不良になりたい
『正義』とは何なんだろう? 私は小学校からずっとこれを追求している。最低限、必要とするのは『真面目』であること、つまり、それは『善』であることです。これは当たり前だと言う人もいるし、画期的(?)だと言う人もいる。私は中学に上がっても、なお、『正義』の追求をし続けた。つまり、『正義』の反対は『悪』なのだから、ある物事に対して『正義』かどうか判断が難しい時はその場合の『悪』を考えてみたら良い。いじめる人が『悪』ならば、いじめない人(助ける人)が『善』である。
要するに『善』と『悪』は反対なので、『悪』の反対を目安に考えてみたら良い。ただ、この目安はあくまで目安に過ぎず、相対性理論じゃないけれど、やはり、『善』と『悪』は表裏一体である。そこで私は『悪』も探求せねばならないと考え、それは『不良』への研究であると結論付けることとなった。そこで私は『不良』の才能は『正義』の才能であると考えた。例えば、『不良』の優しさは『正義』の優しさではないのか? 中学で私は不良に憧れた。いや、本音を言うと、嫉妬して生きてきた。
いくら、反対概念である『善』と『悪』に似通った点があるとは言え、自分自らが不良になることはできなかった。それは一本筋の『悪』である。ヤクザのようなものだろう。しかし、私の人生は私の不良性の証明の闘争のようなものであったと言わざるを得ない。『善』と『悪』との葛藤が、悩みになり、ついには苦悩にまで発展した。私は『正義』を説いて、いったい何をやっているんだろう? キャバ嬢のような女を味わってみたい。DJがやりたい。どんどん見ているエロ動画の内容がエスカレートしている。それはあまりに私特有の観念だったので、口を閉ざし、時を待った。私はついには『正義』という仮面を被った『悪』に行き着いた。これが大ざっぱにいうところの私の人生だったのである。