天宮京哉の日常 1
送喚術によっての転移は、短いようで、長い時間が経ったように感じる。
天宮京哉はその感覚を以前、数十階に渡る高速のエレベーターに乗っているようだと思ったものだ。
慣性の法則が効いているような、どこか全体を引っ張られるような感覚が続く。
ふっとその力から開放され、目も眩むような光の奔流が収まった時、京哉の視界に入ってきたのは、暗闇の森だった。
薄暗い闇夜は、辺りの判別がつかない。
月明かりや星明かりは木々に遮られ、濃淡のついた闇が広がるばかりだ。
生えている木の植生など京哉は知らないし、それに異世界グランダロスは、地球と似たような面が多々あった。
つまり、人がいて、食べ慣れたものに似た食材があり、花が咲き、魚がいて、家畜がいた。
人族の生活だけを見れば、異世界ではなく異国と言われても違和感はなかっただろう。
あまりに違う環境ならば人が生存できないはずだから、似たような環境で似たような進化をしてきたとしたら、それも当然のことだ。
見覚えのない光景を目にした京哉は、もしかしたら魔術が失敗したのではないか、という微かな希望を抱いた。
転移したのは、すぐ近く、もしくは自力で移動できる距離に移っただけではないのか。
ラーンス王国でアナスタシアと最後の会話をしたのは昼の時刻だった。
そして今、自分がいる場所は夜だ。
それらの違いを理解していながらも、京哉は希望を捨てられなかった。
いや、そう信じたかった。
――走る。
俊敏な獣のような素早さ。
木々の間を掻い潜り、木の葉の降り積もった柔らかな土を吹き飛ばしながら森の端を目指す。
まとわりつく下草を千切り、引っかかる枝葉を引き千切り、速く、疾く。
空気を押しのけることで、風が起きた。
風は突風になった。
突如として出現した強い生物の気配に、森のあらゆる生き物がその身を走らせ、逃げ出した。
鳥は飛翔し、獣は走り、または身を小さく伏せ隠れた。
獣の鳴き声、鳥の羽ばたきが森の静寂を破った。
「アン……ッ! 何故、何故なんだ……!」
焦り、叫びながら京哉は走る。
森の終わりは見えない。
いつまでも確認できないことに焦れた彼は飛び跳ね、木の枝を掴むと体を持ち上げていく。
天辺近くまで近付くと、木の幹に足をかけ、両手両足を使って鋭く宙を跳んだ。
投石機に飛ばされるような勢いで、その身が空を走る。
京哉は見た。
美しい満月。満天の星空。
――――そして夜闇に輝くビルの明かり。
異世界では見られなかったもの。
地球でしか見れなかったもの。
自分はまさに、『正しく』送り届けられたのだ。
アナスタシアの起動させた送喚術は、過つことなく実行された。
そのことをまざまざと思い知らされて――京哉は哭いた。
「オ゛オおおお…………っ!」
人が慟哭に襲われた時に吐き出す絶望の声は、あまりにも太く、重々しい。
涙が止めどなく溢れた。
ぼやけた視界の中に、先程まで共にいた恋人の顔が浮かんだ。
柔らかな肢体を、艶やかな髪を思い出す。
もう二度と、彼女と会うことは叶わない。
今、奇跡が起きてラーンス王国に辿り着いたとしても、恐らくアナスタシアの命はその器からこぼれ、二度と収まることはないだろう。
独り、残された。
生き長らえてしまった、と思った。
京哉は膝をつき、全力で拳を地面に叩きつけた。
手が汚れることなど、少しも気にならなかった。
拳が大地を叩き、地が割れた。
大量の土砂が巻き上がり、轟音が鳴り響く。
ますます獣たちが萎縮していく。
埃まみれになった拳と、大きく陥没し、圧し割れた地面を見ながら、京哉は笑った。
「は、ハハハ……! ハはハハは!! 肝心な時に救えなかったこんな力に、何の意味がある……っ!!」
役に立たなかった自分の力が恨めしい。
勇者ならば――救えよ。
魔族を倒せよ。
世界を救えよ。
彼女を救えよ!
リックも、ヘグも、フィーも、大切な仲間を死なさずに助けろよ!
「この平和な日本に勇者の力なんて、一体何の意味があるんだ……っ! 誰か教えてくれ!」
京哉の声が、森中に響き渡った。
だが、返るは静寂ばかり。
そこに応えはない。
京哉は一人、その場にうずくまり続けた。
一体、どうやって帰ったのだろうか。
森をどうにか出て、石畳ではなくアスファルトの道路を見て、やはりここは地球なのだと確信したあとは、記憶が曖昧になっていた。
五年ぶりに見た我が家は、外見だけをとって見れば、とりたてて変わってはいないようだった。
同じデザインで数棟まとめて売りだされた建売住宅の一つが我が家だ。
赤い屋根だけが天宮家を示す特徴だった。
一階の玄関横にガレージがあって、そこには京哉が中学の入学祝いに買ってもらったクロスバイクが今も捨てられずに置いてあった。
大切に使い、よく洗車もしたものだが、今では排気ガスと埃にまみれ、汚れ切ってしまっていた。
家の中から明かりが漏れていて、家族がまだ起きているらしいことが分かった。
玄関の扉を開こうと無意識に右手がポケットを弄ろうとして、京哉は乾いた笑みを浮かべた。
たとえ月日が流れても、身についた習慣はなかなか抜け切らないらしい。
だとするならば、異世界で身についた戦いや魔法の技術、戦場での習慣もずっと続くのかもしれない。
そしてそこに、かつての戦友や恋人の影響を見出すのだろう。
これから先、起こるであろう苦痛から目をそらし、京哉はインターホンを押した。
軽いベル音の後、不明瞭ながらも父と分かる低い声が聞こえた。
「はい」
「…………」
「もしもし?」
――声が、出なかった。
グランダロスと同じ月日が流れているとすれば、五年が経っていることになる。
普通の親ならばひどく心配し、そして行方の分からないことに絶望するだろう。
今更帰ってきて、一体何と言えば良いのか。
かける言葉が分からない。
マイクの向こう側で、困惑している気配がする。
「父さん、俺だ」
「まさか……。京哉、京哉なのか!?」
「うん」
突如、ブツリと不快な音を立てて通話が切れた。
そして近所迷惑を一切考慮していないドタバタという走る大きな物音が、ドア越しに聞こえてくる。
「母さん! 京哉が、京哉が帰ってきたぞ!」
「あらあら。今日はお赤飯ねえ」
「もうご飯は食べたし、そもそもそんな場合じゃないだろう!」
「あら、そうかしらー」
ドアの前で繰り広げられる母親の久美子の天然トークに、京哉の傷つき、罅割れた心がほんのわずかばかりに癒やされた。
あの人は、本当に変わらない。
ガチャンと重たい音とともに鍵が外れ、ドアが開かれる。
蛍光灯の光が外を明るく照らした。
久しぶりに見る父、天宮泰助の姿は、記憶に比べずいぶんと老けて見えた。
まだ三十代のはずなのに、白髪が混じり、目尻にしわの出来た顔は四十は越しているようだ。
「京哉……なのか?」
「……ただいま」
「大きくなったな。声変わりもして、一瞬誰か分からなかった。まあいい、中に入れ。どこで何をしていたのか、聞かせてもらうぞ」
「あら、京ちゃん良い男になっちゃって。三年も一体どこをほっつき歩いてたのかしら。母さん心配で心配で、一日九時間しか寝れなかったのよー」
「十分寝てるよ……」
母久美子は今年で三十七になるはずだが、童顔が際立っていて、いまだ二十歳すぎにしか見えない。
老け顔の泰助と並ぶと、夫婦というより親子のように見えた。
それにしても『三年』か……。
京哉は家へと入りながら一人考える。
グランダニアに召喚されて五年、自分は確かにその身を異世界で過ごしてきたはずだ。
だが父の泰助も、母の久美子も口をそろえて三年だという。
おそらくは召喚をされたあの日、家に帰れなくなったあの日から数えてだろうとは思うが、そうすると明らかに計算が合わない。
グランダニアの一日が二十四時間よりも短かったのか、あるいは召喚術や送喚術には転移だけではなく、時間軸すら移動することが可能なのかもしれない。
こんなとき、ヘグがいてくれたらな、と京哉は思う。
京哉は人の身には過ぎた莫大な魔力を持ち、強力無比な魔術を放つことが出来るが、その理論や成り立ち、仕組みにはまるで無知だった。
<最果ての賢者>ヘグウェイは、あらゆる魔法・魔術に精通した人類最高の学者であり、魔術師だった。
王宮地下に隠された召喚の魔法陣を教えたら、彼ならばそこから何かを解き明かしたかもしれない。
召喚術を改変することで、異世界グランダニアに渡るだけではなく、時を遡り、悲劇を食い止めることすら出来たかもしれない。
妄想にすぎないと分かってはいても、そんな未来を願ってしまう。
自らの判断でその未来を摘み取ってしまった過去の己が恨めしかった。
ふと我に返ると、キッチンのテーブルに向かい合うように座った泰助が言った。
「さあ、聞かせてもらおうか」
その目は、ただ単純に息子の帰りを喜んでいるとは、京哉には見えなかった。
プロローグの時点で感想やレビューをいただけたようで、ありがたいことです。
これからも面白い、続きが読みたいと思ってもらえる作品を書いていきます。