第六話「終わりは唐突に」
ついに期末テストの結果が返却された。成績順位は、俺は上の中辺り、清水さんは上の上だった。上の上って何か変な言い方だな。それはそうとして、遥も自分のクラスで上の中辺りらしい。
そして悠一はというと……なんとか中の上辺りに登りつめ、遥のお仕置きを受けずに済んだようだった。正直に言うと見てみたかった気持ちはあるが、ここは友人の躍進を称えるべきであろう。
そして、俺たちの夏休みが始まった。
◆
夏季の休日と言えば、家でエアコン全開、飲み物をペットボトルで部屋に常備、そしてゲーム、これが鉄板であろう。不健康だと言われそうだが、外は倒れそうなくらい熱いんだから仕方ない。
夏休みになって数日が経ったが特に友人ズから遊びに誘われるということもなく、ましてや自分から誘うこともしていないため、俺は日がな一日ゲームをして過ごしていた。
親からは外に出ろと言われるが知った事ではない。バイトの時外に出てるからいいじゃん、とは俺の言い分である。この部屋こそが、俺にとってのエデンなのだ!
そんなことを考えながらコントローラーをいじっていると、立ち回りをミスり敵のコンボをくらってしまった。
「……あ」
部屋にゲームオーバーを告げる音が鳴り響く。やってしまった。
(あと少しでクリアだったのに)
俺はコントローラーを無造作に置くと、身体を仰向けに倒した。エアコンの冷気で冷えた床が心地良い温度になっている。
別に寂しくなんかないが、いつもは四人かその内の誰かと行動していたため、ここ数日は調子が狂っている。そんな自分を鑑み、人間は適応能力が高いんじゃないのかよぉ、と愚痴りたくなるが愚痴る相手もいないため我慢するしかない。
俺たちがまだ三人だった頃は、二人に気をきかせて単独行動をとろうとする事が多かった。だから、たかだか数日一人で過ごすくらいなんてことない……はずだった。
清水さんと出会い四人で過ごすようになってからは常に誰かが隣にいた。それが、俺の中であたりまえになっている。
「……宿題やろ……」
俺はノソッと起き上がり机に向かう。
椅子に座って宿題を広げる。しかし普段ならこの程度の宿題なら、少しはやろうと思ったはずだが今回ばかりは何故だがやる気にならない。
どうやらかなりきているようだ。心に虚ができたみたいに気分が落ち込んでいる。
「……誰か誘うか」
もっと早くその結論に至れよ、と自分でも思うのだがこればっかりは仕方ない。
俺は自分でもわかるくらい臆病な人間なのだ。臆病だから、言い訳を考えて現実から逃げてしまう。
◆
《まったくぅ。寂しいなら寂しいって言いなさいよぉ》
「……電話切んぞ、コラ」
あれから数十分、数回に渡るリテイクを重ねたメールを、意を決し三人に送ろうとした時、遥から電話がかかってきた。
遥の第一声は《おっす、寂しくなかったかね? 少年》だった。それに対する返答が、まあなんというか面喰らったせいで沈黙になってしまったため、寂しがっていたと勝手に思われてしまったのだ。……別に寂しくなんてなかったし。
《アハハ、ごめんごめん。悪かったわよ、からかって》
「……用がないならほんとに切るぞ」
俺は拗ねた子どものような気分になってしまい、本気に近い声音でそう言う。すると、遥はとても小さな声でボソッとこう言った。
《……まったく、かわいいんだから》
(……聴こえてるぞ、アホ。携帯電話の集音性なめんな)
というか、俺はかわいいと評されるような容姿はしていないんだが、遥は何を言っているんだろう。
俺はそれを聴こえなかったことにして、用件を聞くことにした。
「で、何か用があるんだろ?」
俺に促された遥は、ようやく用件について話し始めた。
《うん、まあ用っていうほどのもんじゃないと思うんだけど。今度、川の畔でお祭りあるじゃない? 四人でどうかなって思ってね》
ああ、そう言えばもうそんな時期だっけ。出店もかなりあるし花火もあがるしで結構な規模のお祭りだ。すごい人も多いしで、正直疲れる。
「……えぇ、ひとごみきらい」
《……ぶん殴るわよ、あんた》
どうやら俺のちょっとしたボケはお気に召さなかったようだ。俺が子どもみたいなしゃべり方をすると殴られるらしい。覚えておこう。
「冗談だよ。祭りについては俺は行けるけど、他の二人には聞いたのか?」
誤魔化す意味合いも込めてそう問う。
《うん、悠一にはさっき聞いたんだけど、行けるってさ。香里はバイトのシフトが入っちゃってるらしくてね。他の人と変わってもらえないか交渉してみるそうよ》
「へぇ、そうなのか」
(清水さん大変だな。もし来れたら何か奢ってあげよう)
甘いものがいいだろうか? この前からかった時の約束もあるし。でも、出店に甘いものって何があったっけ。りんご飴、かき氷、……まあその時考えよう。
《ま、そういうことなんで。香里が来れるかわかったら、また連絡するから》
「ああ、わかった。じゃあな」
《じゃあねー》
通話はそれで終わった。
どうやら気分転換にはなったらしい。さっきよりも幾分か気分が楽だ。
「……終盤に泣かないよう、宿題やるか」
俺はそう呟き、勉学に勤しんだ。
……張り切り過ぎて祭りまでの二・三日で夏休みの宿題を終わらせてしまったのは若気の至りだろう、良い意味で。
もしも、未来に起こる出来事を知ることができるのなら、俺はこの祭りに清水さんを来させはしなかった。きっと全力で阻止していたはずだ。
だがそんなことは不可能だ。人には先を見通す力なんてない。そんな力があったら、世の中で悲しい事なんて起こらない。
偶然とは、無情で残酷であることを俺たちはじきに思い知ることになる。
そしてその偶然が、俺たちと清水さんの間に決定的なズレをもたらしてしまう。
◆
祭り当日の夕方、俺たちは会場から少し離れた場所で待ち合わせをしていた。その理由はなんてことはない、単に会場に近づくと人が多くなって誰がどこにいるのかわからないからだ。
「……眠い」
絶賛睡眠不足中である。別に、お祭りヒャッホーとなって眠れなかったわけではない。単純に宿題が終わってやることが無くなったので、昼寝をしたら夜眠れなくなっただけだ。
瞼が重い。たぶん半分も開いていないんじゃないだろうか。近くを通る人が怪しんでいることからも俺の表情のひどさが伺える。顔洗ってきたんだけどなぁ。
そんなことを考えていると背後から俺を呼ぶ声が聴こえた。
「立花君!」
振り返るとニッコリと笑っている清水さんがいた。しかも浴衣。髪を結っているからかいつもと雰囲気が違う。……それに、ほんの少しだけ化粧もしているようだ。唇の光沢が少し増しているように思う。
(……なんか俺変態みたいだな)
いつのまにか眠気は吹っ飛んでいた。
じろじろ見てごめんなさいの意味も込めて、浴衣姿を褒めておくことにする。
「……浴衣似合ってるな」
「へへ~、そうかな?」
清水さんははにかみながら、左足をほんの少し上げ右足を軸にくるりと一回転した。浴衣で回るとか器用だな。
その姿はとても絵になっていた。ほんの少し薄暗くなった空を背景に、腕を左右に伸ばし、回り始めると同時に浴衣の袖がはためき、それに続くように、結った髪から尻尾のように伸びている部分がふわっと舞っていた。
もし俺がデジカメを持っていたら、連写したあとハードディスクにコピーし永久保存しておいただろうに。いや、むしろ動画で。つうか、家宝? そう思うくらい、彼女はきれいだった。
「おうおう、やっとるね、若い衆」
「よお! 久しぶりだな、真司、香里ちゃん」
そう言って現れたのは遥と悠一だった。
どうやら遥も浴衣を着てきたようだ。いつもと違う彼女に思わず満面の笑みで褒め言葉が口をついて出てしまう。
「馬子にも衣装だな!」
「んー? あたし、よく聞こえなかったなー?」
遥が手をパキパキ鳴らしながら近づいてくる。
おっと、失敬。これは褒め言葉じゃなかった。もう、うっかりさん♪ とセルフツッコミを脳内でしているが、現実では汗ダラダラである。どうやら眠気がはれていたのは表情だけだったようだ。
さて、どうしたものか。
「じょ、冗談ですよー。やだなあ……遥さんよりおきれいな方なんていらっしゃるわけありませんよ」
俺の言葉遣いが変になってしまうほど今の遥は怖い。まるで鬼が浴衣を着ているようだ。堪忍や、堪忍やでぇ。
悠一は笑うのを必死にこらえていた。……助けろよ。
すると遥は、はぁと溜息をついた。
「……あんた、目の下の隈すごいわよ……。どうせ寝てないんでしょ? テンションおかしいし」
さすがの遥さんにはお見通しだったようだ。
俺は「すいません」と謝罪したあと、遥の浴衣がちゃんと似合っていることを褒めておいた。彼女はそれを聞いて、ニシシと笑っている。
「ねえねえ、俺も褒めてー。似合ってる?」
悠一は半袖のシャツとジーパンでセクシーポーズをしていた。
バカにはお仕置きが必要なため、後で遥に俺の家に奴のコレクションの一部があることを教えておくことにしよう。天誅である。
「……はいはい、ちょーかわいいぞ」
とりあえず今は適当にあしらっておく。奴への制裁は遥さまが降してくれるだろう。
そんなことを言っていると、清水さんがむくれた顔で俺の服の裾を引っ張っていた。
「……遥ちゃんにも似合ってるって言うんだね……」
一難去ってまた一難。
(……何ですかこれ。神よ、なぜ私にこれほどまでに試練をお与えになるのですか)
俺は現実逃避しかけながら、必死に弁解する。
「え、いや、ほら、なんていうか……遥に対するものと清水さんに対するものは違う……的な?」
しどろもどろで何か変なことを口走った気がするが、気にしている余裕はない。
「……っ……」
清水さんはまだ怒っているようだ。依然顔は不機嫌そうに……今口元がピクピク動きませんでした?
俺が清水さんの顔をジト目で凝視すると、彼女はブフッと笑いだした。
「ごめっ……そこまで……っ、慌てる……なんて……っ」
えー、あなたそんなことする人でしたっけ? 何か、毎回驚いてる気がする。……お父さんな、お前のことがわからなくなってきたよ……。
清水さんは未だにクスクス笑っている。
少々ムカついたので、俺は清水さんの額にデコピンをしておくことにした。ピシッといい音が鳴る。
「いたっ! ……もぉー。立花君、何するの?」
清水さんはおでこをさすりながら、ひどいよと目で訴えてくる。だが俺は答えない。ツーンとそっぽを向く。……ささやかなお返しだ。
「え、嘘。もしかして……怒った?」
なおも俺は答えない。清水さんに背を向けるおまけ付きだ。
それを見て、清水さんは俺が本気で怒ったと思ったらしい。かなり慌てている。
「ごめんっ、ごめんってば! 立花く~ん」
清水さんが涙目になりながら俺の背中側にしがみつきながら謝ってくる。
悠一と遥はそんな俺たちを見て笑っていた。……俺も怒っているふりをしながら、口元は笑っていた。
◆
俺たちは祭りの会場に到着し、出店を渡り歩いていた。出店の明かりが煌々と光を放ち、行きかう人々で会場は屋外とは思えないほどの熱気に包まれていた。
「人すげー。さすがお祭りだな」
悠一はそう言いながら、ほえーと辺りをキョロキョロ見ている。
「そんなにキョロキョロしてると、はぐれるわよ? ……探さないからね」
遥はそう言いつつ、悠一の腕をぎゅっと握っていた。そんな悠一は、浴衣を着ている遥の歩幅に合わせて歩いていた。……なんだかんだで仲いいんだよな、この二人。
(もしはぐれても必死で探すくせに……)
以前、中学の修学旅行の自由時間の時、遊園地で俺たちと遥がはぐれたことがあった。……まあ原因は俺たちがテンション上げ過ぎて遥を置いて行ってしまったからなのだが。
それに気付いた俺たちは周辺をあたふた探し回ったものだ。
そして俺たちが遥を見つけた時、彼女は泣いていた。それからはもう筆舌にしがたいほど怒られた。
その時の遥の泣き顔を見て以来、俺と悠一は遥を置いて行くことはしなくなったのだ。
(悠一が歩幅合わせてるのは、ちゃんと覚えてるからだろうな)
遥が泣くのを見たのはそれが最初で最後だった。少なくとも俺は。
そんなことを考えている俺も、ちゃんと清水さんに歩幅を合わせている。慣れない服装だからだろうか、ずいぶん歩きにくそうだ。
「……大丈夫か?」
そう聞いてみる。すると清水さんは少しだけ疲れた様子で首を縦に振る。
「……うん、大丈夫。歩きづらいだけだから」
どうみても歩きづらいだけには見えない。明らかに疲労が溜まっている。まあ、さっきまでと違って人ごみのなかだ。人を避けようとすれば余計な動きをしなければならない。それが、慣れない服装のせいで余計に疲れを生んでいるのだろう。
俺は少し思案した後、三人にこう提案した。
「なあ、もう少しで花火始まるんだし先に見ちまわないか? 出店まわるのはそれからでもいいだろ」
それを聞いた遥は、清水さんのほうをチラッと見た後こくりと頷いた。どうやら清水さんの状態を理解してくれたようだ。
「そうね、じゃあ真司と香里は土手のほうに行ってもらえる? あたしと悠一は適当に飲み物とか買ってから行くわ」
「そうだなー。俺たちでまとめて買っちまうから、お前ら先行っとけよ」
二人はそう言ってくれた。
「りょーかい。ありがとな」
俺は二人に礼を言った後、清水さんに土手のほうに行くよう促す。
「じゃあ、行くか。清水さん」
「え、でも……二人に悪いよ……」
清水さんは申し訳なさそうに言った。……ここで押し問答をしてもいいのだが、そうすると他の客の迷惑になる。
そう思った俺は強硬策に出ることにした。彼女の左手を自分の右手でそっと握る。
「……いいから、行くぞ」
「え、え、た、立花君…?」
清水さんは顔を真っ赤にしている。俺は構わず歩き出す。少々歩く速度が速いかもしれないが、無理やり連れていくのだから仕方あるまい。
出店の列を抜け、さっきまでとはうって変わって暗い場所に出てしまう。……出店の裏って意外と暗いな。だが、暗いからこそ花火の輝きが映える。それがわかっている人たちだろうか。土手にはポツポツと人影があった。
とりあえず清水さんに一息つかせるため、座れる場所を探す。
その途中で後ろをチラリと見て清水さんの様子を伺う。
彼女は戸惑いと、……少しだけ嬉しさだろうか、そんなものを混ぜ合わせた表情で、相も変わらず顔を紅く染めたままこちらを上目遣いにみつめていた。そして、その瞳は潤んでいた。
出店からの僅かな光に照らされたその表情は、俺の胸にほんの少しの切ない疼きを覚えさせた。
俺は再び前を向き歩きながら、座れる場所を探す。だがそもそも土手に座れる場所ってあるのだろうか? ふとそう思い、一度立ち止まろうかと思った、その矢先だった。
ガクンと俺のバランスが崩れた。
「おっと……?」
こけないよう慌てて立ち止まる。
躓いたわけではない。後ろに引っ張られる感じだった。清水さんが立ち止まったのか?
彼女は大丈夫だろうか? と後ろを振り返る。すると。
「……ぃや……な……んで……いるの………」
彼女は首をいやいやと振りながら、うわ言のようにそう言っていた。さっきまで顔を真紅に染めていたとは思えないほど、真っ青な顔で。
彼女の視線は俺ではなく、俺のもっと向こう。俺たちが進もうとしていた方向にいる人影に向けられていた。
薄暗くてよく見えない。だが三人であることと女性であることはかろうじてわかる。向こうはこちらに気付いていないようだ。
そんな分析をしていると、急に右手が振り払われた。
「……っ…!!」
清水さんは声にならない悲鳴をあげ、彼女たちとは反対の方向へ走り始めた。浴衣だからだろうか、小走りではあったが、それでも必死さは伝わってきた。
「なっ……おいっ!」
俺は思わず清水さんにそう呼びかけてしまう。
その声に気付いた件の人影たちは、奇異なものを見るような視線を向けながら俺に近づいてきた。
「あのー、どうしたんですか? さっきの彼女さん?」
「逃げられちゃったんですかー?」
彼女たちはクスクス笑いながらそう聞いてきた。
(……なんだ、こいつら)
俺は彼女たちに対して、違和感というか、いいようのない不快感を覚えていた。
価値観の違う人間と話していると、イラつくことはないだろうか。ここはこうだろ、そこは違う、と些細なことが目に付いたりしないだろうか。
それは人としてあたりまえのことで、どうしようもない部分だ。だから、人はそういった感情を面に出さず、内に秘めたまま折り合いをつけて人と関わっていくのだ。
――だが、こいつらは違う、そう思うことができない。思わず顔に不快感を示してしまいそうな、異様な雰囲気を持っている。
獲物を喰らって生きながらえる獣のような感じ。良い表現が思いつかないが、とにかく、彼女らは他者のことなどどうでもいいと思っている。自分が助かるためなら、他人がどうなろうと構わない、そんな濁った目をしている。
そんな気がした。
「……ああ」
俺は不快さを面に出さないように必死で我慢し、その言葉を絞り出した。彼女じゃないと否定したかったが、喉に何かつまったかのように言葉が出てこなかった。
「えー、かわいそー」
「強引すぎるのは駄目ですよー」
彼女たちはそう言って笑っている。目は笑っていない。濁った目は爛々と光っている。出店から微かに届く光が余計にその目を輝かせていた。
「……俺、あいつを追いかけないといけないから」
そう言って俺は返事も待たず歩き出す。一刻も早くこいつらを視界から消したい一心だった。
彼女たちは俺が見えなくなるまで何事か話していた。その内容に興味はないが、嫌でも彼女らの顔が頭にチラついた。
彼女らの不快な笑い声が、耳にこびりついて離れなかった。
◆
「どこ行ったんだよ……」
俺は彼女たちの視界から外れた直後に走りだしていた。
悠一と遥には清水さんを探すように電話で伝えておいた。その際、悠一の携帯を奪った遥に「事情を説明しろ」と騒がれたが後で話すといって切った。俺だってよくわかっていないんだから。
清水さんが走り去ってからしばらく経っている。その上、行き先など見当もつかない。どれだけ走り回っても彼女は見つからない。
(……落ち着け。あいつは怯えてた。ならどこに逃げる?)
立ち止まって息を整える。
俺の場合はどうだっただろうか? 子どもの頃に怖い事があった時、親に怒られた時、嫌なことがあった時、俺はどこに逃げた?
(……楽しい思い出がある場所)
公園か学校。それが最初に思い浮かぶが今は関係ないと切り捨てる。どちらも浴衣で走っていけるような近くにないからだ。この近くで最近、清水さんに起こった良いこと……。
「……自惚れてるな、俺……」
頭を抱えるようにして自嘲するが、今はそれしか手がかりはない。俺は走り出していた。
◆
俺が向かった場所に清水さんは居た。
今日俺たちが待ち合わせをした場所、俺にはここしか思いつかなかった。
彼女は座り込み身体を抱きしめるようにして、泣きながら震えていた。時折しゃくりあげる声が聞こえる。
俺は遥たちに簡素なメールを送り場所を伝える。
そして、そっと彼女に近づく。できるだけ平静を装いながら、まるで何も見てこなかったように、少しだけの空元気を言葉に込めて。
「……清水さん、探したぞ」
「……」
なんとかしないと、
「……急に走り出すからびっくりした」
「……」
どうにかしないと、
「……意外と体力あるんだな、ここまで来てるとは思わなかった」
「……」
壊れてしまう。
「……俺、結構走り回ったんだぞ」
「……」
このままじゃ……きっと、壊れてしまう。
「……おかげで汗だくに――」
彼女が。
「っ! ……やめてよぉ!!」
彼女は悲鳴にも似た悲痛な叫びを上げた。ビリビリと体を震わすほどの声量だった。……何よりも、その叫びに込められた感情がとてつもなく重かった。
彼女は立ち上がる。その目に悲しみと憎しみをごちゃ混ぜにした輝きを灯して。
「なんでなにも聞かないのっ!?」
……違う。
「なんでなにもなかったみたいに優しくするのっ!?」
そんなつもりじゃ……。
「聞けばいいじゃないっ!! どうしたんだって!!」
お前が、傷ついていることがわかるから……。
「何であいつらを見て逃げたんだってっ!!」
これ以上……傷つけたくなくて……。
「あいつらと……何があったんだって!!」
これ以上……お前を……。
「聞けば…っ……いいじゃないっ!!」
泣かせたく、なくて……。
「……っ……聞けば……ぅ……っ……ぃいの……に……っ」
最後はほとんど嗚咽になっていて聞きとれなかった。
打ち上げられ始めた花火の輝きが、暗闇の中にいる俺たちを嘲笑うかのように照らしつけていた。
◆
「ちょっと!? あんたたち、何があったのよ!?」
遥の声が聴こえる。
「ったく! ……おい、聴いてんのか!!」
悠一の声だ。
「……ああ、俺は大丈夫だから。……遥は清水さんを……」
どうやら空を見上げながら放心していたようだ。
気だるさで思うように動かない首を清水さんのほうに向けると、彼女はさっきここで見つけた時のように蹲っていた。
遥が必死に声をかけ始めたが、反応は芳しくないようだ。すっかり自分の殻に閉じこもってしまっている。
「……なにがあったんだ?」
悠一がそう聞いてくる。
「……わかんねーよ……」
「わからないって……どういうことだよ?」
悠一はなおも聞いてくる。うるさい。
「……わからないんだよ、何も……」
「……あのな……お前がわからなくて誰がわかるんだよ?」
悠一はイラついているようだ。うるさいんだよ。
「……なんでこんなことになったのか言えって言ってんだよ!!」
「うるせぇんだよ!! 俺にだってわからねーって言ってんだろうが!!」
溜まりに溜まったイラつきと、何も出来なかった自分、何もしようとしなかった自分、彼女をここまで追い詰めた存在、その全てへの憎悪が混ざり合い、気付けばそう叫んでいた。
こうなる前にどうにかできたんじゃないか? いや、お前に何かできたのか? そんな声が自分を苛む。
俺と悠一は、今にも殴り合うのではないかと思うほど鬼気迫る勢いでお互いを睨んでいた。
「やめなさいっ!! あんたたち、自分の事しか考えられないの!?」
遥は俺たちをそう一喝した。
そうだ。今はそんな場合じゃない。
「っ……清水さんは?」
俺は平静を保ちながらそう聞いた。
「……何も答えてくれないわ。聴こえてるのかもわからないぐらい……」
遥は辛そうに言った。
「……どうする。ここでいつまでもこうしてるわけにはいかねーだろ?」
悠一もひとまずは落ち着いたようで、苛立たしげではあるもののそう聞いてきた。
「……とりあえず、香里はあたしが連れ帰るわ。一人で家に帰すのは不安だし……」
遥は清水さんを見ながらそう言った。たしかに一人で家に帰すのは得策ではないだろう。下手をすれば何をやらかすかわからない。
「……頼む」
俺は頭を垂れてそう言った。
対して遥は「……任せて」というと、携帯で手早くタクシーを呼び、動こうとしない清水さんをなんとか乗せ去っていった。
残されたのは、みっともなくとり乱した男二人。
「……おい、真司。お前はもう落ち着いたか?」
「……たぶんな」
◆
俺と悠一はしばらく歩き、自宅の近くにある公園まで帰ってきていた。
「……なんかありゃあ、遥が連絡してくんだろ」
悠一はそう言いつつ、公園のベンチに座る。
「そうだな」
俺もベンチに座る。
「……」
「……」
先ほどお互いに怒鳴り合ったせいだろうか。ここに来るまでも会話らしい会話はなかった。気まずさが辺りに立ち込める。
近所の犬の吠える声が鮮明に聞こえてくる。辺りはそれほど静まり返っていた。
いいかげん居心地が悪いため、さっさと解消してしまうことにする。こういうときはどちらが悪いにしても、謝ってしまったほうが後腐れがなくていい。
「……さっきは悪かったよ。うるさいなんて言って」
「……いやいや、俺も無神経だったって。すまん」
お互いに謝った後、数秒の沈黙を経たのち、俺たちはどちらともしれず笑い始めた。
「っはは、俺たちってほんとバカだなー」
「まったくだ。また遥に怒られるし。ほんとバカだ……」
ひとしきり笑い合った後、俺は自分が見聞きしたことを悠一に話した。女三人組を見かけた時に怯え始めたこと、清水さんが走り去ってしまったこと、その三人組は嫌な雰囲気だったこと、見つけた清水さんが叫んだ内容、その全てを。
話を聞いている最中にも悠一は携帯をいじっていた。遥にも教える為だろう。
「……なるほどね。とりあえず遥に送っとくわ」
そう言って悠一は送信ボタンを押す。
「それにしてもその三人組が気になるな。そいつら見てから、なんだろ?」
「ん。でも、俺たちがここで何を言っても憶測でしかないだろ。……とにかく、清水さんから話を聞かないと……」
「……できんのかよ?」
悠一はそう問いかけてくる。
俺は全てを悠一に話した。つまりは俺が、泣き喚く清水さんと真正面から向き合うことができなかったことも知っているのだ。
だから、問う。今度こそできるのか? と。
「……やる。今度は絶対」
暗闇に染まった空を見上げながら、そう言う。
もう自己保身も後先のことを考えるのもなしだ。
例え彼女から永遠に拒絶されることになったとしても。
彼女の傷が、より一層深まってしまうことになるとしても。
今、彼女が過去から逃げることを許してしまえば、彼女は二度と立ち上がれない。
そんな哀しい結末は見たくない。
辛い思いをした人は、幸せになるべきだ。そうならなければならない。
恨まれたって構わない。それで救われるなら。
それがきっと、俺の役目だ。