女嫌い皇子、包囲される
乾杯! と広間中でグラスとグラスがぶつけられる。何だ、この状況。ルタはすっかり放心していた。特に左腕に甘えるように寄り添う蜂蜜姫。逃げたくても、エリニス王子が寒気のする笑顔でツカツカと歩いてくるので、恐ろしくて動けない。
「エリニスお兄様。素敵な婚約祝いをありがとうございました」
は、は、はああああああ⁈ 婚約祝い? 何で今の事がそうなる。この勘違い女め。叫び出しそうになったのを、必死に堪える。失態を犯すようにと、遊ばれているだけかもしれない。笑おうとしたが、唇が自然と歪む。
「婚約祝い……。そうか、そうか。可愛い妹に婚約祝いだ。おめでとうティア」
愉快そうに肩を揺らしたエリニス王子。こいつ、便乗しやがった。面白がっていやがる。城下街で接近した時の、民からの慕われよう。態度に仕草。巧み、かつ親しみを感じた会話。尊敬出来る男だと思ったのに!
エリニス王子は蜜蜂姫を抱きしめてから、次にルタの腕を軽く引っ張った。握りしめられた手首に感じる握力の強さに、体が竦む。剣の刃がぶつかる音で、曲を奏でたのにも驚きしかなかった。それも、ルタの国に伝わる古い歌。誰から聞いた? リシュリか? それとも、もっと以前から知っていた? 異国の歌をこんな風に利用するなんて、ルタには思いつかない。
ルタの背中にエリニスの腕が回った。トン、トン、トン、と3回叩かれる。
「よお、ルタ。我が妹に手を出したのは構わん。ティアの脳味噌はお花畑だが人を見る目はそこそこ良い。手放してみろ。ましてや捨ててみろ。地獄の果てまで追いかけて、心臓を抉り出してくれる。御隠居様、それから父上と伯父上には俺から上手く伝えてやる。貸しだからな。ティアに捨てられるのは良いぜ」
耳元で囁かれた脅迫台詞に、背筋に嫌な汗が流れた。我が妹に手を出した、とは何ていう誤解。何故だ? 多分、蜜蜂姫のせいだ。なんていう疫病神。やはり毒蛇だった。高慢ちきな女の方がマシ。女嫌いどうこうではなく、このエリニス王子がくっついてくる蜂蜜姫とはどんな縁も結びたくない。訳が分からない状況だが、上手に切り抜けよう。
しかし御隠居様、それに伯父上とは、岩窟龍国が世話になっている同盟大国の煌国皇帝と先代皇帝。この婚約を受け入れないとならない。そういう、嫌な予感がする。捨てられるのは良い、なら蜜蜂姫から離れて貰うしかない? 他の男に蜜蜂姫を口説かせる。取り敢えず、それでいこう。いきなり「運命の王子様」と言い出す娘だ。誰でも良いのだろう。
「裏切りには反目。信頼すれば背中を預ける。生き様を見せろ。世は生き様こそ全てだ。生存本能を研ぎ澄ませよ青二才」
冷ややかな声を発すると、エリニス王子が離れた。バサリとわざとらしく外套を翻して遠ざかっていく。シュルシュルと角蛇——確かバシレウス——がエリニス王子の胴体に巻きつき、肩の上に頭部を乗せた。威圧感に貫禄。とても2歳年下とは思えない。
年下で、国の規模もそこまで変わらないのに完全に格下扱い。まあ、豊かさは雲泥の差か。岩窟龍国の財政や暮らしは厳しい。
城下街ではどちらかというと、穏やかで紳士的だったエリニス王子。なんという俺様男。しかし、お互いの国の関係性もあるが、このエリニス王子には逆らわない方が良いと本能——それこそ生存本能——が告げている。エリニス王子について口を噤んでいた兄達も、何かをされたのだろう。
——お待ちくださいエリニス様。少々、誤解がございます
そう、口にする勇気はポキリと折れた。
「申し訳ないアフロディテ姫。我が友人が身を挺してお守りしたので、お召し物を汚した事をどうかお許し下さい」
エリニス王子が片膝をついている。何だろう? ワラワラと人が集まってきたので、何が起こっているのか見えなくなった。ルタと蜜蜂姫を遠巻きに眺める来賓招待客。この舞踏会に招かれたのは、各国要人や、ある程度の権力を持つ者の子供達。そのうち蜜蜂姫達三つ子と年齢が近い者。何となく、この意図は分かる。将来、各地で国政に関与する者同士の交流。政略結婚の相手の見定め。そんなところだろう。
社交場に姿を現しても、すぐに消える絶世の美少女蜜蜂姫。今回の晩餐会なら、お近づきになれるという浮ついた話は耳にしていた。ルタと蜜蜂姫を見る男達の視線。何でお前が? そういう目つき。羨ましいなら、好き勝手に蜜蜂姫を奪い合って欲しい。こっちは厄介者そうな蜜蜂姫など要らない。しかし、周りの男達をどう促すべきか。蜜蜂姫をどう掌で転がせば良いのか。
「ルタ様。岩窟龍国の礼儀作法や文化を教えて下さいませ。ティアは不器用者ですが努力家。牛歩でも常に前へ進みます」
ルタから離れ、もじもじしながら上目遣いをしてくる蜜蜂姫。ルタの全身が、ブワッと熱くなる。桃色の頬だったのが、林檎ほっぺに代わり、瞳はうるうる。何ていう破壊的な可愛さ。何だ、この生き物。これにあのエリニス王子がくっついているとは、まるで歩く爆弾。怖い。怖すぎる。恐ろしい女。
こいつは蜜蜂もどき。とルタは心の中で念じた。しかし、何だか愛嬌があった蜜蜂もどき。そんなの想像しても無駄。そう思って、先程の角蛇バシレウスにした。この女は毒蛇バシレウス。賢そうではあったが、冷めた目をしたバシレウス。あいつはルタを小馬鹿にしていた。バシレウスには惹かれない。
よしよし、いい感じだ。心を無にしろ。そして、良い台詞を考えろ。あまりに酷い粗相は無いようにしつつ、蜜蜂姫に袖にしてもらう言葉選び。他の男達と親しくさせる方法も必要。中々思いつかない。
「ルタ様? ご気分が優れません? 東の地は遠いのでお疲れなのでしょう。私、あれこれ癒す方法を考えますね」
ニッコリと微笑むと、蜜蜂姫はぐるりと周囲の来賓達を見渡した。
「皆様、本日は大変喜ばしい日です。私は婚約して、とても幸せで胸が一杯です」
婚約なんてしてない! どうなっているこの国は! 蜜蜂姫は近くにいる女性に何やら声を掛けた。次は男性。何だ? 蜜蜂姫が女、男、女、男と話しかけていく。時折、女性の背中を、そっと押している。少し離れた者の所へも行く蜜蜂姫。
「これできっと皆様、楽しんで下さいます。これでルタ様を休ませる時間が出来ました。さあ、こちらへどうぞ」
優雅な腕の動きで誘導される。蜜蜂姫は大広間の出入り口、大きな扉の方向を示している。蜜蜂姫に声を掛けられた周りの者達は、談笑を始めている。彼女は何て告げたのだろう?
「いえ、ティア様は今宵の主役。独占など出来ません。どうぞ皆様と楽しんで下さい」
訳:ついてくるな。お前は残れ。相手をしたくない。
ルタは強張る顔筋を懸命に動かして、笑って見せた。それから歩き出す。逃げるが勝ち。これで他の男達が蜜蜂姫に群がるだろう。特にお前なんかが、と顔に描いてある連中。
「ティア様」
「ティア様」
早速、蜜蜂姫の周りに男が集まった。何やら歯が浮くような台詞を口にしている。よしよし。それで良い。ん? リシュリが混じっている。
「ルタ様は具合悪いのではなく、緊張されているだけです。どちらかというと人見知りでして、社交場は得意ではないのです。あの、婚約とは知りませんでした。今朝、海岸で会っていたんですね」
余計な真似を! 振り返ってリシュリを睨みつけたかった。無視するしかない。今は、これ以上話が拗れる前にとりあえず逃げる。そうだ、日中の流星祭りにてエリニス王子に度々苦言を呈していたレクス王子を探そう。相談に乗ってくれるかもしれない。何がどうこうなったのか分からないが、兎に角誤解を解かないとならない。
「まあ、私達の逢瀬をご存知でしたの」
おい待て! 逢瀬とは愛し合う男女がひそかに会う機会。そのような単語を使うな! ルタは思わず足を止めて振り返った。
その時、背中に悪寒がした。
「今晩はルタ皇子。昼間はどうもありがとうございました。歓談、楽しかったです。しかし、妹と親密とは教えて下さらなかったですね?」
温和な声はレクス王子。ルタはゆっくりと体の向きを変えた。寒気は気のせいらしい。レクス王子は穏やかな微笑を浮かべている。
「レクス様。こちらこそ昼間は、観光案内をありがとうございました。少々誤解がございます。私は本日始めてティア姫とお会いしました。今朝、偶然海岸にてお会いしましたが挨拶をしただけです」
「レクスお兄様。18年間励んできたのでティアはついに星姫に近くなったと認められたようなのです。今朝、星の王子様のようなルタ様に見初められました」
星姫に星の王子とは、この地域で有名なおとぎ話。ルタの国にまで絵本が伝わっているから知っている。蜜蜂姫の脳内はエリニス王子が口にしたように、お花畑のようだ。この歳になっておとぎ話を信じているとは、何ていうか……ちょっと可愛い? ルタは心の中で即座に否定した。騙されるな! 女は腹黒い生物。蜜蜂姫はルタを騙して……どうするんだ? 国内の権力者の娘達はルタに取り入ると得をする。鋭い眼光に猫撫で声が嫌で嫌で仕方ない。しかし、蜜蜂姫。岩窟龍国に取り入る必要なんてない。いや、あるかもしれない。ルタには想像もつかない必要性。
レクス王子がルタを見つめながら、何やら思案している。
「かつて我が父上は東よりこの地へと婿入りしました。まだ、国でなかった頃のことです。我が国は異文化交流にて大いに栄えました」
ルタは耳を疑った。
「お兄様にもルタ様の素晴らしさが分かるのですね。ええ、レクスお兄様。私は父上のように生きます。命は短く、人生は儚い。しかし尊いです。美しい炎を身に宿し、この世に多くの輝きを作ります」
両手を握りしめて、祈るような仕草でそう口にした蜜蜂姫。容姿のせいなのか、憂いを帯びた微笑みに神聖さを感じてしまった。人は見た目というのはある意味正しい。周りの者達も感銘を受けた、というような表情。少し、しんみりした雰囲気。世の中というのは不公平で形成されていると、はっきり分かる。
レクス王子がルタを抱き寄せた。背中を叩かれる。エリニス王子と同じで、トントントンと3回。
「岩窟龍国の近隣は色々と不安定だと聞いています。このままではエリニスがそこまで行ってしまう。ティアがここまで気に入ったなら、エリニスの役に立つと信頼を寄せます。裏切りには反目。信頼すれば背中を預ける。是非、生き様を見せて下さい。ティアを泣かせたら地獄の果てまで首を刎ねに行くからな。逃げられる分には構いません。損をするのは貴方と国です。逆らいます? 御隠居様には逆らえないかと」
ど、ど、毒蛇。全員毒蛇。大蛇の国ではなく毒蛇の巣ではないか。ルタから離れたレクス王子は、風雅な動きでグラスを持つ腕を高く挙げた。首を刎ねると口にしたのが、幻聴というような爽やかで優しい笑顔。
堂々と我が道を行くエリニス王子より、このレクス王子の方が怖いんじゃないか? いや、両方恐ろしい。エリニス王子とレクス王子は間違いなく大蛇の国にて、存在感放つ存在となる。というか、もうなっているようだ。レクス王子も、先程のエリニス王子のように完全に場の空気を支配している。
「我が妹ティアとルタ皇子に、そして大蛇の民と龍の民に幸あらんことを。乾杯!」
グラスとグラスが綺麗な音を鳴らす。まるでルタの人生に大嵐が来たという合図の鐘。ルタはしばらく作り笑顔で放心していた。