第7話
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やって来たのは、一軒の建物の前。
入り口の上部に掲げられた小洒落たプレート式の看板が、ここがレストランであったことを示している。
そう、かつては。
ヴァージニアは鞄から鍵を取り出すと、顔の高さに持ち上げて青年に見せた。
「不法侵入ってやつかしらね」
悪戯を企む子供のような口調で言いながら鍵穴に鍵を差し込んで回すと、長い年月を感じさせる木製の扉はその姿に見合った重い音を立てた。
聞き慣れた音につい昨日まで通っていたような錯覚を覚えつつ、ヴァージニアは人ひとりが通り抜けられる程度に扉を開く。
そこから中を覗けば真っ先に鼻腔を突く、埃の匂い。同時に流れ出す、生活感を失ったひやりとした空気。
ヴァージニアはそれらと入れ違いながら、身体を滑り込ませるようにして内部に侵入する。
ひっそりと静まり返った店内は昼間だというのに薄暗く、かつての賑わいの残滓すら時の彼方に置き去りにされているように感じた。
そして後ろ手に扉を押さえたまま外にいる青年を振り返ると、視線がぶつかった途端にその姿が、すっ、と消えた。
「!」
驚いたヴァージニアだったがすぐに自らの隣で翳が濃くなったのを感じ、店内を振り向く。そこにあったのは、黒フードによって半分近く隠された横顔。
「……便利なものね」
扉を閉めながら、感嘆と呆れの混じった言葉を漏らした。対する青年は横目でヴァージニアを一瞥しただけ。
自分の行為を無下にされたような気分になりつつもヴァージニアはもう何も言わず、数歩前に出ると足を止めてぐるりと店内を見回した。
決して広いとは言えない店内には、まるでヴァージニアを待っていたかのように以前のままのテーブルや椅子が整然と並んでいる。異なる点と言えば、人の出入りがなくなったため、どこもかしこもうっすらと積もった埃で白く浮いていることくらいだ。
予想していた以上に綺麗な状態を保っていた内装に、心の奥底からじわりと何かが湧いてくるのを感じた。
そして、ぽつりと口を開く。
「……ここね、私のお店だったのよ」
青年の視線がヴァージニアの背に向いた。
「子供の頃から病気のことは分かってたし、どうせならやりたいことをやってやろうって思ってここを開いたのが、六年前」
また数歩前に出て、青年を振り向く。
「最初は要領も分からないし大変だったけど、それでもだんだん軌道に乗ってきてた」
テーブルの縁に腰を下ろすように体重を預け、懐かしむように話すヴァージニア。だがその表情はすぐに一変してしまった。
「だけど去年……働いてた子が二人、事件に巻き込まれた……」
青年の視線から逃げるように俯いた。
その先で目に入ったのは、埃の溜まった床にくっきりと残る自分の足跡。それらはまるで最初から存在していたように、妙に建物と同化していた。
「その後は情けないことにずっと立ち直れなくて、そうしているうちに病気も待ってくれない……それで去年の終わりにここを閉めたの」
顔を上げて自嘲気味に笑った。
ヴァージニアは溜まった涙が零れ落ちないように必死に怺えた。けれど締め付けられるように胸は苦しくて、今にも嗚咽を漏らしてしまいそうだった。
「そうか」
口元に手を添えて耐えているヴァージニアに、ずっと沈黙していた青年が短く言った。
無関心からきた言葉なのか、それとも人間を相手にかける言葉が分からなかったのか、ヴァージニアは知る由もないしどちらでも良かった。
恐らく迷惑でしかない話を、文句も言わずにただ聞いてくれたことが嬉しかったのだ。
「……ごめんなさい。あなたには面白くない話ね」
溜まった涙を指で払いながら青年を見上げる。
「でもあなたのお陰で最後に二人のお墓に花を手向けることができたし、もう思い残すことはないわ」
言うヴァージニアの表情は、何かが吹っ切れたようにすっきりとしていた。
その姿を見た青年が、ほんの僅かに眉を持ち上げたことには気付いていない。
「……何故、俺に話した?」
そう問う青年の言葉には純粋な疑問が存在していた。共感や同情など求めてはいないことを、恐らく青年は理解しているのだろう。
「どうしてかしら」
ヴァージニアは少し困ったように首を傾げてみせた。
そして含みのある微笑を向けて応える。
「もしかしたら、誰かに憶えておいて欲しかったのかもね」
それを聞いた青年が、思い切り怪訝そうに眉を寄せた。
「人って、誰かの記憶から完全に消えてしまった時に本当の意味で死を迎えるんじゃないかって、私は思うの」
真っすぐに青年の緋い瞳を覗き込む。
吸い込まれそうな輝きの奥に映る、ヴァージニアの顔が僅かに揺らいだ。
それを確認した時、この青年は今の言葉の意味を理解しかねているのだろうと、何となくだが想像できた。もしかするとこの青年だけでなく、死神という存在には理解されないのかもしれない。
けれどそれは仕方のないことだとヴァージニアは思った。だから、これでいいのだろう。
「我が儘をきいてくれて、ありがとう」
ヴァージニアは難しい表情をしている青年に再び感謝を述べると、その脇を通り抜けた。
もう、目的は済んだのだ。
半身ほど振り向いた青年も、ヴァージニアが向かおうとする先を察したのか止めることも共に来ることもしない。
そしてヴァージニアが埃を被った扉の持ち手を掴もうとしたところで、
「あ……最後にもうひとつ、いいかしら?」
思い出したように訊ねた。
「まだ何か?」
今にも溜息をつきそうな青年に投げかけたのは、きっと予想だにしていないだろう言葉。
「あなたの名前……教えてくれる?」