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天宮京哉の部屋は暗闇に包まれていた。
伸ばした手どころか、鼻先さえ見えないような真の暗闇。
そんな状態で、京哉はベッドに身を横たえていた。
目は開かれている。
その目は天井を見据えていた。
蛍光灯の紐、大昔に貼られたポスター、天井の模様、それら小さなすべてが鮮明に、視界に捉えられていた。
卓抜された暗視能力だ。
だが、京哉の目はそれらを感じ取ってはいても、意味として捉えていない。
京哉の目は、遥か異世界のラーンス王国へと飛んでいる。
「なあ、どうしてなんだい? 一体どうして俺を地球に送り返したんだい?」
恋人であるアナスタシアの行為は、第三者からすれば、絶望的な状況の中、恋人を生き残らせる唯一の方法であっただろう。
だが、京哉からすれば拒絶、あるいは裏切りとしか思えなかった。
深く愛し、ともに死のうとさえ思っていた京哉。
彼にとって、アナスタシアの想いを推し量ることは出来なかった。
ただただ狼狽えるばかりだった。
京哉は日本に帰還直後は、しばらく呆然の体を示していた。
だが、やがて守れなかった、拒絶されたと思いこみ、しばらく懊悩の日々を過ごすことになった。
一体何が悪かったのかと悩み続けた結果、精悍ながらも優しげだった風貌は日が経つにつれ変貌し、目は鋭く爛々と輝き、口元は引き締まって甘さが消えた。
そのあまりの変貌ぶりは、京哉をよく知るかつての仲間たちが見たら、別人かと疑っただろう。
だが、逆説的ではあるが、そのまま狂騒の体を示し続けるほど弱い男であったならば、京哉は勇者として召還されていなかった。
帰還より二週間の後、京哉はある程度の平静を取り戻した。
落ち着けば、これまで見えていなかったことが見えてくる。
目をそらしていたことを直視し、冷静に判断を下せば、愛する恋人がいかに苦しい決断を下したのか、予想することが出来た。
「俺は共に死にたいと思った。でも君は俺だけは生きて欲しいと思った。逆の立場なら、きっと俺もそうしていたんだろうな……」
そうすると気になってくるのは、アナスタシアはいかなる意図があってこの転移石を京哉に遺したのか、ということだ。
永久の別れに手渡す物ならば、もっと相応しい物はいくらでもあった。
勇者と王女という二人の組み合わせ故に、常に逢瀬を重ねられたわけではない。
遠征の合間、時折の帰還に、お互いに持ち物を贈り合って、寂しさを慰め合ったものだ。
世界でも辺境でしか採れない、珍しい虹色石で作られたブローチ。
王都でもっとも優れた彫金師が三年もかけて作った精巧なペンダント。
指輪、バックル、その他にも様々なものがあった。
それらはただ贈り合っただけに留まらず、お互いの思い出となるような出来事も付随している。
王城の最も高い塔の屋根で夕焼けに染まる街を見下ろしながら。
あるいは城からほど近い、安全な丘陵の青々と生い茂る芝生の上で。
満天の星空の下、焚き火を焚いてお互いだけの世界の中で。
なぜアナスタシアは、それらの大切な想いの積もった品々ではなく、転移石を遺したのか。
別れたくなかったという思いを込めて?
……それとも、戻ってきて欲しいという意思表示なのかい?
冷たい転移石は、硬質な手触りを返すだけで、京哉の問いに答えてはくれない。
全ては転移石を使ってみればわかることだ。
京哉は転移石の魔力を満たす方法を探し始めた。
転移石はただそこにあればいつでも使えるという便利な道具ではない。
その内部を魔力で満たしてやる必要があった。
また、転移石の転移先がどこになっているのかを調べる必要もある。
場合によっては異空間をはじめ、転移した途端絶命してしまうような場所に飛んでしまう可能性も、ないではなかったからだ。
愛するアナスタシアが遺したものなのだから、何に代えてもこれを使いたい。
まずは手元の転移石を見て、分かる範囲のことを調べる。
京哉が持つ転移石は非常に大きいもので、握りこぶし大ほどもある。
小さいものならば親指大ほどでも短距離の転移に使われるから、この大きさはとんでもない。
京哉は強い意志を持って、方法を模索しようと思い立ったが、早くも大きな困難にぶち当たった。
……調べ方が分からない。
現代日本は魔法とは無縁の社会だ。
それだけに、転移石のような物質は存在していないし、その調査をする方法も確立されていないだろう。
このような便利な物が見つかっていれば、世間でもっと様々な利用がされているはずだった。
天宮京哉は元勇者である。
その力は全人類の最高位にあり、竜を屠り、魔族を鏖殺し、魔王と退治するに相応しい実力を兼ね備えていた。
だが悲しいかな、同時に天宮京哉という少年は、現代日本において、中学校もまともに授業を受けていない、一少年に過ぎなかった。
有り余る力も、抜群の戦闘技能も、現代日本では何一つ活かすことは出来ない。
少年は、無力だった。
では、困難を前に諦めるのか。
全てを擲って、平凡な一市民としての生活を取り戻すのか。
とんでもないことだ。
そのような困難で、京哉が足を止めることはない。
もしそうであったならば、最初から勇者として魔族に立ち向かいはしなかっただろう。
仲間が一人、また一人と倒れていってなお、先頭に立って戦い続けはしなかっただろう。
歩みを止めないこと。
希望を持ち続けて、運命にあらがうこと。
勇者としてもっとも大切な資質を、京哉は今も持ち続けている。
天宮京哉が異世界へと帰り着く日は、そう遠くないだろう。