しでも風当たりを和らげようとしていたんだ。やってみてわかった。床掃除も窓ふきも、薪割りもみんな、結構な重労働だ。未だに身体中が痛い。
昼間目一杯動くからだろう。僕が一日の仕事を終えて、クタクタになって部屋に上がると、もう高いびきをかいて眠っている。
主人を差し置いて幸せそうに眠る姿に、一瞬怒りは感じる。鼻を摘んでやろうと手を伸ばして、ふと思う。
(こいつは10歳からこんな生活をして来たんだな)
ヨルーは両親を亡くして、10歳で妹オーナと二人でウチへ来た。昨日までの遊び友達が、下男になる何て、ちょっと変な気がしたのを覚えている。
文句も泣き言も言わず、いつも黙々と仕事をこなしていたヨルー。水汲みも薪割りも子どもにとっては重労働だ。それを一つ一つ出来るようになっていった。
そんな彼に対して自分はどうだったか。仕事の邪魔ばかりしていたように思う。 年の近い「家来」にふんぞり返っていた。さぞ迷惑だったことだろう。
まあ今更、後悔してもはじまらない。謝ったところで、ヨルーはきっと笑うだけだ。
僕は、自分が思うよりずっと世間知らずだった。この旅に出てみて、よくわかった。まだまだ足りない所が多々ある。父さんの期待に答えるためにも、定例会での大役を果して、一回り成長した僕を見せたい。
ヨルーのためにも、早く仕事を完璧にこなせるようにならなければ。そのためにはまず、『気付くこと』が第一歩だ。それを忘れず積み上げていく。そして、考える。今の僕はそこからだ。
そんなヨルーは、手伝わない代わりにダメなところのヒントをくれる。そこから考えろということだ。今の問題は多分、水の量だ。この滑らかな大理石は、濡れていると本当によく滑る。
ーまず、このテラスがどう使われているか。ここは広間から続いていて広い。よく見れば食べこぼしのようなシミがそこここにありベトベトだ。夜、テラスに出て客と談笑したり、酒や食事を楽しむのだろう。テラスの欄干に凭れたり、庭の芝生へ降りる階段に座り込んだりするのではないかー。
なるほど、そう考えると毎日テラスの掃除は必要だ。もっとモップの水を絞って、ホコリだけでなく、食べ物や酒の汚れも拭き取るべきなのだ。
僕はモップをきっちり絞り、階段から力を込めて拭き始めた。
何とか午前中にテラスの掃除を終え、窓ふきをしていると、
「よう、お坊っちゃま。せいが出るねぇ。」
不愉快な声がする。腹が立つので、完全無視。アリューは僕の態度に頓着せず、上機嫌で勝手に話しかけてくる。普段は貴公子の僕が、使用人をしているのが面白いのだろう。あからさまにからかいに来る。最低なヤツだ。
「手の脂ってぇのは存外取れにくいからな。よ〜く拭き取れよ。」
などと言いながら、今拭き上げたばかりのガラスにベタベタと触る。
「汚い手で触るな!」
思わず声を荒げる。爺さんは悪戯を見つかった子どもみたいに、パッと手を離した。丁度通りがかったメイドが目を剥いて横切る。また噂のタネを蒔いたか。ああ、イライラする。爺さんの手型を落とすのに専念しながら出来るだけ素っ気なく言う。
「用が無いなら行ってくれ。仕事の邪魔だ。」
「用ならあるぜ。仕立て屋が来てるから、モイナが来いとさ。」
仕立て屋!定例会用の礼服を仕立てたいと、マダムに頼んでおいたのだ。
「それを早く言え!」
思わず駆け出す僕に、爺さんの声が追って来た。
「おい、『控えの間・ローズ』だぞ!」
久々に心が浮き立つ。
定例会は3週間後に迫っている。マダムの紹介なら、きっとセンスの良い仕立て屋に違いない。期待に心ときめかせて足を運んだ。
『控えの間・ローズ』は4つある控えの間の中で、一番奥まった所にある。客用ではなく、もっぱら館の用事で使っていることが多い小部屋だ。
ノックをすると、ドアを開けたのはマダムの補佐役のノーク女史。無言で顎で入室を指示された。やはり無言で示された椅子の側に、なんとヨルーが所在な気に立っていた。彼を促して一緒に座る。
(どうして、ヨルーが?)
そんな戸惑いが顔に出たのだろう、彼がモジモジしながら理由を言った。
「…何か、お祖父さんが、服を新調してくれるって言うんで…断ったんですけど。」
なるほど、生き別れだった孫に何かしてやりたいと思ったのだろう。祖父ごころは理解出来る。
座ってから気がついた。隣りの部屋がやけに賑やかなのだ。頭の中で館の図面を広げて、隣りは確か『更衣の間』。なるほど、そこで採寸などをしているわけだ。隔てたドアを通り抜け、女性達の弾んだ声が聞こえて来る。
ふとノーク女史と視線が合った。と、いうか、先ほどからじっと見られている。まるで品定めされてるようで落ち着かない。ノーク女史は年齢不詳、無口、無表情。その上、背がやたら高い黒曜人だ。かなり威圧感がある。そんな彼女がいるだけで、ヨルーと雑談すら出来ない。
その時、ドアが開いて華やかな女性達が溢れ出た。彼女達は僕達を見て一瞬黙り、クスクス笑いながら控えの間を通って行った。そのあからさまな態度に、気分が悪くなる。女というのは、どうしてああなのだろう。噂好きで、おしゃべりときている。一人では大人しくても、二人以上になるとペチャクチャと喧しい。
「じゃあ、ツェラ、またね」
その甘い声音に思わず顔を上げると、世界は一変した。
煌びやかなガウン姿で部屋から出てくる女性…彼女を見た瞬間、周りが消えた。ふわりと花の香りが鼻孔をくすぐる。
薄紅色の光沢のある絹地に金糸銀糸とビーズで刺繍された花々から香るようだ。長い金髪は結い上げてもいない。あろうことがガウンの下はシフトドレス(下着)だけ。まるで、起き抜けのマナー違反なだらしない格好なのに、振り向いた彼女は気品を備えていた。まるで薔薇の精のごとく、香り立つ。
新緑色の瞳と薄紅色のぽってりとした唇、白い顔を縁取る波打つ金髪。美の女神が降臨したかのような、その「美しさ」は圧倒的で我知らず息を飲む。
彼女は僕らの存在を気にとめもせず、そのまま部屋を後にした。
バタン!
音高くドアが閉められた。せっかくの夢見心地が霧散する。大きなため息がもれた。最初に出て来た女性達とは明らかに「格」が違う。
多分、あれがこの館に三人しかいないという最上位の「華」だ。初めての邂逅に感動すら覚える。ノーク女史はそんな僕らにおかまいなく、やはり無言で更衣室を指す。僕らはギクシャクと隣室に向かう。
更衣室に入ると小柄な女性が一人、立っていた。
(綺麗な赤だ。)
率直な印象だった。これほど鮮やかな赤毛は珍しい。僕と良い勝負だ。きっちりと引っ詰めることで、その色が美しく際立つ。ただ、惜しむらくは眼鏡の奥の冷ややか過ぎる灰色の瞳。まるで親の敵を見るような険がある。仕立て屋の助手だろうか。
「後はこの二人よ。」
後ろで低い声がした。ノーク女史も何故か付いて来ている。ああ、そうか。見ず知らずの男二人と一つの部屋に居るのは、レディにとって好ましくない。ノーク女史の配慮だ。
「はい、畏まりました。男性用の礼装一式と上着とズボン一式ですね。仕立て屋「風衣」のツェラです。よろしくお願いします。早速ですが、採寸いたしますので上着を脱いでいただけますか?」
僕は戸惑った。まさか、彼女が?
「え、あの、仕立て屋って…君が?」
「はい、私ですが、何か?」
無理矢理笑っているが、目が笑っていない。纏う空気がピリっとする。勘に触ったようだ。
だが、女性の仕立て屋など聞いたことがない。しかも、男性の礼装を仕立てるなど…僕はドレスを注文するわけじゃないぞ。
「この子はね、クヤデで一番人気の仕立て屋よ。ご不満?」
「いや、その…」
躊躇していると、ノーク女史が前に立ちはだかった。
紫の瞳に射すくめられる。この館はなんて黒曜人が多いんだ。僕より上背があるノーク女史の無言の圧力に抵抗出来るはずがない。
「…異存、はない…です。」
彼女は手際よく採寸していく。手の届かないところはノーク女史が手伝った。
だが、僕としては納得がいかない。いままでの仕立て屋と、手順が違い過ぎる。
「はい、終りです。お疲れ様でした。では、一週間後に仮縫いに伺いますね。」
え?ちょっと待て、冗談じゃない。
「ちょっと待て、デザインは君が決めるのか?」
僕の一言に一瞬動きが止まる。坊っちゃま!とヨルーが袖を引く。
「ええ、そうですが、何か?」
ゆっくりと振り向きながら、軽蔑の色もあらわに僕を睨め付ける。
何なのだ、その態度は。僕は客だぞ。その好みとか、意向を聞くのが普通だろう。睨まれる筋合いはない。
「僕にも好みがある。先にそれを聞くべきだろう。表地と裏地の見本帳を何故見せない。忘れて来たのか?」
彼女は、やれやれというように首を振り、ゆっくりと眼鏡を外した。
「貴方のセンスでは、見せるだけ時間の無駄ですわ。」
え?あまりの言われように、思考が止まる。
「ご安心下さい。マダムの紹介ですから素材がどうあれ、マトモに見られるようにはして差し上げますから。」
「はい。そこまで。」
思わず身を乗り出した僕と彼女の間に、ノーク女史の大きな身体が割り込んだ。
「二人とも、いい加減になさい。ツェラ、言い過ぎよ。」
女史に窘められて、口を尖らせる。子どもか。
そして、向き直おり、
「ここに居たいなら、貴方も、先入観を捨てることね。」
男のような低い声で、僕を恫喝した。
大きな音を立てて、控えの間のドアが閉ざされた。
怒りの持って行き場がなくて、思わず足を踏み鳴らす。何なんだ、何なんだ、何なんだ、あれは!
「早く仕事に戻らないと…。」
僕が向き直るより早く、脱兎のごとく駆け出すヨルー。怒りの捌け口にされると思ったのだろう。さすがに察しがいい。実際そうしようと思っていたので、逃げられては仕方がない。不機嫌ながらも仕事に戻る。窓ふきの続きをしながら、頭の中は悪態で一杯だ。
睨み付けて来た大きな灰色の目。あんなに地味な形で、デザインは任せろとは笑止千万。マダムの紹介だが、仮縫いが気に入らなければ、彼女の目の前で足蹴にしてやる。
空に赤味が差し夕闇が迫るにつれ、開店準備で館は活気づく。
娼妓達は化粧や衣装に余念がない。厨房や、給仕係の動きも慌ただしくなる。廊下とシャンデリアに火が点され、闇に沈む街とは裏腹に明るさを増して行く。
僕ら使用人が一日の仕事を終える頃、館には客の到来を告げる声が響き渡る。
怒りながら集中したせいか、いつもより早く仕事が片付いた。中庭の松明に火を点し終えれば、今日は上がりだ。屋敷の壁に沿って使用人用の出入口へ向かう。今夜は念願の『図書室』に行けるかもしれない。
サロンから楽士達の調べが聞こえる。
僕はこの時間が好きだ。ここに集う楽士の演奏は素晴らしい。それを毎日聴けるなんて、村では考えられない贅沢だ。どんなに気持ちが塞いでいても、音楽は心を癒してくれる。今夜のスタートはリコーダーとチェンバロ、打楽器で陽気な曲を演奏していた。
口開けは景気付けのために明るめの曲から始め、ダンス曲、合間に娼妓たちの詩の朗読や、歌声の披露があり、段々と落ち着いた曲に変わっていく。夜が更けてくる頃、リュートの独奏が低く静かに流れる。誰が弾いているのか知らないが、そのリュートが絶品なのだ。いつ聴いても耳に心地良い。流れるようなその響きは、聞き飽きることがない。いつか、目の前でじっくりと演奏を聴きたいものだ。
突然、建物の角から人が走り出た。
咄嗟のことで避けきれず、僕はバランスを崩しその場に尻餅をついてしまった。
「わりぃ!大丈夫、ですか?」
相手は少年だった。大事そうにリュートを抱えている。しゃがれ声は声変わりだろうか。敬語を使い慣れないらしく『ですか?』は取って付けた感じだ。
「ああ、すまん。僕もぼんやりしてた。」
差し出された手を借りて、立ち上がる。と、相手と目が合った。ん?…どこかで見たよな…
「あっ」
先に思い出したのは彼だ。
「あンた、あン時のあンちゃんだろ!俺の替わりに蹴られてた。」
彼はそういって破顔した。この健康的な黒曜人の少年は何を言っているのだ?
「何だよ、ババアのお世辞を真に受けて、遊びに来たのかよ。ちゃっかりしてんな。」
「何の話しだ?僕はここで働いている。」
不愉快だが、僕の形を見て納得したらしい。な〜んだ、そうかと、屈託がない。が、しかし、慣れ慣れしく話す彼に、まるで覚えはない。しかも、街でのやり取りを、何故知っているのだ。
そこでやっと、僕が訝しんでいることに気付いたらしく、眉を顰めた。
「なんだ、もう忘れちまったのかよ。この前、街で助けてくれたじゃン。」
確かに、街で助けた。でも、あれは少女だ。髪も短いし…でも、確かにこの顔は少女そっくりだ。まさか…
「あれは、オ、レ、俺だよ!」
…数秒、言葉が飲み込めなかった。
「!!!嘘だろ!?」
どこから見ても少女だったのに!少年はハスキーな声で愉快そうに笑った。
「ヤバかったぜ。ここ来てすぐ、声変わりが始まっちまってさ。ここ着いてからで、本当に助かったよ。あの女衒達にバレたら、袋たたきに合うどころの話しじゃなかったもんな。」
ということは、マダムは彼を男と認めた上で、そのままここに置いているのか。今まで一度も合わなかったとういうことは、使用人ではないらしい。
「こいつの腕を買ってくれたからさ。俺も今、ここで働いてンだ。」
ポンとリュートの底板を叩く。そこで思い出したとばかりに慌て始める。
「ヤベっ!急いでたんだ、またな、あンちゃん。」
「僕はラキムだ。」
駆け出しながら「エディン!」と叫ぶ声。彼の名前だろう。
大分薄暗くなった中庭を迷いなく走る後ろ姿を見送った。驚かされたけど、気分は悪くない。笑顔というのは、良いものだ。
今夜はヨルーと一緒に夕食を取れそうだ。エディンのことも教えてやろう。きっと驚くに違いない。
使用人用の食堂で遅い食事にありついた。まあ、僕にしてはこの三日間で一番早い。
「今日は鴨肉のスープだそうですよ。」
食堂の入口で待っていたヨルーが嬉しそうに言う。鴨肉は彼の好物だ。久々に一緒の夕食も嬉しい。
ここの賄いは、最高だ。宿場の料理なんて足元にも及ばない。これは、ちゃんとした料理人が手間をかけて作った味だ。普通なら、使用人が食べられるものではない。食事を運んで来てくれたメイドが自慢気にいう。
「美味しいでしょ。ここのはね、賄いも料理人がちゃ〜んと作ってくれるのよ。」
彼女の話によれば、都アスンの高級レストランで修業を積んだ料理人だそうだ。高級食材の使わない部位を無駄にしないためらしい。合理的な上、使用人も恩恵に預かれる。優れた料理人だ。
僕らが久々に楽しい夕食を取っていると、ヨルーの隣りにドサリと座り込んだ者がいた。ラシュアだ。
結局、クイガンの元に帰らずに、洗濯女をしている。だが、かなりの重労働のようだ。自分のスープを運んできたはいいが、座ったまま動かない。僕を見ても不愉快な一瞥をくれただけで、いつもの悪態は出ない。
「お疲れ様。大丈夫?」
ヨルーの問いにも、弱々しく笑い返すのがやっとのようだ。
娼館だけあって毎日の寝具の洗濯は欠かせない。その他に洗濯後のシーツの糊付、娼妓達の下着の洗濯から繕い物、染み抜きまで大変な量だ。そんなに大変なら辞めて、とっととマラボに帰ればいい。
ヨルーの趣味もわからない。彼女のどこがいいのだ。確かに、豊満な身体つきはしているが、教養がないくせに口が悪い。料理はまあまあだが、それにしたって素人だ。
ふと、思い出した。僕が危機的状態に陥っていた時、この二人は隣りの部屋でいちゃつていたんだ!何て事だ。とんだ不忠者ではないか。主人の貞操…もとい危機より女か!…まあ、…まあ、女だろうな。
僕が不機嫌な時に、決まって現れるヤツが食堂に顔を出した。いつもながら、なんてタイミングだ。
「今日は夕飯に有り付けたようだな」
ニヤリと笑うアリュー。当然のように僕の隣りに腰掛ける。いつもの小汚い格好と違い、ここに来てから地味だが上等な服を着ている。服が変わっただけで、それなりに様になっているから不思議だ。
無視したいところだが他の使用人の手前、無下にも出来ない。それに、あの生意気な仕立て屋について聞きたいこともある。
「あら、旦那様、お食事は?」
通りがかったメイドが気軽に話しかけて来た。
「俺ぁいいよ、エルカ。すまんな。その代わり、悪いがビーク酒をちょいと一杯頼めるかい」
「ま〜た、マダムに叱られますよ。」
「大丈夫だって。客の奢りだって言っとくさ」
知りませんよと、言いながらも厨房に向かう。
ここの使用人達は、何故かみな爺さんに優しい。どこにでもフラフラと出入りしているが、咎め立てされたのは最初の晩だけだった。
しかも皆、爺さんを「旦那様」と呼ぶ…信じたくはないが、やはり噂は本当なのだろうか。爺さんがあの美しいマダムの…信じたくはないが、その…所謂、夫というのは。
不快な思考を振り払い、別の疑問をアリューに向けた。
「あの仕立て屋は何なのだ?」
「あぁ?ツェラか?赤毛の可愛い器量良しだ。お前の好みか?」
「違う。」
女性の話をすると、どうしてそっちの方向にしか考えない。低俗な思考回路だ。
爺さんは暫く無言で俺を見た。
「腕は確かだぜ?何が気に入らない」
「生地見本も無く、僕の意向も無視だ」
ことの顛末を語ると、爺さんは納得したように笑った。
「まあ、一週間後を楽しみに待ちな。それより、ほい」
目の前にチャリンと鍵が差し出された。
「お待ちかねの鍵だ。無くすなよ」
目を見張ったまま、動かない僕に爺さんは続ける。
「砦の鐘6つ頃に食事を取れるようになったら、渡してやれとモイナから言われたのさ」
「良かったですね、坊っラキムさん」
隣りでヨルーも嬉しそうだ。
やっと…やっと本が読める!
「何だ、いらねぇのか」
感慨に浸って、鍵を受け取らない僕に呆れて、爺さんは鍵を引っ込めようとする。
「ありがとう!アリュー爺さん!」
ガシっと鍵ごと爺さんの手を握り、僕は心を込めて感謝した。
「うへぇ〜、気持ち悪ぃ」
いつもと違う反応に、鼻白んだ爺さんが呻いたのは言うまでもない。
その扉は軋みながらゆっくりと開いた。
古い本の臭いを胸一杯に吸い込む。ああ、何て落ち着くんだろう。
ランタンを持って中を窺う。室内は暗い。足を踏み入れると、左奥の中テーブルにランタンの光。誰か突っ伏しているのが見えた。ドアは施錠されていなかったので、先客らしい。どんな人なのだろう。好奇心から近づこうと向かう途中、手前の小机に腰を打つけた。
ガタン
音に弾かれたように顔を上げる。手元のランタンに照らし出された姿は、ブルネットのもしゃもしゃの長い髪の女性だった。煌びやかなガウンが光る。どうやら娼妓のようだ。
「今何時?」
「え、ああ、砦の鐘がさっきなりました。」
「…そう。時の鐘はまだね。」
言うが早いか立ち上がるや、右壁目掛けて猛然と駆け寄り脚立に取り付いた。
「ランタンを!」
有無をいわせぬ迫力に僕も駆け寄り、ランタンを下から掲げた。目的の本を選び出し、パラパラ捲り、数瞬読んで戻す。二度ほど同じことを繰り返し、4冊目はザッと読んで頷いた。持ってそのまま降りて来る。
その時、扉が乱暴を開け、誰かが飛び込んで来た。
「ミア様、時間です!そろそろカゼラス様がお着きになりますよ!」
「いいわ、ジュラン。これ、部屋に運んで頂戴。」
ジュランと呼ばれた若い女性の両腕にドサドサと本や巻物を乗せて行く。重い!と叫ぶ彼女を残しミア嬢は軽やかに部屋を出て行った。
「あの、手伝いましょうか?」
見かねて申し出たが、ジュランは苦笑いを浮かべた。
「有難いけど上は客以外男氏禁制よ。ランタンの始末だけお願いします。あ、そこのテーブル、そのままにしてて下さいね。また使いますから。」
来た時と同じ勢いで扉を閉めて出て行った。
また静寂が訪れる。遠くから楽の音が微かに届く。
暗くて良く見えなかったが、彼女も豪華なガウンを着ていた。御付きらしいジュランがいるという事は、彼女も上位の娼妓なのだろうか。
昼間に出会った『華』とは違うが、本を読む真剣な眼差しは凛とした美しさがあった。
僕はそっと、先ほどの書架に歩み寄る。ランタンで照らすと、革張りの背表紙に金文字が浮かび上がった。彼女が先ほどまで選んでいたのはドムナ公用語の歴史書の棚だった。
興味を引かれ、今度は山積みのテーブルに向かう。置きっぱなしのランタンに照らし出された本は、大陸行路、地学、歴史、兵法、軍事と分けて積まれていた。
僕にとってはとても興味深い本ばかりだが、女性が好んで読むものとは到底思えない。
(ここは私達の武器庫よ。)
(先入観を捨てることね。)
マダムやノーク女史の言葉が蘇る。
そうだ、女性がそういう本を好きでも構わないんだ。軍人の客が多いのかもしれないし、相手を飽きさせないためにも知識は必要になる。
僕だってオーナに本を選ぶ振りをして物語を読んだり、詩集を読んでいた。美しい詩に心動かされるのに、男女の区別はない。
それに、本を読むのは楽しみのためだけではなく、必要な知識を身に付けたいからだ。将来、タスコー村を守るために過去の歴史を知ることで、隣り合った郷士との付き合い方を見出したり、各地の特産物を知ることで、農作物の種類を増やすことも出来る。諍いの仲裁、祭りの飾り付けや、儀式に至るまで本は何でも教えてくれる。
娼妓のランタンを消す。
より闇に沈むこの部屋が、無限に広がる小さな宇宙のように僕を包み込んでいた。満ち足りた気分だ。
時間は砦の鐘10がなるまで。さて、どこから読み始めようか。
それから一週間、僕は満ち足りた日々を送っている。
意外にも、仕事にも良い効果が出ていた。早く図書室に行くために効率的な手順を考え、丁寧な仕事を心掛けた結果、無駄なやり直しがなくなったのだ。おかげで、次の仕事に取りかかるのも早くなり、別の仕事にも手が回るようになった。
他の使用人の態度も少し柔らかくなったような気がする。新しい仕事を教えてくれたり、任せられるようになった。以前なら、仕事を増やされたと憤ったと思う。でも今は不思議と悪い気がしない。
出来ることが増えるというのは、視野が広がることに繋がる。同僚の仕事の配置、進み具合をみて、まだ手が付けられていない仕事が見えてくるのだ。自分が出来ることなら、その仕事をすればいい。ヨルーが無駄なく仕事をこなせるのはこのためだったのかと納得する。
世の中には知って無駄なことはない。本だけではわからないことも、仕事によって得られることもある。実に清々しい気分だ。
仕事の合間にちょっと息を抜けるようになった頃、エディンが顔を出すようになった。いつも、他愛もない話しをするのだが、これが結構面白い。
まず、聞いて驚いたのがここの娼館の仕組みだ。
普通、娼館は女衒から女児を買う。健康状態や器量を検分して、まずそこで振り分ける。この振り分けによって、その後の人生が大きく左右される。一般的には下働きから始め、初潮を迎えて客取る。そして本人の努力なくして決して階級は上がれない。一方、健康で器量が良いと上級娼婦の部屋付きとなり、時期上級娼婦となるべく修行をする。客を取る場合も、後々を考えて客は吟味される。ざっくりいうとこんな感じだ。
エディンの話しによれば、ここは全然違うらしい。
女衒が女児を連れて来るまでは同じ。そこで、マダムが吟味して数人を選んで預かる。一週間滞在させて、その中からさらに選んで買い取るというのだ。
面倒な事だが、あまり器量の良くない子でも高値で買い取る場合もあるので、女衒もしぶしぶ承知するらしい。
ここでの『階級』は3段階。「ペンタス(小花の名前)」「水盤」「睡蓮」「華」である。マダムの眼鏡にかなった女児は「ペンタス=見習い」となり、「水盤」や「睡蓮」、場合によっては「華」に付いて1〜2年を過ごし、資質を見極められた上で「睡蓮=高級娼婦となる者」と「水盤=それ以外で店をサポートする者」に分けられるという。「水盤」と「睡蓮」は同格。
「え、娼婦にならなくてもいいんだ」
「そ。な、面白れぇだろ。だから、男でも役に立ちゃあ関係ねぇのさ。」
エディンは姉の身代わりに化けてここへ連れてこられたらしい。バレる前に一家離散して逃げればいいと思っていたそうだが、それでは意味がないとマダムに諭されたという。
「せっかく腕があるんだから、もっとちゃんと音楽のことをここで勉強しろって言われた。」
ただし、店の子に手ェ出したら玉ぁ取るって脅されたとカラカラと笑った。片時も離さないリュートを撫でる。
確かに、街で娼婦を拒否するエディンに『それ以外で借金を返す方法を一緒に考えよう。』とマダムは言っていた。
しかし、その後のエディンの言葉に衝撃を受けた。「睡蓮」の上はもちろん「華」。「水盤」の上は…「独立」だという。信じられない!
「みんなの話だと『水盤』や『睡蓮』を5年もすりゃぁ、ほとんどが借金を返し終えちまうってさ。高級娼館ってすげぇよな。」
娼館とは、女性を金で縛りボロボロになるまで働かせて、身請けされるか年期が明けなければ店を出ることも叶わない。病気になって死ぬ者も多い、過酷な場所だ。
だが、ここは違うらしい。客を取らなくてもいい娼館なんて聞いたこともない。
『水盤』は娼館に必要な職種を自前で賄うための養成機関のようだ。衣装、料理、医療、教養及び礼法、歌舞音曲、財務まであるという。
将来性があると認められれば、マダムの人脈を使って外に修行へも行かせてもらえるらしい。
「一人で稼げる腕がありゃぁ、俺の母ちゃんみたいな苦労をしなくてもいいからな。」
遠い目でエディンが呟く。家族を想っているのだろう。それ以上は何も言わず、仕事に戻って行った。
娼館に売られる子ども達は、事情は違えど家は貧しく、そのほとんどが読み書きさえままならない。マダムのお眼鏡にかなって教養と美で磨かれて行ったとしても、世間では「元娼婦」のレッテルが付いて回る。普通の結婚を望むのは難しい。だが、何らかの腕があれば一人でも生きて行ける。
マダムは彼女達一人一人の人生を考えて、ここを作り上げたのだろうか。
ふと、あの生意気な仕立て屋の顔が浮かんだ。色気も素っ気もなく、おまけに可愛げもない彼女が、クヤデ一番人気の仕立て屋だという。彼女もここから『独立』したのだろうか。
あの可愛げのなさはいただけないが、僕とあまり変わらない歳で店を構えるとは、並大抵のことではない。彼女も、さまざまな困難を乗り越えてきたからこそ、今がある。あの負けん気の強い灰色の瞳が、何よりも歐弁に語っているような気がした。
その日の午後、また『ローズの間』に呼ばれた。
礼装の仮縫いが出来たらしい。部屋には前回同様ヨルーと、今日はマダムが待っていた。ノーク女史の姿は見えない。内心ホッとしながら隣室の気配を窺う。今日の更衣室はひっそりとしている。もう『華』の仮縫いは終ったのだろうか。
と、扉が開いた。やはり『華』の彼女だ。我知らず心臓が高鳴る。
今日は髪こそ無造作に結い上げているものの前回のようなガウン姿ではない。仮縫い中と思しき瑠璃色のドレス姿だ。思わず、感嘆のため息が出る。解れ髪がうなじに流れるのさえ扇情的だ。
「マダム、どうかしら?もっと胸を明けて乳首ギリギリのラインの方がいい思うけど。」
え?!美女の唇からこぼれた言葉に度肝を抜かれる。僕は今、何を聞いた?
「コルセットを締めれば丁度良くなるはずよ。シフトドレス(下着)のレースにギャザーをいっぱい寄せて立たせるようにすると、身体の動きでレースの間からチラリと見えるくらいの方がそそるわ。」
マダムの冷静な助言にそうねと、納得しながらコルセットの紐を締める。なるほど胸が盛り上がる。何とかシフトドレスのレースで乳首は見えない。そして優雅に少し舞ってみせた。動きに寄って、大きく空いた胸元からピンク色が覗く。た、確かに目が勝手に吸い寄せられる。
僕らの反応に、彼女達は満足そうに頷き合う。本当に玄人なのだ。どう見せれば効果的かをよく心得ている。二人は他の部分の改善点についても検討し始めた。スカートのヒダの下をレースにするとか切り込みをいれるとか。僕はもう、居たたまれずに下を向いていた。
「ちょっと下品かしら。」
苦笑を浮かべ、フフっと笑う。スカートのひだの間から白い膝頭を覗かせた。
「いいのよ、ルマー伯爵の贈り物なのだから。彼好みの仕上がり具合よ。レースも刺繍も最高級品であれば応用も利くわ。後は、焦れったいほど脱がせにくくすれば完璧よ。」
「本当ね。パション様みたいにボタン一つで脱げるドレスより情緒的だわ。」
「フィラネス!」
何を思い出したか、マダムが吹き出した。フィラネスと二人で楽しそうに笑い合う。しかし、どういう趣味なのだ、ルマー伯爵とやらは。まあ、パションなる人物の方が、男としてはまだ理解出来る。
話の内容はともかく、朗らかに笑うフィラネス嬢は先日とはまるで印象が違う。近寄りがたい美貌も、表情が加わることで、なんと生き生きと変化するのか。
ふと、更衣室の入口に佇むツェラが目に入った。彼女もまた、フィラネス嬢を見つめている。ドレスの仕上がり具合を確かめているのかと想いきや、その表情は意外なほど優しい。口元に笑みさえ浮かべている。
彼女も、いつもこんなふうに柔らかな表情を浮かべていれば良いのに…と、思っていたらこちらを向いた。途端に険しい表情に変わる。耳が真っ赤だ。また怒らせたか。
「フィラ。もう、いいでしょ。針が刺さるわ。中へ入って。」
「は〜い。」
フィラネス嬢が踵を返したとき、小さな音とともにマチ針が一つ落ちた。咄嗟に彼女の足元のマチ針に手を伸ばして拾う。いつの間にか片膝を付き、マチ針を捧げ持っていた。
「え?あら。」
花の香水がふわりと香る。ふいに新緑の瞳と目が合った。途端に魅入られたように動けなくなる。彼女は小首を傾げ、細くしなやかな美しい指で僕の頭を撫でると、フフっと笑った。
「ツェラ、貴女も引っ詰めるより緩く結い上げた方がきっと素敵よ。」
「大きなお世話様。」
僕を睨め付けながらツェラは、フィラネス嬢の間に立ちはだかり、手のマチ針を引ったくる。
何なのだ、どうしてこうも突っかかる。
パンパンと教師のように手を打ち鳴らし、マダムが空気を替えた。
「さ、早く着替えて。次が支えてるのよ。」
彼女達は大人しく更衣室に引き上げて行った。
腕組みをしたマダムは何も言わず、一つため息をついた。
さて、彼女は僕らにどんな物を作ったのか、お手並み拝見といこうか。
さて、定例会の準備も始まりました。さてさて、乞うご期待。