龍の皇子、信頼される
【流星国】
なだらかな丘陵に、質素ながらも堅牢そうな城。流星国の城へと続く大通りを、徒歩と馬のどちらで歩くか悩んだが、歩きにした。まずは低姿勢で嘆願。なのに、左手真横にいつ国に到着したのか分からない、黒狼フェンリスがついてくる。そのせいで人が崖の亀裂のように分かれて道を作る。
相変わらず、活気のある国。行商が露店を出し、人々が買い物をしている。正確にはしていた、だ。黒狼と共に歩くルタを見て、老若男女が手を止め、興味津々という表情で眺めている。やはり住居の数より人が多い印象。初めて見た時、彩り鮮やかな光景に驚いたのを思い出す。
「しかし、フィズ国王って裏権力者ですね。煌国御隠居様からティア様のことを探ろうとしたら、煌国皇帝陛下に姪のことは賢弟フィズに一任してある。あれには度肝を抜かれました。煌国現皇帝の弟といっても、腹違いの弟なのにそこまで言われるとは余程信頼……」
リシュリの声を遮るように、黒狼フェンリスが吠えた。上り坂の上に男が2人。
黄金太陽を髪にしたような、青い瞳のエリニス王子。煌めき放つ鈍銀色の冠は、鷲蛇ココトリスだろう。胴体に巻きつき背中から頭部を出すのは角蛇バシレウス。隣に立つ、黒髪の男はレクス王子。エリニス王子と並ぶと、完全に存在感を消されている。しかし、レクス王子の隣に寄り添う白狼フェンリスが彼の存在を残している。
「よーう。龍の皇子。壁に耳あり丘に目あり、俺の有り難い進言をもう忘れるとは阿呆か? 猛獣連れて何しに来やがった。戦争か?」
「やあ、ルタ皇子。遠路遥々ようこそ流星国へ」
嫌味ったらしい笑顔のエリニス王子、穏やかで優しい笑顔のレクス王子。真逆の台詞。瞬間、黒狼フェンリス——白狼がいるのでやはりフェンリスではなかった——が飛び出し、エリニス王子も抜剣。
黒狼に斬りかかるのかと思ったら、エリニス王子はルタ目掛けて剣を投げてきた。この人だかり、避けると他の者に剣が飛んでいく。ルタも抜剣して、飛んできた剣を叩き落とした。黒狼に飛び掛かられたエリニス王子は、まさかの角蛇で黒狼の背中を殴りつけた。地面に叩き落とされた黒狼。地はひび割れ、黒狼の体を飲み込む。
「レージングの息子ヴィトニル! 頂点は俺。その男も俺が囲っている。よって直下になれ。代わりに誉れ高い世界を見せよう」
純白の外套を強風に揺らし、仁王立ちしているエリニス王子。黒狼——ヴィトニルというのか——がゆっくりと立ち上がり、大咆哮した。それも3回。ルタは激昂の吠えに身を縮めた。しかし、エリニス王子は白い歯を見せた屈託無い笑顔。さあ、というように両腕を広げている。
再び飛びかかった黒狼ヴィトニルが、エリニス王子に嚙みつこうとした。いや、噛み砕こうとした。鋭い牙に、成人1人の上半身を易々と飲み込みそうな大きな口。エリニス王子は素早く体を屈めて、黒狼ヴィトニルに体当たり。黒狼を地面に押し倒した。
「ふははははは! 俺は強いだろうヴィトニル! こいつはバシレウス。で、こいつはココトリス。これで3匹。俺を飾り、俺を守り、俺を殴れ。義弟よ、良い土産を連れてきたな」
心底嬉しいというような、無邪気な笑顔でエリニス王子はヴィトニルに抱きついた。体を起こした黒狼ヴィトニルはエリニス王子の体を囲う。それから尻尾でベシベシベシとエリニス王子の背中を殴った。痛そうな強さなのに、痒いと大笑いしたエリニス王子。
ルタの全身に鳥肌が立った。
——あの方は王です
行商の台詞が蘇る。行商の瞳に宿っていた畏怖の念はこれだ。人も獣も関係ない。エリニス王子は上に立つ者として生まれてきた。この世の頂点。はっきりと、そう感じる。父が「難儀な青年」と評したのもそれだ。望んでも望まなくても、エリニス王子は祭り上げられる。そういう才覚や雰囲気を有している。
「レージングの息子? レージング? レージングとは父上の親友だ。袂を分かったという……おいエリニス! 父上の親友の息子に何たる仕打ち! その粗暴さを治せと何度言えば分かる!」
「耳元で喧しいレクス。堅い脳みそが伝染するから近寄るな。早く、あの龍皇子を捕まえてこい」
嫌そうな表情で、指で耳を塞ぐエリニス。
「僕に命令するな。全く、兄の癖してどうして見本になってくれないんだ」
命令するな、と言いながら抜剣してルタへ近寄ってくるレクス王子。地を蹴って跳ね、ルタに斬りかかってきた。受けて立つか迷ったが敵意ありと思われたら困る。ルタはレクス王子の鋭い突きを避けた。
「おい、打ち合わせ通りにやられろ」
間合いを詰めてくるレクス王子。ルタはまたヒラリと身を翻し、また剣を避けた。
「打ち合わせ?」
「おい、だから避けるな。聞いてはいたが、手練れなんだな。僕の太刀筋を易々と」
3度、4度と素早い突きをされた。何とか避ける。打ち合わせとは何だ? 龍国兵にこんな速い突きをする兵士はいない。こんなのに突き刺されたら死ぬ。しかし、急所は突いてきていない。
「何だ、アクイラとオルゴから聞いてないのか? それなら何しに……」
何かの気配がして振り返った瞬間、白狼フェンリスの大口があった。鋭い牙。いつの間に背後に?
逃げる間も無く、ルタは白狼フェンリスに頭から噛みつかれた。
☆★
痛み1つなく、白狼フェンリスに噛まれた。牙は? 視界は真っ黒。生臭くて、ベタベタ。どういうことだ? 腰より下は口の外らしい。白狼フェンリスが動いたのが分かった。体が揺れる。
ペッと吐き出されて、体が何かにぶつかった。勢いが弱く、あまり痛くない。ここは、中庭? 流星祭りの翌日、シャルル王子と散歩をした場所。白狼フェンリスはもういない。誰もいない中庭に、1人放り投げられたらしい。何だ? この状況。手や服、それに周囲が赤い。これは、血の匂い。いや少し違う? ルタは立ち上がろうとした。
「まあ、何て事でしょう! 何て酷い怪我。動いてはなりません。直ぐに医者を呼びます」
ティア? 流星国に居るはずがない。やはり、声の主はティアではなかった。ルタの前に表れたのは、流星国王妃コーディアル。よく似ている母娘なので、間違えようがない。ティアと違うのは直毛と、隠れていても分かる胸の豊満さに、目尻の僅かな笑い皺。
「怪我はしておりません。コーディアル様、岩窟龍国ルタです。ご子息のエリニス王子とレクス王子に何やら図られました」
医者を呼びに行こうと動き出していたコーディアル妃が足を止める。ルタは立ち上がり、会釈をした。
「ルタ皇子?」
コーディアル妃が眉間に皺を寄せた。
「母上! 染料で汚れるので触らないように。よお、龍皇子。早とちりして悪かった。まあ、無事に死んだことになったので良しとしよう。呼び出す前に来るとは何しに来たんだ?」
上から声がして、エリニス王子が降って来た。中庭を囲う壁は遠く、高い位置なのに飛んできたのか? 黒狼ヴィトニルとの対決といい、デタラメな男。死んだことになった?
「死んだことに? 染料?」
「死んだことにした? 染料?」
ルタとコーディアル妃は同時に声を出した。
「アバリーティアを欺く為です。公の場で、俺とレクスはそのルタ皇子を命令通り殺した。これで国家反逆罪で囚われている父上を取り返せる」
アバリーティア? 古い言葉で強欲という意味だった筈。誰の事だ?
「エリニス。そんな計画、聞いていません。アクイラとオルゴが、ルタ皇子へ身の危険を知らせる事になっていましたよね? 岩窟龍国や煌国へ……」
「母上、それでどうなる? あの阿呆、女1人欲しい為に岩窟龍国へ攻め入る気満々。で、好機だと煌国が現れる。元々、薄氷の上に立つような休戦状態ですからね。大蛇の国と煌国は全面戦争。煌国寄りの流星国はどうなります? 建国20年以下で破滅」
コーディアル妃の言葉を遮って、エリニス王子はルタを掌で示した。コーディアルの顔色がみるみる真っ青になった。
「まさか、ティアを妃に欲しいというだけで戦争? 宰相の方々がジョン王太子を止めるに決まっています」
「いいえ、母上。アバリーティアは血が好きなんで、ティア以外にも戦争の口実を探しています。本国は恐怖政治真っ只中。気に食わないと全員処刑。苦言を呈した宰相、従者も処刑台行き。アバリーティアを欺いて救い出すのには一苦労。第2王子ターラに第3王子シャルルは毒殺されました」
酷く落ち込んだような表情で、エリニス王子はコーディアル妃から顔を背けた。シャルル王子が殺された。ルタの体が微かに震える。大蛇の国は今、本当に不安定。小国が小競り合いをしている、大陸中央部より酷い事になりそう。エリニス王子は国の闇に深く関与して、どうにかしようとしているのか。
「ターラ様にシャルル様まで? なんていう……。何を、何をするつもりなんです? エリニス、前々から……」
「母上。このエリニスは力を持って生まれました。見て見ぬ振りなど大恥晒し、万死匹敵。戦争を必ず止めます。では、母上。このルタ皇子をしばし城で匿っていて下さい。俺はアバリーティアに取り入って、あれこれしてきます。平伏してまずは父上を取り戻す」
エリニス王子はコーディアル妃に丁寧な会釈をし、そっと抱きしめた。その後、ツカツカとルタに近寄ってきて手を伸ばしてきた。思わず後退して避ける。舌打ちしたエリニス王子の腕が、勢い良くルタに伸びてくる。今度は避けられない程速かった。胸倉掴まれる。
「レクスと良い勝負とは良い身のこなし。おい龍の皇子。父上は必ずこの国に帰ってくる。俺がそうする。父上が戻るまで母上とこの国を任せる。俺とレクスにはやらねばならないことがある。いいか、信頼しているから背中を預ける。それを忘れるなよ。裏切りには反目。地獄の底まで追いかけてその首刎ねてやる」
燃え上がるような、決意に満ちた深い青色の瞳に益々体が震えた。これは、恐らく武者震い。見て見ぬ振りなど、出来る訳が無い。
「却下。お前にはお前の背負うべきものがある。俺の輝きに目を眩ませて、それを見失うな。それに、一先ず死んだ事にしたんだから連れていくわけねえだろ。宰相バースがある程度知っている。地下牢へ行け。信頼すれば無防備に背中を預ける。応えてくれよ」
秘め事というような小声の耳打ち。ルタはエリニス王子に放り投げられた。
「母上! バシレウスとココトリスの他に新たな友を得ました。名をヴィトニル。かつて、父上が救ったレージングの息子。父上の為に母上の救済を嘆願した誠の友愛を知る男の息子。レージングは遠い地にいますが元気だそうです! このエリニスは、少々人から外れていますがお陰で素晴らしい友と世界を知っています! この世に産んでくれてありがとうございます! どうか父上と天寿まで息災で!」
白い歯をこれでもかという程見せて、泣き笑いをすると、エリニス王子はコーディアル妃とルタに背中を向けた。途端に走り出す。次の瞬間、黒い大きな影と共にエリニス王子は消えた。速すぎて見えなかったが、ヴィトニルだろう。
「エリニス! 待ってエリニス!」
エリニス王子が居なくなった後に、コーディアル妃の悲痛な叫びが響いた。まるで慰めるように、さわさわとした柔らかい風がコーディアル妃の蜂蜜色の髪を揺らした。