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白い悪夢  作者: 患者211D
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7.一週間後

 一週間が経った。良くなるも悪くなるもない。何も変わらない。何も進展していない。胎児は多少成長している。だが大事なのは産まれた時の重さではなくお腹の中にいた期間だという。つまり私にできることは何もない。時が流れるのをひたすら待つしかない。なんて無力でなんて無意味なことか。


 午前十時すぎ、トイレへ向かう途中で、ナースステーションの前で挨拶をしている男女を見かけた。女性は白い大きな布に包まれた赤ん坊を大事そうに抱えている。中にいる看護師に向かい、お世話になりました、と傍らの男性共々頭を下げている。退院するらしい。男性は両手に大きな荷物を提げていた。


 無事出産を済ませ夫と一緒に帰宅できる人がいる一方で、私のようにいつ帰れるのかまるで見当もつかない者もいる。不妊治療をしている人が妊婦を避けたくなる気持ちがわかった。まぶしすぎるのだ。自分が影になってしまう。私が暗闇になってしまう。暗がりの中で、黒い感情が生まれてしまう。だから光を避けたくなるのだ。


 もっとも、不妊治療をしている人も、きっと他の誰かからまぶしく思われているのだろう。先程の女性も誰かをまぶしく思うことがあるのだろう。光と影は相対的だ。人に太陽も月もない。時と場合により、誰でもいつでも光にも影にもなる。人は光であり同時に影である。光も影も同じものだ。


 トイレから戻るおり、新生児室を覗く。今日は赤ん坊が二人いる。手前に透明なゆりかご、奥に大きな保育器。保育器の中は水色のライトで照らされており、おむつだけを身につけた赤ん坊が静かに眠っている。二人のプレートを見比べる。産まれた時の体重はどちらも2500グラム程度だ。保育器に入れる入れないは何で判断されるのだろうか。


 午後一時少し前、看護師に、今日は下の階で診察を受けるよう言われた。看護師が点滴を抱え、ゆっくりと階段を降りる。下の階に下りるのは初めてだ。雰囲気がちがう。空気がちがう。階段を降りると左が待ち合い室と受付、右が診察室と処置室となっている。待ち合い室はほぼ満員だ。日曜日の診療は午前だけのはずだが、午前に受け付けをした分がまだ終わらないのだろう。私が通っていたクリニックもいつも混雑していた。予約をとっても一時間待つことは珍しくなかった。産科がある病院はどんどん減少しているという。どこもこのような状態なのだろう。


 私は診察室の前にあるソファで声がかけられるのを待つことになった。階下は寒い。足元を冷たい空気が流れている。そういえばまだ冬なのだ。上の階はいつも暖かく、外を吹いている冷たい木枯らしさえ春一番かと錯覚してしまう。


 五分ほどで名前を呼ばれた。中に入る。中はピンクのカーテンが迷路のようになっている。看護師に導かれるままカーテンをくぐり、奥まった部分で下着を脱ぐ。隣の診察台に上がる。右隣にはカーテン一枚隔てて別の診察台がある。診察中のようで、声が聞こえる。右手前から力強いデジタルの心拍音。


 隣の診察が終わり、私の番がきた。先生が手にビニール袋をはめ、消毒薬をつけ、指を中に入れる。何かを探るように指を動かす。鋭い痛みに眉をしかめる。下腹部に鈍い痛みが波のように広がる。やっと指が抜かれた。


 続いてお腹のエコー。お腹や頭回り、大腿骨の長さから成長具合を測定する。標準くらいだ。3Dエコーには横顔が映っているらしい。ここが背中でここが腕で、と言われてもよくわからない。肉かもやの塊にしか見えない。1200グラムの肉塊。


 子宮口が開きかけていて、いつ破水するかわからない。しばらく入院する必要がある。先生からの説明はそれだけだった。子宮口を縛る手術をしたのに、まだ開いているのか?手術をしても開いてしまうのだったら、手術をした意味があるのか?どうせ安静にするしかないのであれば、自宅ではダメなのか? 診察を受けるたびにもやもやした気持ちになる。結局のところ当分退院などできないのだろう。「しばらく」がいつまでなのかさえ聞きたくなかった。聞いたら本当に帰れなくなってしまうと思った。


 正直、期待していたのだと思う。いつもは部屋に回診に来てくれているのに、今日は下の階へ赴いての診察。特別何かがあるのかと、期待してしまった。そしてそれは間違いだった。希望なんてなかった。明るい未来なんてない。暗憺たる続きしかない。私は打ちのめされた。


 診察を終え、階段を登る。ずっと寝たきりだったからか、体が重い。一段一段踏みしめるように登っていく。二階につくころには息が上がっていた。自宅はマンションの四階だ。退院したあと、私は家までたどり着けるだろうか。そもそもこの腕で重たい赤ん坊を抱く力が残っているだろうか。…なんにせよ、退院も出産も、今の自分には縁のないことだ。考えても仕方ない。考えることすらしたくない。今の惨めな自分が浮き彫りになる。


 階段を上がった正面の壁に二階の見取り図が掲示されている。向かって左に個室が八部屋、右に大部屋が二部屋ある。大部屋にいる人はみな点滴をつけていることから、私と同じように切迫早産で入院しているのだろう。でもみんな、私よりお腹が大きい。同室者は34週や37週だ。早ければ数日、長くとも一ヶ月かからず出ていくのだろう。私は…。私は……。


 ナースステーションの前の廊下は少し広くなっており、ソファや観葉植物、血圧計や体重計がある。産まれるまで、親族がここで待機するのだろう。私は体重を計ってみた。入院前より2キロ減っている。寝たきり生活により筋肉が、ヘルシーな食生活により死亡が落ちたのだろう。体重管理はまったく気にしなくてよさそうだ。体重計の先に大きな窓がある。その向こうに灰色の空が見える。青い空より心地よく思えた。


 部屋に入るとき、「胎盤はこちらに入れてください」のかごが目についた。ステッカーに茶色い染みがついている。中にはビニール袋に何重にも包まれた何かが入っていた。


 土日を一番実感するのはテレビ番組だ。そして次に面会客の多さ。特に昼間はにぎやかだ。子供の甲高い声が廊下から響いてくる。同室者にも夫や親や友人が訪ねてきている。


 私は結婚を機に引っ越してきたので、このあたりに知り合いはいない。地元からは遠く離れている。入院を報告したとき、親はもちろん多くの友人が見舞いに行くと言ってくれたが丁重にお断りした。距離の長さのうえ最寄り駅から交通手段がないのだ。このあたりは車社会だった。産まれたあとの見舞いならとにかく、まだ産まれてもいないのにわざわざ来てもらうのは忍びない。義理の両親にあたっては尚更だ。


 夫は都合がつかず、今日は来れないとのことであった。仕事も忙しいだろうし、家事もすべて自分でこなしている。私の洗濯物もお願いしているから、さぞ大変だろう。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。私は何もできない…。


 カーテンごしにさまざまな会話が聞こえてくる。仲睦まじげな夫婦のやりとり、我が子を心配する母親の言葉、ぶっきらぼうを装った父親の声、同級生の誰々はどうだったという友人の情報…。私はイヤホンをつけて布団を頭からかぶった。何も聞きたくなかった。耐えられなかった。どうして自分は縁もゆかりもないこの土地で、一人軟禁されているのか。自宅に帰りたい。地元に帰りたい。こんなところにいたくない。もうイヤだ。どこかへ消えてしまいたい。


 どこからか、女の呻き声が聞こえた気がした。体を起こす。騒音の中耳を澄ます。分娩室からだろうか。昼間に出産とは珍しい。しかし、声は窓の外、駐車場から聞こえてくる。この世を恨んでいるかのような声だ。まるで地獄の底から聞こえてくるように思える。かと思えば子供が癇癪を起こしている声にも思える。私は窓の外を窺おうとしてやめた。なんだか不気味だったし、これ以上面会客たちの楽しそうな会話の中に身を置くのがイヤだった。また布団の中にもぐった。息苦しかった。

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