2-4
二週間ほどが過ぎました。
勇者様は賊を倒してこの街に戻り、教会でお祈りを捧げて以降生気が抜けたようです。機械的に朝夕食事を取り、後は宿の部屋でじっとしています。心ここにあらず。いえ、そんなものではなく、本当に魂が抜け出てしまっているようにわたしには思えるのです。
わたしは勇者様との旅を経て、いつの間にか勇者様のことが、その雰囲気からある程度推察できるようになっていました。何故でしょう。それほどまで長い付き合いでもないのに。
勇者様のやる気というものが、今は感じられません。やはり、件の子どもの事件のせいなのでしょうか。確かに残念な事でしたが、わたし達がその事件を知った時には既にどうしようもない段階だったわけで。それに、勇者様は魔王を討伐するのが伝説にある使命。それ以外については……申し訳ないのですが、勇者様には関係のないこと。すべての問題を、すべての人を救うことなど、そんな英雄のようなこと、出来なくて当然です。
伝説の勇者様に差し出がましいと思ってそれは言わないでおりましたが、先日ついそう意見してしまいました。しかし、勇者様の体は確かにそこに居られど、やはり魂はどこかへ行ってしまわれていたみたいで、わたしの言葉は右の耳から左の耳へとすぐに抜けていきました。
勇者様は魔王討伐を諦めてしまったのでしょうか。
勇者様はもう、この体に戻られないのでしょうか。
体に、戻る?
いえ、その表現だと勇者様を普通の人間として扱っていないも同然ですね。
そう……もう、以前の活発なお姿には戻られないのでしょうか。
わたしは宿代を稼ぐ目的もあって、今日は街の外でモンスター退治をします。
蓄えはまだまだありますが、今後再開される旅の続きを考えると、宿代であまり消費してしまうわけにはいきません。ですが、街への出入りが大変であることと、勇者様のことが心配なので、稼ぐのは週に一回ほどにしています。
街の周辺は例によってのどかな平原が広がっているので、そうそうモンスターは現れません。見渡すと、少し遠くに駆けている成体のひよこを見つける事ができました。見た目はイヌやオオカミを一回り大きくしたようなモンスター。わたしはそこへ向かって小走りに追いかけます。コツはあまり急ぎすぎないこと。遭遇した時に疲労していると戦闘が余計に大変になります。ただでさえ勇者様を欠いて一人なのですから安全には気を配ります。
後ろから回り込もうと思いましたが、見晴らしのいい平原でのこと。回りこむのは容易ではありません。と、そうこうしているうちに気付かれてしまいました。さすが野生の動物です。邪気のない僧侶であるわたしから、殺気を敏感に感じ取ったようです。いいですとも。相手にとって不足はありません。
「い、一対一なら、余裕なんですよ!」
わたしは強気に打って出ました。杖を勇ましく構えます。そう、勇者様が剣を構える時のように。
ふいっ。
ひよこがそっぽを向きました。
テッテッテ――。
軽快なリズムでどこかへ歩き出します。
「ちょ……どこへ行くんですか!」
相手にされていない。わたしは急いで後を追いました。ひよこは時折こちらを振り返って、まるでわたしがついてくるのを確認しているようです。走る速度も小走り程度で、わたしがギリギリ追いつけそうで追いつけないぐらいを保っています。
「ちょっと……はぁ、はぁ……逃げないで、ください……!」
わたしは杖を振りながら、追い回すようにして後を追いました。わたしはこんなにも攻撃の意思を顕にしているのに、どうして追いかけっこでもしているかのように、あのひよこはのん気に走るのか。逃げるのならせめてもっと全力で走ってもらいたい。そうしたら、わたしも諦めて別の獲物を探すというのに。
テッテッテ……テッ…………。
ひよこが歩速を緩め、そしてついに立ち止まりました。こちらを振り返ってジーっと見ています。わたしは少し息を切らしています。
ははあ、そういう事ですか。わたしの息を切らせて、疲れているところを叩こうという腹なのですね。まんまと罠にはまってしまいました。賢いじゃないですか。いいでしょう。確かにわたしは少し疲れました。肩で息もしています。しかし、この程度でひよこ一匹倒せなくなるほど弱いわたしではありません。わたしの方が一枚上手のようです。
テッテッテ。
テッテッテ。
テッテッテ。
茂みから三体のひよこが姿を表しました。
ははあ、そういう事ですか。わたしをおびき寄せて、仲間と一緒に叩こうという腹なのですね。まんまと罠にはまってしまいました。賢いじゃないですか。いいでしょう。確かにわたしはホイホイついて来ました。戻る道もよく分かりません。しかも、さすがにひよこ四匹は倒せないような弱いわたしだったりします。あなたの方が一枚上手のようです。
わたしは背を向けて、全力で走り出しました。わたしが来た方向にお仲間がいなかったことが、唯一の勝算です。
「グアアアォッ!」
「ひいっ!」
ひよこの咆哮。先ほどまでは無言でテクテク走り、なんならちょっと可愛いかもとか思っていたのに、その吠え声はダメです。ビクッとしてしまいます。本能が恐怖を感じるのです。
わたしは空気を掻き分けるように両手を振り回して逃げました。急いで走るとそういう走り方になるようです。右手に持っている杖が遠心力で重みを増し、手首に負荷を与えます。落とさないようにギュッと握り、意識して手の振りを抑えると、反動で左半身が勢い前に飛び出そうとします。ダメ、バランスが崩れる。倒れる。少し落ち着かないと。
チラ、と後ろをうかがいました。もうひよこの歩幅なら一、二歩ほどの距離にいました。近い。
「ガァウウゥッ!」
「きゃあああっ!」
見るべきではなかった。でも、無理からぬ事。わたしは吠えられて恐怖し、いよいよバランスを崩して前方に滑りこむように倒れました。
「痛いっ! ……あうっ!」
背中に乗っかられます。ひよこの前足の感触が背中に感じられ、わたしはにわかに震えだしました。
(ううっ……でも、こんな事ぐらい!)
魔王を倒す戦いの旅の途中なのです。ひよことの戦闘くらいで、ビビり過ぎです。人間を相手にするのとは訳が違います。神様の加護があります。モンスター退治は神様も推奨する正義の戦いなのです。
「んあああーっ!」
力を振り絞り、起き上がりました。背中に乗っていたひよこが飛び退きます。わたしが振り向き構えると、四匹はいずれも一息で飛びかかれる距離でこちらを伺っていました。牙が見えます。睨み合いのようですが、この状態が長く続くようには思えません。向こうはいつ飛びかかってきてもいいのです。今にも来るでしょう。ならば、
「えいっ!」
起き上がりながら唱えていた炎の魔法を完成させ、一番近い一匹に放りました。せめてもの先制攻撃。炎はひよこに直撃し、真正面から頭部にくらったひよこは、もんどり打って倒れます。結構なダメージのはずです。そのまま戦線離脱して欲しい。
「グアアッ!」
残りのひよこが飛びかかって来ました。三匹同時。わたしは杖を両手で持って右から左に振り抜きます。一匹のひよこにかすりました。それだけでわたしの腕に重い反動が返り、軽く痺れます。残りの二匹は用心してか、すぐに華麗なバックステップをして飛び退きました。杖を当てた一匹を見ます。平気な顔でこちらを睨みつけています。ほとんどダメージになっていないようでした。
(今ので近づくのが危険って思ってくれたらいいのに)
わたしはそう期待しますが、多分「ちょっと邪魔くさいな」ぐらいにしか思っていないでしょう。再び飛びかかられそうです。また押し倒されたら、今度は起き上がれないような気がします。
(せめて一人じゃなければ)
思っても詮無いことです。
(わたしは後方支援タイプなのに)
自らの意志でここにやってきました。
(勇者様)
勇者様は、ここにはいません。
ダッ。
一匹がわたしに飛びかかってきます。わたしは必至に体ごとその方向を向き、体当たりを杖で防御します。両手に持った杖にひよこがぶつかります。そのまま押されてわたしは後ろに倒れそうになり、片足を下げてなんとか踏み止まろうとします。
横からもう一匹が飛びかかって来ました。わたしは怯えた目でただそれを見ることしか出来ません。構えた杖で、最初の一匹と押し問答をしたままだからです。そして、さらにもう一匹が地を蹴る音を後ろに聞きました。
「あっ……」
わたしは背中から倒れていました。仰向けで、構えた杖で押し留めていた一匹が、今度は胸の上でわたしを前足で踏みつけています。ジンジンと痛みが足首からしてきました。下げた足を、噛まれたようです。それで呆気無くわたしは倒れたのでした。
両手を、杖を振り回そうとします。押さえ込んでいる一匹は思いのほか重く、乗っかられているだけで、わたしの行動は制限されます。振りほどこうとします。もしかしなくても、わたしより体重があるのでしょう。ビクともしません。なおも暴れようとするわたしに、ひよこは吠えました。そして、一瞬前足の感触が消えて、すばやく振られ、
「……っ!」
爪で引っかかれました。瞬間の熱を持った痛みに、顔が歪みます。それがきっかけになったのか、他の二匹が足を、腕を噛んできました。
「……っ……ぃっ……」
わたしは痛みで声も出せません。こうなると、魔法使いタイプは反撃が難しいのです。抜け出すには力が要ります。攻撃するにはある程度の集中力と、呪文を唱える時間が要ります。
「……ぅ…………」
わたしにできることは、静かに涙を流すことだけでした。泣いて感情を発露することで、痛みを僅かに忘れられます。
「うああっ!」
痛みを叫び声で表現する事も大事でした。考えることなく、なるがままに。
「…………」
そして、ありがたいことに、気を失うのです。
ザクッ……ザシッ……。
「――ガウウゥッ!」
「――ウガッ、ガッ!」
ドッ……ドサリ……。
…………。
…………。
……口に、何かが押し込まれる感触。
「んぐっ……んんっ!?」
良薬口に苦し。これは……薬草。
わたしは口に薬草をこれでもかとつめ込まれ、窒息しそうになって目を覚ましました。
【あつのりは マリアに やくそうをつかった】
【あつのりは マリアに やくそうをつかった】
【あつのりは マリアに やくそうをつかった】
「んふーっ!」
ペッペッと、頬を膨らませるほど口に詰め込まれた薬草を、わたしは吐き出しました。しかし、
【あつのりは マリアに やくそうをつかった】
「うぐうっ!」
すかさず、横にいた勇者様が薬草を口に突き立ててきました。
ペッ(薬草を吐き出す音)。
グッ(薬草を詰め込む音)。
ペッペッ(薬草を多めに吐き出す音)。
グウウウッ(薬草を強引に詰め込む音)。
殺される。人の手によって、殺されてしまう。
「んあーーっ!」
わたしは両手を振り上げて、勇者様の手を払いのけました。
「んぺっ……ぺっ……。殺す気ですか、勇者さ――」
ぎゅっ…………ぎゅうううううううぅっ。
「きゃあああぁっ!」
わたしは強く勇者様に抱きしめられました。痛い。痛い。
「痛いです、勇者様」
わたしを拘束から解く勇者様、そして、
ビシィッ!
「んいっ!」
強めのチョップ。
ビシィッ!
ビシィッ!
痛い。痛い。
「んあーーっ!」
わたしは両手を振り上げて、勇者様の手を払いのけました。
頭部を抑えます。体中痛かったのですが、新鮮な頭部の痛みがそれを上回っていました。
「……勇者様。もっとスマートに助けることは出来ないんですか、一歩間違ったらわたし、死んでしまいます」
勇者様はそんなわたしの悪態に、涼しいいつものお顔でただ見るだけ。
「勇者様?」
いえ、どこかいつもと違う雰囲気。やはりまだ引きずっておられるのか。涼しいお顔は顔だけで、心は深く沈んでいるように感じられました。
「あっ……待って、勇者様」
わたしは、歩き出す勇者様の後を追うことしか、今は出来ませんでした。
●
朝です。
「おはようございます。勇者様」
「…………」
今日は、勇者様に少し生気が戻ったように感じられます。足取りは遅いですが、宿を出て街を徘徊なさっています。いよいよ旅を再開するのでしょうか。勇者様は港ではなく、街の中心へと向かっていました。
防具屋。
もしかしてわたしの装備を――という甘い考えを持つときっとバカを見ます。わたしはそれでも期待が顔に出かねないので、口元を引き締めたちょっと不自然な顔をして、勇者様の後について店内に入りました。
(わぁ……)
そこは豪勢でもなければ、綺麗な服が並んでいるわけでもなかったけれど、わたしが身に着けている皮の服より全然値が張るようなものばかりが陳列されていて、つい間抜けに口を開いてしまいました。
そして、勇者様はカウンターへ赴き、道具袋を出して中身を無造作にぶち撒けました。
「……え」
【うる:やくそう x17(x0)】
【うる:どくけしそう x 8(x0)】
【うる:カンパン x 5(x0)】
【うる:まほうのくさ x 1(x0)】
【うる:チョコレート x 3(x0)】
「え? 待って、待って勇者様!」
【うる:おいしいみず x 6(x0)】
「勇者様! 勇者様!」
【うる:こんぼう x 1(x0)】
【うる:ナイフ x 1(x0)】
【うる:ぬののふく x 1(x0)】
――売れる物をすべて勇者様は売りました。
店を出て、また街を行く勇者様。わたしはボー然としながら付いていきます。
酒場。
昼間からお酒なんて、という軽口も考えも浮かびません。わたしはただただ嫌な予感だけがしました。旅の仲間を集うのにちょうどいい酒場はまた、仲間と別れる場所としてもよく使われます。勇者様は、
【あつのりは やくそうを マリアにわたした】
手持ちの荷物にあった薬草を、わたしに渡してきました。
【さくせん:いのちをだいじに】
今は意味のない作戦指示。
【きちょうひん:マリアのだったいとどけ】
勇者様は、わたしの脱退届けを取り出して、ギュウッと抱きしめ、それを――
「ダメですっ!」
わたしは。
わたしは、それを取り上げていました。
涼しいお顔のまま、こちらをただ見る勇者様。
「勇者様はわたしを仲間から外した後、どうなさるおつもりですか?」
わたしは脱退届けを強く胸に抱き、そう問いただしました。勇者様は無言です。
「答えてください! この後、どうするつもりだったのかを!」
無言。
勇者様は喋るけれども喋れない人。理由は知りませんが、その矛盾するところをわたしは知っていました。わたしはそんな勇者様でも答えられるような聞き方に変えます。
「別のお仲間を、パーティに入れるのですか?」
無言。いいえ、という答えだということが、わたしには分かります。
「わたしとの冒険は、したくないのですか?」
無言。やがて、ゆっくりと、親指を立てます。嘘です。わたしには分かります。わたしとの冒険を、勇者様はまだしたいと思っているはずです。
「人が死ぬのが、嫌なんですか?」
親指を立ててきます。迷いなく。やはり子どもが生き返らせられないことがショックだったのです。
「それで……冒険を、世界を救うのを、おやめになると言うのですか?」
おずおずと、親指を立ててきました。
「わたしが死ぬのが怖いですか?」
再度、親指を立ててきました。
ならば、わたしは納得するわけにはいきません。わたしは勇者様に掴みかかりました。
「でしたら……世界をお救いください。勇者様は、伝説の勇者様なんです。勇者様が世界をお救いにならなかったら、世界も……わたしも、いずれ死に絶えます」
勇者様は無言。でも、動揺しているのが分かりました。
「魔王に世界は脅かされているんです。この世界の住人なら、誰もがそれに怯えている。でも、伝説の勇者様が……勇者様が魔王を打ち倒し、この世界を救ってくれるからわたし達は希望を持って生きていられるんです!」
わたしの言葉は止まりません。勇者様は無言で、でもしっかり聞いてくれています。
「そのためなら、わたしは痛みにも耐えます。つらい野宿の日々にも耐えます。勇者様のセクハラにも耐えます。……勇者様。わたしを、今、抱きしめてください」
勇者様はクルリクルリと回転し、やや動揺を見せた後、ぎこちなく抱きしめてきました。
「温かいです、勇者様。いつもの勇者様が、今もここにいるのが分かります」
わたしは両手を勇者様の背中に回しました。酒場の一部からヒューッと口笛が聞こえてきました。
「わたしをお救いください、勇者様。それが出来るのは、世界でただ一人。勇者様だけなのです……」
その後、道具を必要なだけ買い戻し、わたし達は連れ立って宿屋へと戻りました。帰り道で手を繋ごうとすると、勇者様は恥ずかしがってなのか答えてくれません。抱きしめるなどという大きなアクションはするのに、手を繋ぐことを照れる神経はわたしには分かりません。
でも、不器用な勇者様は好感が持てます。この旅が良いものにならんことを。