5.三日目―昼
入院して三日目の朝を迎えた。まだ三日なのかもう三日なのかわからない。仕事もせず、家事もせず、ただ横になっているだけの毎日。しかもこの日常がこれからも延々と続く。いつ終わるのかもわからない。出産するまでだろうか。あと三ヶ月?九十日? 短い人生のうちでも特に貴重な二十代の日々を、こんな無意味に潰さなければならないのか?
もちろん、胎児にとっては無意味ではない。一日でも長く私のお腹の中にいて、少しでも大きく成長する必要がある。私には意味のない毎日であっても、胎児にとっては命にかかわる重要な毎日だ。…そう、胎児にとっては。
早くに産まれてしまった赤ん坊をケアするのは並大抵のことではない。普通の病院では受け入れてもらえない。NICUという高度な専門治療を受けられる医療機関に移らなければならない。そしてそこでどんなに素晴らしい治療を受けられたとしても、障害が残ったり死んでしまう可能性は小さくない。母体は胎児にとって、いまだ何よりも有効な保育器だ。…そう、私は今、胎児の保育器なのだ。
妊娠してから、夫が優しくなった。夫だけではない、親も友人も職場の人も、周りの者はみな私に優しくなった。世間は妊婦にこんなにも優しいものかと最初は感動した。でもそうではないのだ。「私」に優しいのではない。「胎児」に優しいのだ。
人々はみな、私に無理をしないよう優しく声をかけ、さまざまな配慮をしてくれる。とてもありがたいことだ。しかしそれは「私がつらいから」ではなく、「胎児に何かあったら大変だから」だ。
もちろん、胎児に何かあったら私にも影響が出る。私たちは今は一心同体だ。でも基本的には別の生き物だ。今は同じ体を共有しているにすぎない。
今まで私は自分自身のためだけに生きてきた。それが当たり前だった。子供ができてから、私は子供のために生きなければならなくなった。自分のことより子供のことを優先して生きることを強いられるようになった。いや、強いられるという表現は適切ではない。子供を一番に考えることを当然のことと思われるようになった。私個人の意思は子供のためと比較して、取るに足りないもののようになっていった。
まだ妊娠中の段階でこうなのだ。子供が産まれたら、どうなってしまうのだろう。子供ができた瞬間から、女としての私は死に、母という生き物に生まれ変わってしまうのか。男は男のまま父になるのに? 私という個人は殺されてしまうのか?
女の体はよくできている。女性ホルモンの働きなどで、きっとこういった拒絶反応はそのうち消えるのだろう。女性ホルモンは驚くほど女の心と体を支配している。脳ではなくホルモンが本体なのではないかと疑うほどに。そのことはPMSを味わうようになってからよく理解したし、特に妊娠してからはホルモンの働きに舌を巻いた。妊娠中、心や体に起こるさまざまな変化や不調はほぼすべてホルモンのせいだという。まるで魔法か呪いだ。
男が性欲に支配されがちなのと同じように、女は女性ホルモンの影響から逃れられない。きっと私も子供が産まれたら、子供のことを何よりも大切に思いいとおしく感じることだろう。自分はこの子を育てるために生まれてきたのだと思うかもしれない。洗脳完了だ。
私は自分が変わってしまうのが怖い。このままでは、自分が自分でなくなってしまう。ちがう人間になってしまう。子供を産み育てるのは構わない。でも自分が変わるのはイヤだ。自分は自分のままでいたい。変わりたくない。母になんかなりたくない。
…これがマタニティブルーというものだろうか。ネガティブなことしか考えられない。こんなこと考えてなんになる。世の中では毎日何百何千と子供が産まれている。妊娠出産は自然なことで当然なことだ。
しかし今回の経験で、私は妊娠出産が少なくとも当然なことではないと知った。無事子供が産まれるまでに、乗り越えなければならない壁はいくつもある。機会は月に一度。受精、着床する確率の低さ。染色体異常による流産。先天性の病気や障害。切迫早産。産まれてからだって、ちゃんと育つかどうかわからない。
人はみな、悲しい話を外ではしない。たとえ流産しようと妊娠悪阻に苦しもうと、そのつらさを他人に話す人は少ない。ごく親しい人以外には、無事に産まれた話しかしない。だからみな普通に子供を産んでいるように思える。実際そんなことはない。つらい部分は隠されて見えないだけだ。妊娠出産はつらいことばかりだ。喜ばしいおめでたいことかもしれないが、女にとってはマイナスしかないのではないか。
枕が涙で濡れる。肌に触れる冷たいカバーが気持ち悪くて反対側を向く。ふと点滴のチューブが目に入った。透明だったチューブが朱色に染まっている。ぎょっとしてチューブ全体を見渡す。私の腕に刺さっている部分からジョイントの部分まで、朱色の液体が流れている。血が逆流している…? ジョイントの先を見ると、二つある点滴のパックうち一つが空になっている。このせいで圧が弱まり逆血してしまったようだ。私はナースコールを押した。
点滴を差し替えることになった。保護テープを外し、チューブが刺さっている箇所をアルコールを含ませた脱脂綿で強く押さえる。次の瞬間、チューブが抜かれた。鋭い痛みが走る。チューブの先は更に細くなっている。その先端から朱色の液体が今にもこぼれ落ちそうな大きいしずくをつくっている。点滴の透明な液体と混じっているから普通の血液に比べて色が薄明るいのだろう。なんだか不思議な気分だ。
数分圧迫して止血を終えると、反対側の腕の血管を探される。先程抜いた右腕の血管と同じようなところに狙いをつけ、刺される。また鋭い痛み。もう見ていられない。私が目をそらし更に目を固く瞑っていると、看護師はすでに仕事を終えていた。




