2.初日―昼
目を覚ますと、そこは病院のベッドのようだった。ベッドの周りはカーテンに覆われていて、外の様子はわからない。私の頭の真上にモニターがついている。薄型テレビだろうか、万一落ちて来たら痛いだろうな、と思った。
ふと、違和感に気付いた。違和感は背中から始まっていた。下半身の感覚がないのだ。背中から腰にかけて痺れがあり、その先、太ももから爪先にかけて…つまり足の感覚がない。…感覚がないという表現は正確ではない。「感覚がないという感覚」がある。無感覚なのが「わかる」のだ。
一気に鼓動が早くなった。呼吸が上手くできない。浅い呼吸を何度も繰り返すが息苦しさは増していく。顔がほてる一方、下半身は氷のように冷たい。いや、冷たい感じがする。恐る恐る上半身を起こす。…起こすことができない。体が動かない。辛うじて頭を持ち上げることができる。真っ白な布団カバーが目に入る。その下の体がどうなっているのか、見ただけではわからない。
まさか、腰から下が切断された…? その考えが頭をよぎった時、動悸は更に酷くなった。自分の心臓の音が耳元で聞こえる。怖い。怖い。足を動かそうとする。動かない。ピクリともしない。足が動かない。感覚さえない。私は泣きそうになりながら手を伸ばした。布団の下の、太ももに触れる。…ほのかに温かい。足を覆っている布をまくり、直に肌に触れる。乾燥でカサカサしているが、間違いなく温かい。血が通っている。
足は体にくっついている。ということは、下半身不随になってしまったのだろうか…。足はやはり一向に動こうとしない。動かそうと試みることさえ恐ろしくなってくる。恐ろしくて気が狂いそうだ。体をよじる。体は動かない。動くのは背中から上だけだ。
パニックを起こし芋虫のように上半身だけのたうちまわっていると、枕元にナースコールがあるのを見つけた。優しいオレンジ色の呼び出しボタンをすぐに押した。足元の方からパタパタと足音が聞こえ、ドアの開く音が聞こえた。
やってきたのは中年の看護師だった。優しそうで穏やかそうな中肉中背の白衣の天使だった。…身につけていたのは白衣ではなくピンク色のカーディガンと花柄のエプロンだったが。
彼女の説明によると、ここは救急搬送先の個人病院であり、私は早産寸前であったため、腰椎から下半身麻酔をし、子宮口が開かないよう紐で縛る手術をしたとのことであった。
自分の状況がわかって一安心…とはいかない。手術からすでに数時間が経過しているようだが、麻酔はまだほとんど完全に残っている。試しにまた足を動かそうとしてみるが、やはりピクリともしない。このまま何度も繰り返すと、神経回路が誤解して、麻酔が切れても動かなくなってしまうのではないかと思えた。麻酔が切れるまで足を動かそうとするのはやめよう。しかし気になってしまう。なぜか焦燥感にかられる。頭が変になりそうだ。このままではおかしくなる。麻酔が切れるまで意識が戻らなければよかったのに。
一度出て行った看護師が戻ってきた。見慣れた顔も一緒だった。それは夫だった。数時間前まですぐ隣にいたのに、久し振りに会えたような気がした。恐怖や不安が遠ざかっていくのがわかる。私は夫の手にすがった。
夫は病院から連絡があったらしく、わざわざ仕事を休み、着替えなどを持って面会に来てくれたそうだ。私の目覚めるのが遅く、一時間以上ロビーで待っていてくれたらしい。私は足が動かない恐怖を必死で訴えた。夫は真摯に耳を傾けてくれた。やがて面会時間が終わるまでの十数分、私はずっと夫の手を握りしめていた。
夫はまた土曜日に来るよと言って、帰っていった。私は病室に一人取り残された。足は、右の爪先だけ、わずかに動くようになった。何度も動かせば早く麻酔が切れるかもと試してみたが、変わらなかった。時間が経つのを待つしかないらしい。再び恐怖と焦燥感に襲われる。この動悸はなんなのだろう。手術のあとで興奮しているのだろうか。手術中のことなど何もわからないのに?
ふと、右腕から伸びる管に気が付いた。透明なその管を追うと、点滴であった。四角いパック二つと丸いボトル一つとに、機械経由で繋がれている。機械の右側上部はモニターになっていて、一時間あたりの流れる輸液量や積算輸液量などの数値が表示されている。右側下部は操作パネルだ。ボトルにはよくわからない薬品名のラベルが貼ってある。パックはブドウ糖と印字され、裏面にマジックで私の名前と薬品名が二種類書いてあった。
それらを観察している間も腕の違和感がひどい。人間の意識とは現金なものだ。気付く前はなんとも思わなかったのに、異物が刺さっているとわかった途端に痛みを感じ始める。私はなるべく右腕を意識しないようにした。右足はふくらはぎまで動くようになった。左足はまるで動こうとしない。
左足を上にした方が血流がよくなるかと体をよじる。最初は手こずっていたがやがてうまく体を横にすることができた。右足の上に左足が乗っている。生ハムの原木が乗っているようだ。重く、大きい。見た目より太く感じる。その存在を強く感じる。
すぐ近くから布の擦れる音がした。続いて、がさごそと何かを探る音。静かなので誰もいないと思っていたが、どうやら人がいるようだ。耳を澄ませていると小さな電子音のあと、カラカラ何かを転がす音。勢いよく開かれるカーテンの音。視線をそちらに向けると、カーテンの下に車輪と人の足が見える。それらと音はドアの向こうへ消えていった。私と同様に点滴をつけた患者だろうか。カーテンの外の様子はほとんどわからないが、思ったより広い部屋のようだ。
待てど暮らせど左足は動かない。私は少し仮眠をとることにした。眠気はまったくなかったが、寝て時間を潰すしかなかった。ベッド近くの棚に私の荷物が運ばれていたが、この状態では届かない。近くにテレビもあるがリモコンに手が届かない。私は目を瞑り、なるべく今の自分のことを考えないようにした。だが、目を閉じると不安と焦りが目の前を渦巻く。何かもっと良いことを考えよう。だが何を? 何も思い浮かばない。今の私はどうかしている。いっそ羊でも数えようか。私は自分を誤魔化し誤魔化し、なんとか浅い眠りにつくことができた。




