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第四話「水面に浮かぶ泥船」

 六月初週の怒涛の週末から三週間ほどが経った。


 すでに社会は七月に突入している。肌に照りつける日差しが夏らしさを見せ始めており、外を歩くだけで汗がじわりと染み出してくる。そしてセミがけたたましく鳴き始め、いよいよ夏本番といった具合だ。


 ちなみに朝観ていたニュースでアナウンサーは「今年の夏は猛暑になりそうですね」と言っていた。毎年言ってないか、それ。


 何にせよ、すでに制服も夏服へと変化を遂げており、夏が来るのを今か今かと待つだけである。さあ夏は遊ぶぞー、と学生たちは息巻いている。


(とはいかないんだよなー)


 内心ぼやきつつ、夏を迎えるにあたっての最後の障害物に思いを馳せる。

 そう、期末テストである。学生が阿鼻叫喚する、一学期最後のあのテストである。

 ちなみに中間テストは無難な出来だった。清水さんと遥も上々の出来、悠一は……察してほしい。


 何はともあれ、その最後の関門を突破するため、俺たち四人は放課後、(わたくし)こと、立花真司の部屋で作戦会議をしていた。何故俺の部屋かというと「一番近いから」らしい。


 四人分のコップに麦茶を注ぎお盆に載せ、自分の部屋へと持っていく。全員に麦茶が行き渡った後、遥が口火をきった。


「えー、では第一回期末試験対策会議を始めたいと思います」


(まんまだな、おい)


 口には出さない。睨まれるから。


「まあ、ぶっちゃけ対策が必要な人はぁ、この場に一人しかいないわけですがね!!」


 遥はそう言いつつ、件の人物をクワっと目を見開き睨む。

 睨まれたその人物こと、来栖悠一君。彼はビクッと身を震わせ、「ごめんなさいっごめんなさいっ」とうわ言のように繰り返し始める。


 小耳に挟んだ情報によると、彼は中間テストのその凄惨な点数を遥に見つからないように隠蔽、隠滅を図ったそうだ。


 結果は成功。そして、遥による再三の追求をのらりくらりとかわし、平穏を満喫していた。――だがしかし、人の耳に障子は立てられぬというか。

 先日、ついにどこからか情報が洩れ、それを知って憤怒を示した遥によって、彼はお仕置きを施されたそうだ。その結果が目の前のこれというわけだ。


(……ま、情報を洩らしたのは俺なんだが)


 仕方なかったんですぅ。イラついた遥がすごい表情で手をにぎにぎしながら聞いてきたんですからッ。


「まあまあ、落ち着けって。で、何? 勉強会でもするのか?」


 悠一への罪悪感から、俺は助け舟を出す。


「うん、そう。こいつが勉強するのはそういう時ぐらいだから」


 遥はそう言った後「ね?」と悠一を見る。悠一は首をブンブン縦に振り、必死に肯定の意を示す。

 そんな二人のやり取りに呆れつつ、俺は清水さんに確認を取る。


「清水さんはどうだ?」


 勉強会しない? と問う。俺からの問いを受け彼女はしばし考えるようなポーズをとったあと、答えた。


「……うん。いいよ。でも今週は土曜日バイトあるから、わたしが参加できるのは放課後と日曜日かな」


 清水さんはごめんね? と言った。

 それを聴いた遥は、気にしないでいいよ、といった様子だ。


「オッケイオッケイ。それじゃ、そういうことで。とりあえず明日から勉強会ね」


 うえっ、明日からぁ? と文句を漏らしたバカは遥が睨んで黙らせた。学習しない奴だな。あ、だから点数悪いのか。というか今のうまくね? と内心ニヤッとする俺であったが、大事な事が決まってなかったことに気付き、みんなに聞く。


「場所はどうするんだ?」


「ここ」


「ここだろ」


「ここじゃないの?」


「……さいですか」



 次の日、俺たちは熱気の渦巻く体育館の中でバスケに勤しんでいた。なにも好き好んでこの殺人的な暑さの中で運動をしているわけではない。体育の授業である。


 水泳の授業はもう始まっているのだが体育の授業一回ごとに男女交代でプールを使用するため、一週間に数回はこうやって熱地獄の中で走り回らなければならないのだ。


(体育館にもエアコンつけましょーよぉ……)


 そんな無理なことを試合中に考えてしまうほど、俺の頭は茹っているらしい。なんだかすごく頭がボーッとする……。

 ほら、そんなこと考えながらコートに突っ立ってると味方がパスしたボールが飛んできて……あっ。



 漫画みたいに、頭にボールがぶつかって気絶……とはまことに遺憾ながらならなかったものの、一応大事をとって保健室で休んでこいと体育の先生に厳命されてしまった。


 保健の先生に事情を話すと、氷を入れた袋を渡してくれた。これで患部を冷やせということらしい。

 俺は椅子に座り患部を冷やし始める。だが患部を冷やしていたのは最初の内だけで、すぐに頬やら額やらにあてはじめる。


(……やっべぇ、めっちゃ気持ちええやん)


 俺がうっひょーとハッスルしている間に保健の先生は職員室に行ってしまったようだ。……決して……決して俺の奇行に恐れをなし逃げてしまったのではないと願いたい。


 そんな自己嫌悪と自己弁護に陥って鬱々としていると結構な時間が過ぎたようだ。授業時間が終わりに近づいている。

 そんな頃、保健室の扉が控えめにコンコンとノックされた。


「失礼しまーす」


 そう言って入ってきたのは清水さんだった。

 プール帰りなのだろうか。水着が入っているであろう袋を左手で持ち、首にはスポーツタオルをかけていた。何より、乾ききっていない髪の毛が頬や額に張り付き、その頬は運動した後だからだろうか、少し朱色に染まっている。何ともいえぬ艶のある雰囲気だ。


 正直ドキドキします。

 だが、そんなことはおくびにも出さない。俺は紳士なのだから。


「よよ、よお。ど、どどどどどうしたんだ?」


「…………そんなに頭強く打ったの?」


 ものすごく憐れまれてしまった。彼女は、かわいそうにといった表情でこちらを見ている。清水さんの言葉と表情がグサリと心に突き刺さる。

 って、今何て言った?


「何で頭打ったこと知ってんだ?」


「来栖君に聞いたんだよ。ボールが頭にぶつかって保健室に行ったって。……わりと深刻そうな雰囲気でね」


 清水さんはやれやれといった感じでそう言った。

 ああ、あいつまた深刻そうな雰囲気でからかおうとしたんだな。だが残念ながら清水さんはお見通しだったようだ。


 なんにせよ、清水さんは水泳で疲れているにも関わらずわざわざお見舞いに来てくれたといいうことだ。これは感謝しなければなるまい。


「ありがとな、清水さん。……来てくれて、さ」


 俺は口元を少し緩めそう言った。すると、清水さんは驚いた表情をしたあと、やたらと上機嫌になった。


「う、うん。当然だよ。友達だからね!」


 自分に言い聞かせるように、グッと右手を握りながら彼女はそう言った。なんでこんなにテンション高いんだ?

 俺が彼女の様子に首を捻っていると、清水さんは俺の持っているほとんど水しか入っていない袋に目をとめた。


「あ、溶けちゃってるね。新しいのもらおうよ」


 彼女はそう言って荷物を適当に置いた後、保健室を物色し始めた。が、この子はこんなにアグレッシブだっただろうか。もうちょっとおとなしかった気がするのだが。


 俺は在りし日の借りてきた猫のようだった清水さんを想い、遠い目をしていた。

 と、そうしているうちに清水さんはビニール袋と氷を発見したらしく手早く氷嚢を作っている。できあがると清水さんはニコニコしながらこう言ってきた。


「よし……ぶつけたところってどこなの? わたしが冷やしてあげるね」


「……え?」


 俺は驚いた。だが、すぐに冷静になる。彼女がときどきおかしな行動にはしるのは今までにもあった。どうやらテンションが高いといろいろとハッチャけるようだ。気にしても仕方ない。それに、俺の腕が疲れなくて済むじゃないか。

 俺はそう結論付け、素直にお願いすることにする。


「ここだ」


 左側頭部を指差し場所を教える。すると彼女は「りょーかい♪」と言い、俺の横を通り後ろに回り込んで、左手に持った氷嚢を患部にそっと押しあてた。


 患部に溜まっていた熱が少しずつ冷まされていくのがわかる。

 いつのまにか彼女の右手が俺の肩に触れていた。……彼女から微かにプールの塩素の匂いと、それとは別の甘い香りが漂ってくる。――清汗剤か香水だろうか? 彼女のその匂いと右肩に触れた手のひらの暖かさに、何故だか俺は安心感を覚えていた。


 ――俺は目を瞑る。きっと、彼女も目を瞑っている。

 まるで二人しかこの世界にいないかのようだ。

 こんな優しい時間が、ずっと続いてほしい。……俺はそう思っていた。

 長い時間そうしていたのではないかと思うぐらい、その時間は穏やかだった。

 

 現実に引き戻されたのは、保健の先生が扉を開けた音に俺たちが驚いたから。

 それは次の授業が始まる一分前のこと。……俺、まだ着替えてないっす。



 それから数日経ち、今日は日曜日。

 勉強会初日から数日が経過し、今日は日曜日ということもあって、お昼から俺の部屋で勉強している。

 俺たちは、炬燵机に四人で陣取り、各々課題に取り組んでいる。

 悠一は数学の問題を解き、遥に採点してもらっているようだが……。


「ここ違う! さっきも間違えてたでしょ!! 何回同じ問題でバツ付けさせて説明させる気なのよぉぉッ!! もお! いいかげんにしなさいよッ!」


「すみませんでしたー!! ちゃんと反省してるからっ、猛省してるからっ、――だから教科書で叩かないでぇぇーー!!」


(前途多難だな)


 ギャーギャー喚く二人を見て、仲が良いようでなによりだ、と俺は自分の作業に戻る。

 俺と清水さんは黙々と自習をしている。俺と清水さんは、俺は英語が、清水さんは数学が苦手な為、わからないところがあったら教え合おうと協定を交わしている。


 キリがいいところで、ちらりと時計を見る。するとどうやらずいぶん長く机に向かっていたらしく、時計の針は三時過ぎを指していた。


(休憩するか)


 俺は、「ジュースを入れてくる」と言って部屋を出る。

 部屋の外はむわっとした暑さに包まれており、エアコンが稼働している部屋にとんぼ返りしたくなるが我慢して歩を進める。

 階段を下りてリビングへ向かう途中改めて考えてみたが、新しくコップを出すのが面倒だという結論に至った為、結局麦茶を持っていくことにした。麦茶ならコップはさっき出した分が部屋にある。


 リビングに着いた俺は、冷蔵庫に入れてあったポットだけを引っ掴み、部屋に戻ろうと振り返り、歩き出そうとした。

 と、その時。


「あれ? ジュースじゃないの?」


 そう言いながらひょこっと清水さんが姿を現した。


「おう、新しいコップ持っていくの面倒だからな」


 俺がそう言うと、「手伝おうと思ったのになー」と清水さんが口を尖らせて言う。

 その姿がいじらしく、そして可愛らしかったため、俺は思わず吹き出してしまう。

 それを見た彼女は、


「え、ちょっと。どうして笑うの?」


 と、あたふたしている。その反応がなおさら可愛らしく、イタズラ心が湧いてきてしまった。


(少しからかってみるか)


「いや? 清水さんは可愛いなと思ってな」


 ためしに素直に褒めてみる。すると言葉の意味を理解した途端、清水さんの顔はみるみる赤く染まっていった。


「あ……え……っ」


 どうやら以前のように、頭の処理が限界をむかえたようだ。彼女は顔を紅くしたままフリーズしてしまった。

 俺はイタズラが成功した事を喜び、内心ニヤニヤしながら次の手を実行する。


「あれ? どうしたんだ清水さん。顔赤いぞ?」


 しらじらしくそう聞く。


「……っ、べ、別になんでもないよ。うん、なんでもないから!」


 そんなことを言いつつ、首や腕をブンブン横に振り必死に誤魔化そうとする。

 その様子が面白くて、俺は我慢しきれず笑っていた。乾いた笑みではなく、純粋な笑みで。


「……立花君はイジワルだね……」


 彼女は頬を膨らませてそう言った。


(そろそろやめとかないと、後でへそを曲げられそうだな)


 そう思った俺は、部屋に戻ろうと言いだそうとする。

 しかし、そんなとき彼女の首元にペンダントのひもが見えた。あれは……と気になった俺は、そのことについて聞いてみることにした。


「ペンダント、着けてくれてるんだな」


 その言葉にはっとした彼女は、幾分か処理能力を取り戻した様子で答える。


「え……う、うん。せっかくもらったんだし……それに、本当に嬉しかったから……」


 嬉しそうにペンダントを取り出し、指でそっと触れる彼女は、とても穏やかな眼差しをしていた。

 だが、


「……本当に、嬉しかったんだ」


 噛み締めるように嬉しいと繰り返した彼女の瞳には、どこか哀しげで切なげな感情が揺れていた。


 俺は迷っていた。これはチャンスなのではないか、と。

 何かあったのかと聞いてしまうべきか。

 それとも自分の気のせいだと見て見ぬふりをするべきか。

 そうだ、俺の勘違いということもありえるじゃないか。

 自己保身の醜い言い訳が頭に浮かぶ。そんな自分に反吐が出そうだ。

 

「ねえ、どうしたの? 怖い顔してるよ……」


 気付けば清水さんが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。

 俺はなんでもないように装う。


「……いや、ちょっと暑さでクラッときたんだ。顔洗っていくから、先に戻っててもらえるか?」


 俺は、あきらかに誤魔化しているとまるわかりな言い訳を並べる。

 清水さんはその言い訳を聞き、相変わらず心配そうな表情をしていたが、何か言い知れぬものを感じたのか、


「……うん、わかった。でも無理はしないでね?」


 と、こちらの身を案じた後、部屋へ先に戻ってくれた。



 彼女が去ったリビングで俺は佇んでいた。


(逆に心配されるなんてな。情けない奴だな、俺)


 自分の不甲斐なさに唇を噛む。

 何も出来なかった。話を聞く事さえも。

 勘違いなんかじゃない。あの子は何かを抱えている。

 それを誰にも言えず、ただじっと、一人で耐えているのだ。

 そのことに気付きながら、俺はただ、彼女を見つめることしかできなかった。

 右手に持ったポットに付いた水滴が、床に落ちて弾けていた。



 勉強会の成果もあってか、テストが行われた一週間、俺たち四人は十分な手ごたえを感じつつテストを終えることができた。

 テスト最終日、日程がすべて終わり下校となった後、教室に残っている生徒の数は十人にも満たなくなっていた。

 そんな教室で悠一は、「今回は良い点数を取れそうだ」と上機嫌で語っていた。椅子をガタガタ鳴らしながら。

 上機嫌な彼を見て遥は優しく笑いながら、


「そんなこと言っちゃってさあ。点数低かったら……わかってるわよね?」


 と、言った。

 さっきまで自信満々だったはずなのに、遥の言葉一つで顔を真っ青にし身体をガタガタ震わせ始めた悠一は、なんだか滑稽だった。


「そ、そんなことねーしっ。俺だっていい点取れるって! な、真司」


 助けてくれと俺に話を振ってくる悠一。


「いや、俺に聞かれてもな……どう思う、清水さん」


「え、ここでわたしに振るの? 困るよ」


 と、俺は清水さんに少しイジワルをしてみた。これくらいならバチはあたるまい。

 だってさっきこの人、俺が「今回はけっこういいとこまでいけるかも」と言ったら、「それでもわたしが上だけどね。だって立花君より、わたしの方が頭良いもん!」って言ってたもの。フフンとでも聴こえてきそうな態度でさ。


 清水さんは俺がパスした話をうんうん唸りながら律義に考えている。と、どうやら考えがまとまったようだ。


「……無理かなあ」


 ひでえよ、この人。

 世の中にはオブラートというものがあってですね、と世の中の渡り方について説いてやろうかと意気込む俺だが、本人である清水さんは真面目に考えた結果であるわけで。

 そんな俺の思考は、遥が噴き出す音で掻き消された。


「ブフッ、……香里。あんたもいうようになったわね」


 プルプル震えながら遥はそう言った。そんな彼女に俺は思わず呟く。


「バカにされたのはお前の彼氏だぞ」


 そんな悠一はというと、椅子にだらんと腰掛け燃え尽きていた。チーンと音が聞こえてきそうなほど、生気が感じられない。どうやら清水さんにまで冷たくされてかなり参ってしまったようだ。合掌。

 俺たちは、そんなくだらない話をしながら笑いあっていた。



 しばらく話した後、これから打ち上げでもするか、という話の運びになり俺たちは席を立った。

 教室を出て生徒用玄関に向かう。


「行くとしたらカラオケかね。ドリンクバーもあるしさ」


 と、悠一は言い、


「そうね」


 と、遥が短く答える。まあこの辺りですぐ行けるのはカラオケかファミレスぐらいしかないからな。

 しかし階段を降りたところで、俺はポケットにあるはずの物がないことに気付いた。


(自転車の鍵がない……落としたか?)


 それとも教室に置いてきたのか。どちらかはわからないが、一度教室に戻るしかないだろう。

 他の三人も自転車で登校している為、俺だけ目的地に向けてマラソンをするわけにはい

かない。距離もあるし。

 俺は、面倒だなと思いつつ、一度戻る事を伝える。


「わるい。忘れ物したから教室戻る。先行っててくれ」


 すると悠一が、そうか、と言う。


「じゃ、先に行ってるな。駐輪場で待ってっから」


 遥も「早く来なさいよー」と言い、清水さんも「待ってるね」と言って歩いていった。


「……さっさと済ませるか……」


 俺は一度降りた階段を登り始めた。

 教室の近くまでの道に鍵は落ちていなかった。ということは、やはり教室だろうか。

 もし教室に無かったら職員室まで落とし物を探しに行かなければならない。そうなるとただでさえ面倒くさい事がさらに面倒くさくなる。


(頼むからあってくれよ)


 教室にあることを祈りつつ、教室のすぐ近くまで来る。すると、俺たちの教室の開けっぱなしの入口から話声が聴こえてきた。

 俺は歩みを止めていた。

 もしもこの話声がただの話声なら気にも留めず、立ち止まらなかったはずだ。その話の内容は……。


「ねえねえ、あの話って本当なのかなー」


「あの話ってー?」


「あの子よあの子。清水って子。別の学校の子に聞いたんだけどさー、何か中学の時あったらしーよ」


「何かって?」


「さあ。私もちょっと聞いただけなんだけどー。あんまり評判良くなかったらしーよ」


「へー、そうは見えないけどねー。実は悪い子だったりするのかなー?」


 そんな声と、キャハハという笑い声が聴こえてきた。


 俺はいつの間にか、こぶしを握りしめていた。


(何も知らないお前らが、あの子の事を悪く言うな)


 怒りで全身の血液が沸々と煮えたぎっていくのがわかる。きっと今の俺の顔は怒りで歪んでいるだろう。自分が何故ここまで怒るのかわからない。頭に血がのぼった状態ではそんなことはわからない。


 だが、今はそんなことより怒鳴りつけてやるのが先だ、と足を踏み出そうとする。

 しかし、踏み出そうとして、ピタリとおもいとどまる。心に残った僅かに冷静な部分がガチリと歯止めを掛けていた。


《何も知らないのは、お前も同じだろ?》


 心の中で、俺が俺にそう言っていた。


《もしここで、これ以上俺の知らないあの子を知ってしまって、俺は今まで通りあの子に接する事が出来るのか?》


 それは自問自答だった。だが、俺は答えることが出来ていない。

 俺はあの子の事を受け入れられるのか?


 急速に熱が冷めていく。いつのまにか怒りはイラつきに変わっていた。自分に対するイラつきと教室の中に居る数名のクラスメイトに対するものに。

 俺は歩き出す。その歩みが乱暴なものだったせいか、肩にかけたカバンが扉にあたり耳障りな音を奏でる。俺は気にせず自分の席に向かう。

 教室にいた彼女らは突然の騒音に驚いていた。だがそれは一瞬のことで、俺の姿を捉えると顔を青くしていた。


 当然だ。悪口を言われていたのは俺の友達なのだから。


 自分の席に着き、机の中と周囲を見渡す。すると、机の下に銀色をした鍵が落ちているのを見つけた。恐らく、立ち上がる時にポケットから落としてしまったのだろう。

 俺はそれを拾い上げ、顔を上げる。視界に彼女たちが意識せずに納まる。すると彼女らは、うろたえつつも自分を弁護する言葉を探しているようだった。


 どうせ次にくる言葉は「そんなつもりじゃないの」とか「別に悪口だったわけじゃなくて」とか、そんな陳腐な言い訳だろう。

 そんな彼女らに醜悪さを感じ、そして、自分を見ているような不快感を覚える。

 俺は軽蔑した眼差しを向けながら、彼女らを鼻で笑いその場をあとにした。


 廊下を歩く途中、ふと立ち止まる。


(たぶん顔に出てるよな)


 イラつきは今も収まっていない。どうしたものかと考えるものの解決策は思いつかない。それすらも、今はイラつきに変わってしまう。

 いいかげん我慢の限界に来た俺は、思わず廊下の壁を殴りつけた。

 もちろん本気で殴ったわけではない。加減するぐらいの理性は残っている。

 だが、壁は思っていたよりも堅く、そして夏とは思えないほど冷たかった。


「……いてぇな、くそっ」


 少しだけ、泣きそうになった。



「おせぇぞ、真司」


「何やってたのよ。取りに行くだけじゃなかったの?」


「まあまあ二人とも。それで、鍵はあったの?」


 駐輪場に着いた俺を、みんなは三者三様の言葉で出迎えてくれた。

 あれから数分じっとし、なんとか気持ちを落ち着けた俺は自転車置き場へと向かった。その出迎えがこれだ。

 いつもの感じに安心感を覚えた俺は、ほんの少し笑う事が出来た。


「ああ、なんか落としてたみたいでな。必死にあちこち探し回ってたんだよ」


 これは時間がかかったことに対する誤魔化しだった。だが、どうやらばれなかったようだ。


「へぇ、そうなのか。言ってくれりゃ俺たちも探したのによ」


 との悠一の言葉に、遥と清水さんも「うんうん」、「そうだよー」と言っていた。

 三人の優しさに内心感謝し、待たせてしまったことを謝罪する。


「悪かったな、待たせて。じゃあ自転車取ってくる」


 そう言って自分の自転車の元へ向かう俺を清水さんが呼び止めた。


「ねえ、立花君。その手……どうしたの……」


 顔を心配そうに歪めた清水さんは、俺の右手を見ていた。正確には、こぶしを。


「うわっ、真っ赤じゃない! どうしたのよ、これ」


 遥も心配そうにそう言い、そっと俺の右手を持ち上げる。

 俺は冷静になった後すぐさま冷水で右手を冷やしたのだが、さすがに数十秒程度では赤みは引いてくれなかった。それ以上三人を待たせるわけにはいかなかったため、俺は諦め三人の元へ急いだのだ。


「ちょっとな。ぶつけたんだよ」


 なんとも情けない言い訳だが、あながち間違いではない。ぶつけたのは本当だ。そこに俺の意思があったか、なかったかは別としてだが。


「……そう。赤くなってるだけみたいだから大丈夫だろうけど。少しでも変な感じがしたら病院に行くのよ?」


 遥は「本当か?」とでも言いたげだったが口には出さず、心配そうにそう言った。

 清水さんも納得してくれたらしく、「辛かったらちゃんと言ってね?」と言って表情を和らげてくれた。

 だが悠一だけは、いつもより鋭い視線を俺に向けていた。



「で、その右手。本当のところはどうなんだよ?」


 カラオケでひとしきり歌い終わった後、悠一の家でゲーム大会でもしようとなり、悠一の家に向かう俺たちだったが突然、


「やっべー、ジュースとか何も無い。俺と真司で買ってくから、二人とも先行ってくれ。――遥、わかんだろ?」

 と、言いだした。

 清水さんは「わたしも手伝うよ」と言ってくれたが、難しい顔をした遥に連行されてしまった。

 そして買い出しを済ませた俺と悠一は、ようやく帰路についたところだった。


「どう、って。ぶつけたんだよ。そう言ったろ」


 俺は誤魔化そうとする。しかし。


「ぶつけた……ね。じゃあそれは偶然か? それともわざとか?」


 悠一は食らいついてきた。

 どうやら自分でぶつけた事はバレていたようだ。


「……何でバレた?」


 俺は悠一にそう聞く。すると悠一は「そんなこともわかんねーの?」とでも言いたげな顔をした。


「そんなの、俺も壁とかを殴りつけた事があるからに決まってんだろ。――――まあそのあと、すぐに姉ちゃんに半殺しにされたんだけど。……あん時はマジで怖かった」


 悠一は、最初は真面目な顔で言っていたが、姉の件になるとガクガク震え始めた。こいつ、女難の相でも出てるんじゃないか。


「と、とにかくだ。……何で壁殴ったりしたんだよ? お前そんな乱暴なやつじゃねーだろ?」


 いやいや俺のことはいいんだ、とばかりに気を取り直した悠一はそう俺に聞いてきた。


(誤魔化しきれないな)


 そう判断した俺は、教室で聞いた話を悠一に話す。ほんの少しの情報でしかないが、あの会話だけで清水さんの過去に何かがあったということは容易に確信できる。


「そっか。中学時代に……ね。……確証とまではいかないだろうけど、こんな形で知っちまうとはなー」


 話を聞き終えた悠一はそう言い、自転車を漕ぎながら日差しが照りつける空を見上げた。

 その表情は今までに見た事がないほど、苦々しげなものだった。



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