眠る蜜蜂姫と龍の皇子
【流星国】
昏睡してしまったティア。岩窟龍国の北にある、死の森が原因らしいということでルタはティアを連れて流星国へと向かった。それはもう、気が気ではなかった。せっかく心通わせて、求婚までした途端に永遠の別れかと慄いた。
流星国で、朝から晩までルタはティアに寄り添った。手を握りしめ、冷たくならないかを確認し続けた。代わる代わる、フィズ国王、コーディアル妃、アンリエッタにカールなど、家族や従者も仕事の合間にティアの手を握りにきた。
流星国の人々が、かつて国を救った蛇神に祈りを捧げた。供物に歌と舞。1番熱心なのは、ティアの母コーディアル妃。毎朝かかさず祈りの歌と舞を蛇神神殿にて披露していた彼女は、毎朝と毎晩祈りの歌と舞を捧げるようになったという。
そんな風に、大勢の者がティアの回復を祈り、願った。
そして6日目の晩。
ルタは寝台に横たわるティアの手を握りながら、窓の外を眺めていた。大きな窓の向こうには、まん丸の月と煌めく夜空。しかし、ちっとも美しく見えない。
「美麗な景色も心持ちひとつで違ってみえるな……」
1人、呟いてからルタはティアの顔を見た。未だ整っている容姿だが、髪は一本もなくなり美しかった顔に薄灰色の斑点。それもボコボコしていて触るとザラついている。特に右目周りがそうなので、痛々しくてならない。しかし、嫌だとは思わない。外の光景とは逆に、この姿のティアを綺麗で愛おしいと感じる。もう一度、屈託無い眩しい笑顔を見たい。
ドンドン!
窓に何かぶつかる音がして、視線を向ける。赤い産毛のプチラが窓に体当たりしていた。ティアの横で眠る緑色の産毛のプチラがブーンと窓へ飛んでいく。器用に窓を開いた、緑色の産毛のプチラ。緑と赤のプチラは互いの触覚をくっつけた。その後、赤い産毛のプチラは月に向かって飛んで行ってしまった。よたよた、酷く疲れて辛そうに去っていく。
緑色の産毛のプチラが、よたよたと飛んで戻ってくる。脚に丸い白い玉を持っていた。うずらの卵程あるその白い玉は少し刺々している。ティアの胸の上に止まると、プチラはその玉をティアの唇に押し付けた。
「食べさせたいのか?」
ルタを見上げたプチラが、体を上下に揺らした。この何とも不思議な生き物、人の言葉を理解しているのか。
「私に任せて貰えるか?」
ルタが手を差し出すと、プチラが白い玉をルタに差し出した。賢い上に、窓の鍵を開けたり物を渡したりと器用な脚。ルタはプチラをそっと撫でた。これが、毒消し? 赤い産毛のプチラの様子からして、相当苦労したようだった。これは、責任重大。
任せろと言ったが、どうするか悩む。口に押し付けたということは、食べさせるべきなのだろう。確実にティアに食べさせる方法。
「……。プチラ、男同士の秘密だぞ」
プチラは男なのか? 知らないが、何にせよこれはルタとプチラの秘め事。
ルタは心臓をバクバクさせながら、ティアにそっと近寄った。
生まれて初めての然るべき場所へのキスは、胸の中が砂糖菓子のように甘ったるいのに、口の中は苦いという不思議なものだった。
★☆
ティアは赤い産毛のプチラが現れた夜に目を覚ました。半月後には歩けるようになり、1ヶ月後には元気一杯。髪も生えてきた。しかし、肌の変化は戻らない。斑点が多少減ったのは救いだろう。特に右目の周り。実は右目は痛くて、視力も失われていたという。ティアの顔の斑点は左頬だけになった。それと体の怠さと痛みが消えたので、ティアは元気一杯だと口にしている。本当のところはティアにしか分からない。
ルタを悩ませる問題は、ティアの病とは別にある。多分、今後もティアはプチラ達の加護を受ける。そんな気がしている。いきなり死んだりしないだろう。他の国ではチラホラ見られる、かつてコーディアル妃を蝕んだ病もこの流星国には1人もいない。この国は蛇神に愛される地と呼ばれているらしいが、何かしらには確実に愛されている。海蛇とプチラ、大狼は確実にその何かの一部なのだろう。
問題なのは……。
「ルタ様! このゼロースの剣技くらい越えて貰わねば困ります!」
まず流星国の守護騎士団を束ねる近衛兵長ゼロースの厳しい鍛錬。流星国に来て、ティアが目を覚ましてから、自主的な早朝鍛錬は近衛兵長ゼロースからの強制鍛錬に変わった。
「基準をエリニス王子にしないで下さい!」
「煩い! 素振り200回追加!」
これは早朝の話。その後はこれ。
「ルタ様! このぐらい覚えて貰わないと困ります!」
王室医師ハルベルの厳しい医学講義。
「基準をレクス王子にしないで下さい!」
これだけなら、別に大変では無いが問題は反対側に座る第2側近ルイ。
「ルタ様! こちらの話も聞いてもらいますよ。良いですか、陣形と言うのはですね」
「別々の時間に教えて下さい! 医学と兵法学習を同時になんて無茶なんですよ」
この国は滅茶苦茶だ。やたら2科目同時に学ばされる。エリニス王子とレクス王子、それぞれの教育係がルタ1人に集中したせい。しかし、やるしかない。ティアの婚約者から蹴落とされる。
「エリニス様とレクス様の代理として、大蛇の国内の各国と付き合う。煌国と岩窟龍国とも外交をする。ゆくゆくは国王。目標が高くて、教え甲斐があります」
見張りだという、アクイラとオルゴの視線が怖い。隣にはすっかり腰巾着のリシュリ。リシュリはリシュリで、ルタの見張りをしながら側近講習とやらを受けている。アクイラとオルゴに挟まれて、死んだ目をしている。ルタはリシュリから顔を背けた。あんな情けない男にはならない。嫌々ではなく、率先して学ぶ。それこそ龍の皇子。
しかし、歴史長い岩窟龍国より歴史浅い流星国の方が余程厳しい。この矛盾、流星国はかつて大蛇の国本国ドメキア王族直下の領地だった。コーディアル妃は亡くなったドメキア王の娘。シャルル新国王の叔母。こんなとんでもない歴史と血統がある妻を持つとは、フィズ国王は煌国でもそれなりに大きな権力を有する筈だ。そしてこの厳しさ。基準が本国王家の教育だから。大蛇の国本国は岩窟龍国よりも、うんと長い歴史を有している。
右手には医学知識のノート、左手は兵法のノート。この国に来て、すっかり両利きになってしまった。ルタは小指に嵌めている指輪をチラリと確認した。シャルル新国王から以前貰った指輪。友情の印だから、返さなくて良いと言われた。正直、嬉しい。彼はとても励み、傾きかけた大蛇の国を必死に守っている。規模が違うが、負けてはいられない。
先日、シャルル新国王と語らって、チェスも指したが負けた。次こそチェスくらい勝ちたい。見本がいる事は良い事だ。そう言ったら、シャルル新国王は「私にとってその相手はエリニスだった」と寂しそうに笑っていた。毒消しは、シャルル王子の元々の腎臓の病まで治したらしく、随分とスラリとした体になった。ティアと同じく、元気一杯だと言うが激務そうで心配。まあ、彼の肩には、既視感のある蛇が鎮座しているので大丈夫だろう。
「まあ、ルタ様。右手でも左手でも字が書けるのですね」
後ろからひょっこりと顔を出したティアに、ルタは椅子から転がり落ちた。近い、顔が近過ぎる。それに急。それにしても、髪が伸びてきた。長いフワフワの髪も良かったが、少し癖っ毛の短い髪も小顔に白い項が見えるので、良い。うん、良い。
「ティア、ティア様。あ、あの……」
「お父様が街への視察に行くのに、ティアとルタ様も来なさいと。ルタ様、流星国で大人気です」
しゃがんでルタの顔を覗き込むティアに、頬が引きつる。この可愛いお姫様が、秋にはルタの嫁。ニヤけそう。こんな大勢の前で、ニヤニヤするなどという醜態は晒せない。ティアが不機嫌そうに唇を尖らせた。これは何の罠だ。こんな場所でキスしてとねだられても困る。
「まあ、ルタ様。励み過ぎて熱を出されたのですね。毎日毎日、ルタ様は頑張り過ぎです。お父様に文句を言っておきます!」
プンプン怒りながら、ティアがルタを起こしてくれた。部屋にいる従者を睨むティア。
「いえティア様。自主的にお願いしています。今日のお加減はどうですか?」
目を覚ましたばかりの頃は、ぼんやりとして眠ってしまうことが多かったティア。今日は随分元気に見える。
「自主的? 朝から晩までうんと沢山なのに自主的? ティアもルタ様を見習います。今日もティアは元気一杯ですルタ様」
嬉しい、というように笑うティアの屈託無さに、ルタは目を奪われかけた。危ない。従者達にヘラヘラ顔を見せてはいけない。
「見習うなどと、滅相もございません。ティア様はいつも勤しんでいらっしゃる。まだ、体が本調子ではないのですから、程々で良いですからね」
そっとティアの髪を撫でてから、しまったと気がつく。まず、ティア。真っ赤になって潤んだ瞳。空色の澄んだ目で上目遣い。もっとと訴えている、気がする。耐え難い。しかし、四方からの冷ややかな突き刺さるような視線。従者達が「婿入り前の身で何をしている」とルタを睨んでいる。
これは、どうするべきだ?
優先順位が必要だ。ルタの優先は何だ? ティアだ。何よりも大切にして、真心を捧げると決めているのだから、ティアを撫でる事が優先。
「このポンコツ皇子! デレデレして固まらないで下さい! こんなんで視察なんて出来ます? いいえ、出来ません」
ティアに伸ばした手を、リシュリに払われた。邪魔するなリシュリ。
「ティア様とは別々に視察……むぐっ」
リシュリの口を、いつからいたのかアンリエッタの掌が塞いでいる。
「リシュリと違ってルタ様は何でもこなすわよ! よくも早朝鍛錬をサボったわね! 倍よ倍! そうしないと昼食を抜くわよ!」
アンリエッタから逃げようとしたリシュリの背後にカールが現れた。ガシリ、とリシュリを後ろから羽交い締め。
「流星国は小国。穀潰しは許さん!」
カールの怒声にリシュリが首を竦める。カールとアンリエッタに両腕を掴まれて、リシュリは部屋から連れ出されていった。毎度毎度、愉快なのでティアと廊下へ顔を出して続きを見てみる。アンリエッタとカールにズルズルと引きずられるリシュリ。ブーンと廊下の向こうから飛んできた緑色の産毛のプチラが、リシュリの頭に乗ってペシペシと前脚でリシュリの髪を撫で始めた。
「プチラ! 俺の味方はお前だけだ! 心の友よ!」
リシュリの謎の叫び。カールとアンリエッタがリシュリと共に廊下を曲がったので3人の姿は見えなくなった。
「リシュリ、すっかりプチラと仲良しです。どうしてでしょう? プチラ、ティアのところに来る回数が減ってしまいました。減ったというより、全然きません」
ティアには言わないが、ルタは何となく理由を察している。多分、プチラ達はティアの恋人気取りだった。で、ルタに譲った。プチラの3つ目から何となくそういう気持ちを感じる。あと、たまに頭突きされる。そういう時は嫉妬心を感じる。ティアはプチラの気持ちが何となく分かると言うが、ルタも似てきたらしい。思い込みか?
「さあ? 何故でしょうねティア様。海蛇やらプチラと話せたらしいエリニス王子といい、この国は謎だらけですね」
「3つ子なのに、エリニスお兄様とは違ってティアは知らない事ばかりです。世界は広くて、謎が一杯で愉快ですねルタ様」
好奇心に満ちたティアの視線に、ルタは問い掛けた。
「この国を飛び出して、調べに行きたいです? もしかしたら、その謎の病を完治させる方法もあるかもしれません」
レクス王子はそれを探しに行った。ティアだけではなく、より大勢の者の為に。ティアに贈られた謎の毒消しは、シャルル王子を救った。かつて、ティアの母を救ったものと同じらしい。赤い産毛のプチラが現れたのを最後に、もうティアの元に毒消しは届かない。何故なのか? そもそも毒消しはなんなのか? 彼等と語れるらしいエリニス王子が居ないので、誰にも分からない。レクス王子はエリニス王子と同じ能力を持っているのだろうか? 会えたら聞いてみたい。教えてもらえるくらい、信頼される男になりたい。
ティアの病は、文献を漁ると大陸中央部で時折見られる原因不明の風土病だと判明した。一方、シャルル王子とティアの母コーディアルの病は同じく大蛇の国の原因不明の風土病。レクス王子は近寄るだけで死ぬという「死の森」が原因だと言っていた。大陸各地に点在する死の森。 人が近寄る事が出来ない世界だというのに、エリニス王子とレクス王子は何を知ったのだろうか?
エリニス王子の置き手紙に、蛇神を崇める限り流星国は加護を受ける。死の森にどんな理由があっても近寄るな。海蛇を侵害するな。そう残されていた。
「エリニスとレクスがそのうち帰ってきて教えてくれると思うので、我慢します。ティアはこの流星国を任されたのです。ルタ様、ティアはもう元気一杯ですので、もう完治だと思っています。毒消し? とかいうものはもう無いのでこれ以上は諦めます」
ルタの隣で、急にモジモジし出したティア。何とも愛くるしい仕草に可愛い笑顔だが、話の流れ的にどうしてこんな動作や表情が出てくる?
「生涯ルタ様が隣にいてくださるので、ティアはもう死ぬまで幸福の絶頂です。またプチラ達が毒消しをくれたら、大蛇の国中に配って回ります。ティアのこの幸せを少しくらい分け与えないと罰当たりです」
鼻歌交じりで、ルタの手を引いて歩き出したティア。悲壮感なんて微塵もない、むしろ嬉しくて仕方がないという態度。この真っ直ぐな親愛が嬉しくてならない。ルタは手を握り返した。
「同じ病になってもティア様は私を見つけてくださるでしょうね。逆も然り。よくなっても、悪くなっても、ずっと隣にいます」
「明日も文を下さいます?」
「ええ、勿論です」
おねだりみたいな期待の眼差しに、ルタはそっとティアにキスをし——ようとしたら背中を殴られた。この気配の無さはアクイラ。次にルタの身体が持ち上がった。力持ちなのはオルゴ。
「視察準備をしましょう」
「続きは婿入りしてからにして下さい」
この野郎。この城にはお邪魔虫が多過ぎる。ティアが目覚める前と後にキスをしたきり。隙を見たティアに可愛くお願いされるのに、毎度毎度邪魔される。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られろ。愛馬スコルにで蹴らしてやりたい。まあ、そのスコルにも先日邪魔された。腹立たしい。
「ルタ様がティアに婿入りしたら、好き放題だなんで、益々素晴らしい日が待っているのね。恥ずかしいけれど心の準備をしておきます」
ティアの発言に、オルゴが転びそうになりルタの全身もカッと熱くなった。
この変ちくりんな愛嬌たっぷりなお姫様と添い遂げるのは、厄介事が多くても楽しいだろう。ルタはオルゴの肩に担がれながら、くすくすと笑った。