思い込み激しい蜜蜂姫、憂う
早朝、日の出と共に起きる。ようにしているのだが、少し遅れる。アンリエッタとカールを起こさないように御帳台から出る。ティアは急いで身支度を整えて、プチラの寝所から灰色の瞳のプチラを抱き上げる。
「起きてプチラ。プチラが居ないとルタ様を見れないわ」
岩窟龍国へ来て、早3ヶ月。毎日このやり取りをしている。まだ誰も起きていなさそうな後宮の廊下をそっと歩き、庭に出る。まだ灰色の瞳のプチラを揺さぶって起こす。倒れていた触覚がピンと立つ。目を青くして、次に新緑色にしたプチラ。
「おはようプチラ。今日も連れていってくれる?」
そっとプチラの体から手を離すと、落下しかけたプチラが飛び出す。合点承知! というように旋回して、ティアの背中に突撃。そのまま服を掴んで持ち上げてくれる。プチラはティアの顔より少し大きいくらいなのに力持ち。プチラは、いつもの定位置へと連れて行ってくれた。皇居を囲う砦の屋根。ティアを離したプチラは、ティアの胸へと寄ってきた。抱きしめて、屋根に腰を下ろす。
今朝もルタ皇子は、自分の屋敷の庭で素振りをしていた。隣にフェンリスが寝そべっている。3ヶ月経ってもフェンリスの反抗期は終わっていない。白から真っ黒けっけになったまま。プチラの産毛は大人びた青色になったのに、どういうことなのか?
「早朝鍛錬、1日もサボりませんね。そもそも、自主鍛錬だそうです。リシュリに聞きました。ここ2年の公務は東地区の管理だそうです。市民の皆様、ルタ様を大変褒めています。ルタ様は煌国へも良く学びに行っているそうです。それで明日から10日間不在。そんなに長い間顔を見れないなんて寂しいわね」
そもそも、顔を見れるのはこの朝の覗き見くらい。避けられているらしく、全然会えない。ティアもルタ皇子に「付きまとうな」と言われたので、顔を合わせないように気をつけている。しかし、1日1回は顔が見たい。最低でも1回。この早朝鍛錬を眺めれば1回だ。たまーに、上半身裸なので鍛えられた逞しい体も見れる。破廉恥女! と思いつつ顔を覆った手の隙間からチラチラと見ている。
「今日は何をしましょうね? 皆様、飢饉でお腹が減っているのに良く働くのでティアの出番が無いわ。畑だけはティアの物だと死守しているけれど、誰かがティアが居ない間に草取りとか害虫駆除をしているみたいなの」
膝を抱えて、膝の上に頬を乗せる。自然と顔がぶすくれる。お前みたいな小娘には任せておけない。そういう意味だろう。確かにその通り。西の人間の白い肌には、この国の日差しは強いのか日焼けで肌が痛くなるから、あんまり長く外に出られない。色々工夫しているけれど、無理。手のマメが痛いのもある。それで代わりにタタラ踏みに参加している。暑いし疲れるけど、友達も出来て楽しい。
「10日あるなら、北東にある川へ行きましょうか。ルタ様、魚が好きらしいです。お父様と同じねプチラ。沢山捕まえたら、色々な人が助かると思わない? 誰と行きましょう? アクイラとオルゴは先日煌国へ行ってしてしまいましたし……アンリエッタとカールは後宮で皇妃様に気に入られていて……タタラ場でも大活躍……フェンリスはルタ様と同行……」
1人で成せないのは情けない。うんと沢山の働き手の上で、贅沢に暮らしてきたのがよく分かる。母に、あらゆる人や物に感謝をしながら暮らしなさいと言われて育ったけれど、本当の意味で感謝していなかったとよく分かる。
「お母様はね、ティアの2つも下の時に領主として何でもこなしていたのよ。それも、とても辛い病だったのに。節々が痛くて、浮腫んで、大変そうだったってハンナが言っていたわ。ラスからも聞いたの。お母様は全然辛くなかったって言うけど、嘘なの」
母の古くからの侍女ハンナとラスからよく聞く両親の昔話。貧しく、大変な時でも泣き事を言わないで一生懸命働いていたという。だから、ティアも泣かないように心掛けている。3食豪華な食事を与えられ、ふかふかの布団で寝ている。岩窟龍国の人々は、皇族から市民までとても親切。そうやって足りないものや辛い事より、あるものと嬉しい事を考える。
たまに後宮で暮らす妃——ルタ皇子の兄嫁——や女官に「粗暴な白猿」とか嫌味を言われるけど我慢。ティアの見た目の美しさに嫉妬しているだけ。社交場でも日常茶飯事だったから慣れっこ。美人なんて、何年かしたら終わりなのに敵視する女達の気持ちはよく分からない。歳を取る前に明日、顔に大火傷するかもしれない。だからこそティアは中身を鍛えている。問題は、ルタ皇子の妃がねとして踏ん反り返っている負い目があるから、言い返し難いということ。あれ? つまり肝心の中身が全然駄目。ああ、だから嫌味を言われるのか。
「っ痛……。まただわ。最近、右腕が痛くなるの。何でかしら? それに肘のところがね、緑色かと思ったらプチラの体みたいに灰色よ。お医者様も分からないって」
ティアは包帯を解いて、右肘の変色したところをプチラに見せた。掌くらいの範囲が、少しボコボコして灰色になっている。プチラの体よりだいぶ薄い灰色。アンリエッタやカールは過剰に心配しそうなので黙っている。医者にわからないものが、アンリエッタやカールに分かる筈が無い。
日が高くなっていく。真剣な眼差しのルタ皇子。皇居の裏に聳え立つユルルングル山脈にも負けない輝き。ティアにはそう見える。アンリエッタやカール、タタラ場の娘達は「朴念仁」とか「冷たい」と言うけれど優しいのはよく知っている。官吏や皇国兵、それにルタ皇子が管理する東地区の人々はルタ皇子を凄く褒めている。ルタ皇子にたまに遊んで貰っている子供達やプチラが羨ましい。
フェンリスにすぐ斬りかからなかったし、丸くて豚みたいと揶揄われるシャルル王子と直ぐに大親友になったので見る目もある。
シャルル王子はジョン王太子なんて押し退けて——皆に支持されて——大蛇の国の頂点に立つ男だ。エリニスがいつもそう口にしている。賢くて、思い遣りがあって、実は勇敢。妃候補のララ姫をティアは少し妬んでいる。
ルタ皇子が現れるまで、シャルル王子こそティアの星の王子様かもしれないと、ちょっとだけ期待していた。全然、ちっとも、相手にされていないし運命的な事がないから違うとは感じていたけれど。そして、やっぱり違う。ルタ皇子とシャルル王子なら、ルタ皇子。ティアの心がドキドキときめくのは、18年間生きてきてルタ皇子だけ。
「ララ姫の星の王子様はシャルル王子。これは決定。で、ティアの星の王子様はルタ皇子。それも確実。なのかしら? どんどん嫌われている気がするの……。避けられて会えないし……目を合わせてくれないし……」
じわじわ涙が込み上げてきたので、ティアは上を向いた。
「ルタ様が鍛錬しているのに、覗き見して付きまとって仕事もサボっているからだわ。反省するのに、毎日ここに来てしまうのは未熟者だからよ」
よし! と立ち上がる。まずは畑を見に行く。朝晩の日課。次は水路作りをしている者達へ差し入れ。昨日の夜、その後はタタラ場。夕方から教養の勉強。この国の妃が行うという雅楽や舞の練習。ルタ皇子の兄嫁達はイジワルで嫌味ったらしいけれど、皇妃様があれこれ教えてくれる。正直、雅楽や舞は楽しい。筋が良いと褒められている。
プチラにまた掴んでもらって後宮に戻る。部屋に戻り、素知らぬ顔で椅子に座る。本を開いて——今日は勉強ではなく絵本——澄まし顔。覗き見の付きまといを知られたら、お説教されるだろうから必死に隠している。いつものように、先に起きたのはアンリエッタだった。
「おはよう、アンリエッタ」
「今日も早いですねティア様。今日こそ先に起きようと思っているのに……。毎朝読書とは見習わねば……まあその絵本。持ってきていたんですね」
ティアはコクンと頷いた。大荷物になり過ぎると困るので、医学書、薬学書、法律書、植物図鑑など役に立つものを選んで持ってきた。私物の本は父からの手書きの本とこの絵本だけ。大蛇の国に伝わるおとぎ話。醜くくて優しいのを分かって貰えない孤独なお姫様のところに、空から星の王子様が降りてきて幸せにしてくれるという言い伝え。
誰も見ていなくても星の王子様が見ている。誰かが見ている。だから、なるべく清く正しく優しい人であれ。そういう物語。古くから存在して、国に根付いているこの話を知らない娘など大蛇の国には殆ど居ないだろう。
「本当にお好きですね、そのお話」
「ティアの目標ですもの。ティアは星姫のようになります。つまり、母上です。お母様、お元気かしら? お父様も……。エリニスとレクスは喧嘩していないかしら……」
思い出したら、急に寂しくなってきた。
「ティア様、何か欲しいものはあります? 父に呼ばれてカールと煌国へ行くので何か買ってきます」
アンリエッタの問いかけに、真っ先に浮かんだのは「饅頭」だった。
「饅頭が欲しいわ! テトやカヤがね、食べたことが無いって言っていたの。ティアがお世話になっているタタラ場の人数は分かるわね?」
そうだ、と思い出してティアは箪笥へ近寄った。引き出しから、まだ手元に残しておいたネックレスを出す。父が母に贈り、ティアにと譲ってくれた。もう、何度も城や社交場で見せびらかしたので母は怒らないだろう。いや、父からの贈与物で思い出の品だから、悲しむだろうか? 母の顔を思い浮かべると、全然そんな気がしない。物欲が無いと、父こそ怒っている。父は母を着飾りたいらしい。多分、貧乏妃と陰で悪口を言われているからだ。
——1番の宝物は手放さないわ。ティアのお父様と可愛い子供達よ。離れていてもいつも幸せを祈っていますよ
母の言葉と幸福に満ちた笑みを思い出す。またしても寂しくなってきた。それに、羨ましい。母は父に見つけてもらい、愛された。それだけ素晴らしい宝石みたいな女性だからだ。娘なのに、ティアはちっとも追いつかない。むしろ星の王子様であるルタ皇子にどんどん嫌われている。
「ついでにお米を買ってこれる? モチ米っていう蒸すとモチモチする米よ。年が明ける時にお餅っていうのを食べるらしいの。餅つきという楽しい行事があるんですって」
笑おうとしたのに、ポタリと涙が落ちた。泣かないと決めているのにと袖で涙を拭う。ティアはアンリエッタにネックレスを手渡した。
「ティア様?」
「少しお父様とお母様が羨ましくなったの。ティアはどんどん嫌われていて……ティアには王太子や煌国の妃がうんといる何とかって皇子がお似合いなのかしら? エリニスとレクスも心配。仲良しなのに痴話喧嘩ばっかりなんだもの。アンリエッタとカールみたいね」
煌国には皇子が居すぎて名前を覚えられない。一応、親族なのに忘れてしまうのは励み足りないからだろう。次期皇帝、それもすぐに候補が変わるから、今誰が次期皇帝候補なのか分からない。チヤホヤ贅沢に育てられたので、政略結婚くらいする。それが大嫌いなジョンでも仕方ない。この1年はティアを溺愛してくれている父からの真心。多分、そう。そんなにルタ皇子を好きなら政略結婚を引き出してきなさい。根回しして1年の猶予を与えた。そんなところ。
「ティア様、このアンリエッタは急用があるのを忘れていました。寝坊までしてしまって! 煌国へは行けないかもしれません。饅頭とモチ米は諦めて……そうです! ルタ様が煌国へ行くとリシュリが言っていました。なのでリシュリに頼むと良いかもしれません」
アンリエッタが慌てた様子で、ティアにネックレスを手渡して、部屋から出ていった。余程、大切な用事を忘れていたらしい。割としっかり者のアンリエッタにしては珍しい。
ティアは畑を見に行く前に、リシュリに会いに行くことにした。