第七話「あなたを見つめて」
あれから三日が経った。
あの後清水さんは朝倉宅で一晩を過ごした。
朝倉宅に着いた時、遥の両親は憔悴しきった清水さんを見て驚いたものの、何も聞かず家に上げてくれたそうだ。
次の日の朝、遥は親御さんに連絡しておいたほうがいいと清水さんに言った。しかし、清水さんの口から告げられたのは……。
「……お母さんたちとは……暮らしてない……」
その事実に遥は驚いたが、すぐに気を取り直し、
「じゃあ、もう少しうちにいなよ」
そう言って、清水さんを朝倉宅に数日おいてくれるよう自分の両親を説得してくれた。
そうして二日が経ったのだが、それでも清水さんは部屋に閉じこもり、外に出ようとしなかったそうだ。そして、食事も最低限しか食べない。さすがに遥の両親も何か勘づき始めている。
両親たちの介入を危惧した遥は、両親が何か行動する前に清水さんを家に帰すことにした。もちろん、自分も付き添いで。
そんなことがあった間、俺と悠一は何をしていたかというと。
「……ここ、どう解くんだ?」
「さっきと同じ要領で少し応用するだけだ。教科書見ろよ」
宿題をしていた……悠一の。
なんでも、本来は遥が面倒を見るはずだったのだが、今は清水さんに付きっきりなため、やること……いや、やれることがまだない俺にお鉢がまわってきたということだ。
こんなことをしている場合ではないとは思うのだが、今俺が遥の家に押しかけても、
遥両親ズ
+
清水さん
+
俺たち
というなかなかにカオスな状態になってしまい、状況が悪化しかねない。むしろ、悪化しかしないだろう。
だから今日、清水さんの朝倉宅から清水宅への護送が完了するまで俺たちは待機しているというわけだ。
「……おい、そこ、また間違えてるぞ……」
「……テヘッ」
とりあえず殴っておいた。
そうこうしていると、遥からメールが来た。清水宅に着いたそうだ。
俺と悠一は顔を見合わせ、
「……行くか」
「おうよ!」
そう意気を合わせ立ち上がった。
「……その前にトイレ行っていい?」
「……いいかげんにしろよ、お前」
◆
清水さんの家の場所は、遥からのメールに住所で記されていた。
「○○○○○○204? アパートみたいな名前だな」
悠一は住所を見てそう言った。というか、みたいじゃなくてそうなんだろう。
「清水さんは一人で暮らしているらしいって遥はメールに書いてたし。そうなるとアパートかマンションぐらいしかないだろ」
俺はそう言うと口を閉ざす。
これから、清水さんと向き合わなければならない。もう二度と、彼女に口もきいてもらえなくなるかもしれない。がらにもなく緊張しているようだ。口がからからに乾いている。
「あんまり気負うなよ」
悠一にしてはめずらしく真剣な声でそう言った。
「お前がもし失敗しても、俺と遥がなんとかすっから。だから、お前はちゃんとあの子の話を聞いてやれ。きっとそのほうが、うまくいくからさ」
そう言った後、ニッと口元を歪めるといつもの陽気な雰囲気に戻っていた。やりづらいなあ、普段ふざけてる癖にたまに真面目になられると調子狂うんだよ。
ただ、この場合はいいことだろう。彼は俺の不安に呑まれた頭を解きほぐしてくれたのだ。
「はいはい。善処しますよ」
俺は苦笑しながらそう言って、歩を速めた。
◆
「ここか」
ようやく目的地にたどり着いた。俺たちは呼び出し鈴を鳴らした。するとパタパタと歩く音がし、すぐに扉が開いた。
「……とりあえず上がって」
遥はそう言って俺たちを部屋の中に招き入れた。
……部屋の中は必要最低限なものはあった。
家具はある。冷蔵庫みたいな生活に必須なものもある。そう、必要な物は揃っているのだ。だが、なんだろう。……寂しい感じがする。
俺と悠一は言いようのない寂寞を感じていた。
「香里はあっちにいるわ」
そう言われ、俺と悠一は奥の方へと進む。たしかにそこに彼女はいた。……いたのだが。
三日前に見た時と彼女は変わっていなかった。服は変わっている。だが、自分を守るよう蹲ったまま動こうとしないところは同じだった。
見ているだけで胸が締め付けられる。……俺があの時ちゃんと向かい合っていれば、こんなことにはならなかったのだろうか? それとも、俺が余計な気をまわさず出店を四人で楽しんでいたらこんなことには……。
そんな思考に塗りつぶされそうになるが、頭を振って追い払う。俺はここに懺悔をしにきたのではない。この子を立ち上がらせにきたのだ。
俺は二人に確認をとる。二人はこくりと頷いてくれた。これで憂いはない。
清水さんの傍にそっと座る。
「……清水さん、三日ぶりだな」
「……」
「……あの時はごめん。俺、お前と向き合うのが怖かったんだ。………あれ以上お前に傷ついてほしくなかったし、泣いてほしくなかった。………つまりさ……俺はお前に、俺の事情を押し付けたんだ。……すまなかった」
俺は頭を下げる。彼女が見ていなかろうと関係ない。
頭を上げ、話を続ける。
「……だから、今度はちゃんと話を聞く。お前の気が済むまで何度でも。だから、教えてくれないか?」
俺の素直な気持ち。この子を知りたいという純粋な気持ち。それを言葉で現す。ただ、それだけの簡単で難しいこと。
それまで言葉が届いていたのか定かではなかった清水さんの頭が動く。そして、ゆっくりとこちらを見る。
……彼女は眼を腫らしていた。幾度も涙を流したのだろう、幾筋もの涙の跡が見てとれた。
「……でも、聞いたら……みんなわたしを嫌いになる………そんなの、やだっ……」
彼女は涙ぐみ、少し掠れた声でそう言った。
「……嫌いになんてならない」
「……そんなの嘘だよっ。……わたしが、悪いんだもの……」
瞳を潤ませながら、彼女はそう言った。
彼女は何もかも自分が悪いと思いこんでしまっている――いや、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。だが、俺にとってはそんなことはどうでもいい。
俺はこの子のことを知らない。だから、知りたいと思う。――そこに、この子が善か悪かなど関係ない。
しかし、このままでは彼女はなにも話してくれないだろう。
ならば、一時的にでも無理やり肯定してやればいい、彼女の存在を。
「……清水さん。あの時した約束……覚えてるか?」
「え?」
「……ほら、俺が清水さんをからかって……泣かせちまった時のだよ。一ついうことを聞くって、俺……そう言ったよな」
そう言いつつ、彼女の右手を両手でそっと包む。
「……俺はずっとお前の味方だ。……お前にどんな過去があるのか、俺にはわからない。俺なんかが想像できないぐらい辛いものかもしれない。……それでも、俺はお前の敵にはならないよ」
これは本心。偽りなんてない。この子を救いたいと、心からそう思う。
「………………ずるいね、立花君は。……こういう時だけ、ちゃんと人を見るんだもの」
そう言って微かに笑った彼女は、ポツポツと話し始めた。
◆
清水香里は、普通の家庭で生まれ育った。特別裕福だったわけでもなく、貧しかったわけでもない。
両親は優しく、いつだってわたしを見守ってくれていた。休日にはいろんな所へ連れて行ってくれた。家には、笑いが絶えなかった。
そんな優しい両親のために、わたしは勉強も運動も頑張った。苦手なことがあったって、ひたすら頑張った。
悪い事は許さなかった。悪い事をしている子がいたら必ず注意した。それで人から嫌味を言われることがあっても気にしなかった。だって、正しいことをしているんだから。
先生からちょっとしたことでも褒められたら、家に飛んで帰って両親に報告した。
「ねえねえ! 今日ね、先生にお掃除頑張ってるねって褒められたの!」
「そうか。香里は偉いな」
「良い子ね、香里」
父親と母親はそう言ってわたしの頭を撫でてくれる。
いつだってわたしを褒めてくれた。
そうして文武両道の秀才として小学校生活を終えたわたしは、地元でも学力の高い中学校に進学した。
その頃のわたしは、ただそうすることが正しくて、正しいことが世の中ではあたりまえなんだと、そう信じていた。
だけど、そんなのはただの子どもの幻想だったということをすぐに思い知る。
~~~~
中学校では学生の上下社会が存在していた。スクールカーストというものかな。
成績を重視する学校だったから、余計にそんな空気ができてしまっていたのかもしれない。成績が悪い人はハブられて、素行の悪い人も居場所を失くしていく。
直接暴力をふるわれるようなものと違って表面化しづらいから、先生たちも気付かないようだった。
学校は、一種の無法地帯だった。
今まで友達だった人が、集団から外され孤立していく。外されていたけど成績が回復した人がまた戻ってくる。わたしはそれを見ていることしかできなかったの。怖かった。自分までそうなってしまうことが。
「やめようよ!」
その一言が……どうしても、言えなかった。小学校のときなら言えたのに。
わたしはバカだった。勉強ができても、運動が出来ても、――誰もが頭のどこかで理解している人の深淵をわかっていなかった。中学生になって、わたしはようやく人の醜さと恐ろしさを知った。
わたしが小学校から信じてきた正しさなんて、所詮その程度のものだった。保身のためなら、友達だって見捨ててしまえる。いつだってわたしは乾いた笑いで自分を取り繕っていた。
わたしは、正しさで塗り固めた悪人だったの。
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だけど、そんなわたしにも転機が訪れる。
同じグループにいた三人の女の子たちがそんな現状に陰で異を唱え始めて、その子たちはわたしに協力してほしいと持ちかけてきた。
わたしは嬉しかった。これで何もかもが変わるんだって。
もちろんわたしは協力を申し出た。彼女たちは喜んでくれた。
そして、ついにその日がやってきた。
その日は定期テストの返却日だった。ここで点数を落としていればグループから転落してしまう。後に待っているのは孤独な生活。……今思えば、孤独な生活ごときに怯えるなんて……、そう笑い飛ばせるけど。
――あの頃のわたしたちにとっては、死ぬほど辛いことだった。
わたしたちは、この日誰かを外すことになったとき「もうやめない?」、そう提案する手はずだった。
こんな現状に不満を持っている人は多いはず。みんな言えないだけ。だから、誰かが初めに声を上げるのだ。それが、きっとわたしたち。
これで全てが変わるはずだった。
その日の放課後、みんなでテストを持ち寄って点数の比べ合いが始まった。そして、一人の脱落者が決まる。
「ねえ、もうやめようよ」
わたしはそう言った。今度こそ言えたのだ。わたしは正しい事をした。みんなもすぐに賛同してくれるはず。わたしはそう信じていた。
……でも、誰も、何も言わない。
わたしは『彼女たち』を見た。
『彼女たち』は笑っていた。ねっとりとした、嫌悪を感じてしまうほど邪悪な嗤いだった。
その時わたしはようやく気付いた。ああ、だまされたんだって。
わたしは『彼女たち』より成績が上だった。だから、きっと邪魔だったのだろう。
みんながわたしを見ている。
誰を外すか、決まった瞬間だった。
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それからの生活はあっという間に流れていった。
初めは辛くて、悔しくて、毎晩声を押し殺して泣いていた。両親には知られたくなかった。だから、家では極力今まで通り振舞った。
人間不信に陥ったわたしは、人となるべく関わらないようにした。……そもそも、クラスでは陰口を囁かれていたから、関わるも何もなかったんだけど。
『彼女たち』の顔を見ると、わたしはいいようのない恐怖を感じてしまうようになってしまった。だから、極力視界に入れないように生活した。正直これが一番苦労した。
自分でできることは、全て自分でやった。
でも、いつの間にか両親のことさえ疑い始めているわたしがいた。
わたしが料理を得意なのは、きっと両親とは時間をずらして食べられるように自分で作っていたからだと思う。いっしょに食べると、心配そうな両親の顔が視界に入ってしまい、強烈な自己嫌悪に襲われてしまうから。
……きっとお父さんとお母さんは、わたしに何かがあったことを勘付いている。でも、それでも、何も言わずにわたしに接してくれた。
その配慮には今でも感謝してる。もし無理矢理聞きだされていたら、わたしはもう誰も信じられなくなってしまったかもしれない。
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進路を考える時期に差し掛かったわたしは、両親にあるお願いをすることにした。
「遠いところに住みたい」
なかなか無茶なお願いをしたものだと思う。バカ丸出しだね。
だけど、わたしのことを心配してくれていた両親はその願いを叶えてくれようとした。勤め先に転勤先はないかどうか聞いてくれたし、それなりの偏差値で、のびのびと生活できる高校を探してくれたりもした。
だけど、そううまくはいかなかった。
「ごめんな。今の時期は転勤先、ないそうなんだ」
……少しだけ落胆した。でも、両親がわたしを大切に想ってくれていることがわかったので少しだけ救われた。
だけど、話には続きがあった。
「……一人暮らし、してみるか?」
なんでも、お父さんの弟、つまりはわたしのおじさんが住んでいる地域の近くなら、何かあってもおじさんが駆け付けることができるから一人暮らしをさせてあげてもいいということだった。住まいを借りる時もおじさんが名義を借してくれるそうだ。
……人と一緒に過ごすことに苦痛を感じていたわたしに、配慮してくれてのことだった。
そこまでしてもらうのは悪いと思って断ろうとしたけど、……そうすると、今までと同じ惨めな生活を続けることになるかもしれない。そう思うと、わたしは怖かった。
……結局わたしは、大勢の人の厚意に甘えることにした。
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引っ越しは滞りなく終わった。
さすがに生活費全てを両親に払ってもらうのは悪いと思ったので、食費だけはアルバイトで稼ぐことにした。お昼を自分で作ればだいぶ安く済むはずだから。
数日後にはあたらしい友達とあたらしい生活が始まる。
わたしは期待に胸を膨らませていた。
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……正直に言うとすごく緊張した。
隣の席に人がいたから頑張ってあいさつしたけど、その人は男の子だったから。
男の子に話しかけるのなんて久しぶりだったし、何を話せばいいのかわからなかった。どんな感じで話せばいいのかもわからなかったから、きっと彼を戸惑わせてしまったと思う。
でも、彼はわたしにいろいろ質問してくれた。……教えたくないことは教えなかったけど。
わたしがはぐらかす度に、『何がいけなかったんだろう?』とでも思っているかのような表情をするのが、とてもかわいらしかった。彼はきっと、思ったことが顔に出やすい人なのだろう。
彼には二人の友人がいるようだった。二人とも優しくて、こんなわたしをすぐに受け入れてくれた。
女の子の方は、いつだってわたしを引っ張って行ってくれた。いろいろなところに連れて行ってくれた。……それが、まるで普通の友達のようで……嬉しかった。
女の子の彼氏さんはちょっと変わった人だった。いつもふざけているようで、ときどき鋭い事を言う。……普段からそうしていればいいのに。きっと彼女も苦労しないで済む。
……最初に話した男の子は、第一印象とは全然違っていた。最初は比較的真面目な人かと思ったけど、だんだん本性を現してきた。
彼はいつもわたしをからかって楽しんでいる。……でも、嫌ではなくて。
……それにペンダントをプレゼントしてくれたり、わたしに優しくしてくれた。素直じゃない人だと思う。……きっと、こういうのも普通の友達なんだよね?
いつのまにか、三人はわたしにとって特別になっていた。
◆
「それからは……みんなも知ってる。……お祭りのときに『彼女たち』を見て……とり乱しちゃって……」
彼女は全てを吐き出し終えた。……ずっとずっと、胸の内に溜めこんだ膿を。
心なしか表情がすっきりしているように見える。
辺りに静寂が下りる。
悠一と遥は物音一つたてず、静かに話を聞いていた。
「……香里、あんたの話聞いてもさ、……あんたが悪いとはあたしには思えないよ」
突然、遥が顔を険しくしてそう言った。
「だってさ! ……そりゃあ確かに最初は見ているだけだったのかもしれない。見ていて止めようとしなかった側だったのかもしれない」
遥は泣きそうな表情をしている。
「――でもさ、あんたは止めようとしたじゃん。自分がそうしてうまくいかなかった時のリスクだって考えた上で、正しいと思ったから止めようとしたんでしょ? ……っ……なら、あんたが悪いわけないっ! 悪いのはあんたを騙した奴らとそんなことを平気で続けた奴らよ!!」
遥は険しい表情のまま、涙をポロポロ零しながらまくし立てた。
それに悠一が続く。
「……俺さ、難しいことはわかんねーし、誰が悪いかとか自信持って言えねーけどさ。――香里ちゃんは悪くねーと思うぞ。……だってどうしようもないじゃん。子どもの力だけでさ、人間関係の複雑な問題を解決することなんかできるわけないって。……ごめん、なんかうまく言えねーわ」
悠一は下唇を噛んで顔を逸らした。
しばしの沈黙の後、それまでずっと黙って二人の言葉に耳を傾けていた清水さんが金切り声をあげた。
「違うッ!!」
自分の頭を抱え、身体を震わせる。
「わたしが悪いのッ!! わたしが正しいことに拘ったから、わたしが馬鹿だったから、わたしがうまくできなかったからっ……だからみんなの迷惑になったんだよ!! ――っ、わたしはもっとうまくやれたはずなのにッ! わたしがちゃんとしてれば、誰にも迷惑かけずに済んだのにッ!!」
そう言い終わると、彼女は嗚咽を上げ始めた。
「……ひっく……わた……っ……しなんて……ぅ……いな――」
「――いなければ良かったのに、か?」
先に言って彼女の言葉を遮る。それ以上言わせるわけにはいかなかった。それを自分で言ってしまえば、彼女は決定的に転落してしまう。もう、戻ってこれなくなる。
清水さんは涙を流しながら俺を見上げていた。その目は驚きと戸惑いを示している。
「もし本気でそう思ってんなら、――お前ほんとに馬鹿だぞ。救いようのない大馬鹿だ。生きていても仕方ないレベルの大馬鹿だ。――恥ずかしくないのか?」
一度そこで言葉を切り、俺は眉間に皺を寄せ、彼女を睨む。
「誰かがお前をいらないって言ったか? お前が悪いって、誰かが責めたのか? 大好きなご両親がお前を捨てたのか? 違うだろ。――お前を責めてるのはお前だ。お前が一番、自分をどうしようもなく嫌ってるんだよ。少なくともこの場で『清水香里』をいらないと思ってるのはお前だけだ。そんでお前は自分に責められてべそかいて喚いてるだけ」
俺は最後に、ハッと笑い、肩を竦めた。
そんな俺の言葉と態度に怒りの念を示した清水さんが喚き立てる。
「っ……なによ……あなたなんかにどうしてそこまで言われなきゃいけないのよっ! あなたにわたしの何が分かるの!? 話を聞いたくらいでわたしのことを全部わかったつもり!? ――馬鹿にしないでよ! わたしが過ごした毎日は……あなたみたいに幸せな人にはわかりっこないッ!!」
その最後の言葉に、悠一と遥がキッと清水さんを睨む。だが、そんな二人を俺は目で制す。
(これがこの子の本音なんだから)
彼女は辛い想いをしてきた。だから、普通の人と比べ、感覚というか、想いがズレている。その原因となっているモノが、さっきの言葉『幸せな人にはわからない』だ。その想いが意固地になり、彼女の心でしこりとなっている。
目を瞑る。正直今の言葉は泣きそうになるくらい堪えたが、呻くのは後だ。
「……そうだな。俺はお前のことなんかほとんど知らねーよ。正直、わかろうとも思ってない。辛い想いをしてきたんだろうなー、ってことぐらいしか感じない」
スッと目を開く。
「――でもな、だからって今みたいに喚きながら蹲って、べそかいて、誰かが手を差し伸べてくれるのを待ってるだけで、それで全部丸く治まるのか? お前はこれから生きていけるのか?」
「……それは……でも、……いつかは……きっとこんなもの――」
「――辛いことから逃げて、殻に引き籠ってるだけの人間が成長するとでも言うつもりか?」
「……でも!」
「――馬っ鹿じゃねーのッ。おとぎ話じゃあるまいし、いつか誰かが助けてくれるなんてっ……あるわけないだろうがッ!!」
言葉尻が荒くなってしまったが、自分では間違っていないことを言ったつもりだ。
怯えた清水さんは目じりに涙を溜め、弱々しく睨みつける。
「……じゃあどうすればいいの? わからないよ……もうどうすればいいのか、わからないよ。……怖いの。……間違ったことはしたくない……あんな生活には戻りたくないっ……ねえ、わたしはどうすればいいの?」
か細い声でそう言うと、ツーっと涙が彼女の頬を伝う。俺はその光景を見て胸がギリギリと締め付けられるが、まだここで終わらせるわけにはいかない。
「自分で考えるんだ。自分が今どうしたいのか。これからどんな人間になっていきたいのか。――それを考えるんだ」
「……無理だよ、わかんないよぉ……」
彼女は泣きながら、嫌々と首を振る。
「無理じゃない。お前は考える力を持ってる。――ただ、辛いことがあったから、考えることから逃げてるだけなんだ」
俺は彼女の頬に右手を添え、触れる。
「お前は自己評価が低いだけ。俺は……たった四ヵ月だけどお前のことを見てきた。だから、少なくともこれだけはわかるよ。――お前はなんだってできる。どんな自分にだってなれる。――俺は、お前をそう信じてる」
「……立花……くん……」
「心配すんな、お前を放っておいたりしないから。今すぐ答えは出さなくていい。ゆっくり考えろ。――ちゃんと、お前が間違わないように見ててやるから」
ほんの少しだけ口元を緩めそう言う。
「……うんっうんっ」
彼女は泣きながら頷いた。
だが、これで終わりではない。
彼女は膿を吐き出し終えただけで、傷が治ったわけではない。いずれ再び傷口が膿み、彼女を苦しめ始めるだろう。
それでは意味がない。それでは、彼女が救われない。
傷を少しずつでも治していくためには、彼女の辛かった日々を肯定してあげなければならない。だって、それもすでに彼女を構成する一部なのだから。
誰にも頑張りを認めてもらえないことは、想像できないほどにその人物の心身を削ってしまう。だから、俺が彼女を認める、認め続ける。
俺は、目の前で泣きながら座っている彼女を自分のほうに引き寄せた。彼女の微かな体温が手のひらと身体に触れた部分を通して伝わってくる。
彼女の頭が俺の胸にこつんと収まる。
「……立花君?」
「これからは我慢しなくていいから」
言葉を紡ぐ。
「辛かっただろ……一人で耐えるのは」
それは本当は自分が望んでいた言葉。
「誰にも助けてもらえなくて……苦しかっただろ」
だからこそ、彼女に贈ろう。
「……すきなだけ泣いていいぞ。……頑張ったやつは、泣いていいんだ」
これは、彼女にこそ贈られるべきものだから。
「……っ……」
彼女の目に再び涙が溜まり始める。一度堰をきった涙は止まらない。……そして、きっと止める必要なんかないから。
「……ぅ……ほんと……ずるい。……っ……こんな、時だけっ……」
俺は無言で彼女の頭を撫でる。
言葉以上に伝わるものも、きっとある。時と場合によるけれど……、きっと。
彼女の嗚咽が、狭くもなく広くもない部屋に木霊する。
窓から見える空は雲ひとつなく、青く澄み渡っていた。