1-3
大陸。海原。密林。砂漠。秘境。王国。亡国。
魔王退治の旅が、世界を一周するような旅だとは思いませんでした。
何をどうこうするより前に、捕まって脱出劇を繰り広げるようなことになり。
魔王とは何者かということを知るために、賢者に会うことになり。
全ての大陸を移動する足がないために、自分達の船を手に入れることになり。
貴重な秘宝を借り受けるために、また別の稀少品を調達する必要にあい。
巻き込まれた問題を親切で解決したら、それが自分達の目的に都合よく返ってきたり。
わたし達は世界中の人に名前を覚えてもらえ、大小様々な問題を解決する、英雄か何かのようでした。伝説の勇者様を擁するわたし達のパーティは、世界から盛り立てられているような錯覚にさえ陥ります。
勇者様とは、あー様ご自身の実力だけを表す伝説ではないのでしょうか。
勇者様とは、この世界にとってどういう存在なのでしょうか。
勇者様とは、一体。
あー様とは、一体。
【しゅうごう】
あー様の命令を受けて、わたし達は集まります。
あー様は今日も、わたし達や世界の有り様には無頓着に、旅の一歩を踏み出すのです。世界は、無頓着な振る舞いの結果として救われるのかもしれません。
あー様の奔放な旅路の果てに、結果として救われるこの世界。
あー様はこの世界にとって、一体どういう存在なのか。
あー様はこの世界のことを、本当に救いたいと思っているのか。
●
もう魔王の影くらいは見えそうなほど、冒険は佳境を迎えています。
あー様は先日、伝説の剣を手に入れました。わたし達も伝承に残っているような名のある装備を手にし、否が応にも決戦の日が近いことを思い知らされています。
しかし、アレクスさんなどが高まる気合を抑え切れない様子でいるのとは対照的に、あー様はかつての行動力も見る影なく、最近はどこかうわの空だったりします。
今日辿り着いた街。おそらくはこの冒険最後の街となるはずです。秘境と言われるような地の果てまでも冒険したわたし達は、世界の全てを渡り歩き、魔王の住むこの大陸に乗り込むただひとつの転移魔方陣によって、ここに到着しました。
正直街があって助かりました。野宿にも慣れたものですが、最後の休息はやはり宿で取りたい乙女心です。
空はどことなくどんよりとしていて、街の人も活気がありませんが、わたし達が魔王を倒すまで後少しの辛抱です。
あー様はうわの空なりに、習慣でいつものように街中を練り歩きつつ、街の人々との会話を行いました。
そして宿に。あー様の様子は気になりますが、おそらく明日こそは最終決戦。わたしは緊張ですぐには眠れませんでした。
あれから一ヶ月。
宿のベッドが心地よく、また野宿をしたとして安眠できるか不安です。
あー様は、いよいよ出発するかと思ったら、レベル上げをすることに終始したり。冒険初期に攻略したダンジョンに戻って、取りこぼした宝箱から今は不要となった武器を手に入れたり。急に必要としない弓矢の技能を磨き始めたり。
あの自信過剰なぐらいのあー様が、どう見ても魔王退治を敬遠するようになりました。勇者様に反発するなど夢にも思わないアレクスさんやマーリンさんは、
「機をうかがっているのでしょう」
「焦る必要はないという判断じゃ」
と、さほど気にしていない様子。
もちろんわたしもあー様を信用していますから、たきつけるような事はしませんが、そうではなく、その、どうしてなのか、何を思っているのかが気になっています。勇者様に疑問を持つなどとても失礼なのですが、でも、そうではなくて、あー様が持っているかもしれない不安を取り除いて差し上げたい、という気持ちなのです。
あー様は、今日は道具袋を漁って道具や装備品を点検しているみたいです。取り出した道具を、取り出した逆順にしまって、それだと実際使う時に取り出しづらいため、また取り出して元のように詰め直しています。
いつもいつも変わった行動を取ってきたあー様ですが、今はそういうのとは違う、ただ無意味な行動を取っているのがわたしには分かりました。あー様は、伝説の勇者様はなぜ世界をお救いにならないのか――
「……伝説の勇者……」
ポツリと、そう声に出してしまった事に気付き、わたしは慌てて口元を抑えました。
恐る恐るあー様を見ると、顔がこちらを向いていました。手に持った道具をそのままに、まるで時間が止まったようです。わたしは悪いことをしたわけでもないのに、とてつもない罪悪感のようなものを感じました。
「あの、違います。あー様」
あー様は手に持った道具をそのまま落として、立ち上がり、部屋を出ていきました。
「待って、あー様!」
急いで扉を出て追いかけましたが、すでにあー様の姿はそこにありませんでした。
あー様は街で一番高い建物の最上階にいました。そこからは街の全貌が見下ろせます。地平線に目を向けると、魔王がいると言われる、いつも暗雲に包まれた背の高い城も見ることができます。
わたしは一日中街を探し歩き、夕日が差す頃、あー様を見つけることができました。僧侶という職業にありながら、今のわたしは丸一日歩きまわれる程度には体力があります。
あー様は、ここからわたしが探しまわっている姿を見ることができました。ですが、声をかけて自分の居場所を教えてはくれませんでした。
それはやはり、あー様が意地悪な方だからでしょうか。
それとも。
あー様は、ここにわたしが登ってくる姿を見ることもできました。ですが、逃げることなく待っていてくれました。
それはやはり、あー様がお優しい方だからでしょうか。
――わたしは、そのどちらでも構いません。
ただ、どちらかであって欲しいとは思うのです。
今のあー様はどちらでもなく、何も考えようとせず、魂が抜けたようにボーッとしているだけなのです。
「あー様」
あー様はわたしを振り返り、隣を少し空けました。わたしは歩いて近寄り、そこに収まります。
二人で街を、世界を見下ろしました。
「……あー様は、世界を救うのが嫌になりましたか?」
あー様はいつものお決まりのポーズを取る事もなく、時折わたしを見るだけです。
探している間、会ったらどうしようか考えていました。聞きたいことや言いたいことは色々あるような気がしましたが、恐れ多いとか伝説の勇者様の考えなんてわたしには分からないとか思ってしまい、それはまったくまとまりませんでした。
だから用意した言葉ではなく、今世界を見下ろして、魔王の根城を一望して、思ったことをただ口にすることにしました。あそこに辿り着いた時、わたし達の旅は終わります。
「冒険が終わるのが、嫌になりましたか?」
あー様はわたしを向き、ゆっくりと親指を立てました。
「それでしたら、魔王を倒してからも冒険しましょうよ」
あー様は親指を立ててくれません。
「……わたしとの冒険は嫌ですか?」
ちょっと意地悪な事を言ってみました。チョップされました。
「冒険楽しかったですね」
親指を立ててもらえました。
「わたしもいっぱいレベル上がりました」
親指を立ててくれました。なんだか嬉しい。
「海の洞窟。あそこ、わたし大活躍でしたよね」
無反応。
「あれ? ほら、みなさんがやたらに痺れまくってたのを、片っ端から回復しました」
無反応。僧侶だから当然だということでしょうか。
「あー様がクラーケンと戦っている時に痺れて、でもわたしは法力があとちょっとしか無くて、それで体力回復と痺れ回復どちらにするか悩んで。結局痺れの方を回復したら、次のあー様の一撃でクラーケンが倒せたんです! 痺れが自然回復するのを待ってたら全滅の危機でした。あの時のわたし、いい判断でしたよね! ねっ!」
今度こそグッと親指が立てられました。覚えておられますか。あの時も同じように親指を立てていただきました。
「今、戦争している国で、わたし牢屋に入れられましたよね」
お腹を抱えて笑われます。
「でもあれって、あー様が入れたんじゃないですか。……きっとバチが当たったから、その後あー様も投獄されたんです」
チョップされます。わたしは、あははと笑いました。
「あー様、何であの時、その……わたしがおトイレ見ないでって言ったのに、見たんですか?」
あー様はその場で足踏みするようにキョロキョロとして、結局無反応――かと思いきや親指を立てました。
「どういう意味ですか!」
お腹を抱えて笑われます。
「あの時の脱出劇は、一番わたし冷や冷やしました。レベルも全然低くて、でもあー様がいたから頑張れたんです」
キョロキョロ。
「わたしが諦めかけた時、わたしを抱きかかえて階下に飛び降りましたよね。あの時みたいに……もう一回、抱きしめてくれませんか?」
キョロキョロ。
キョロキョロ。
……チョップ。
「痛いです……もう。あー様はこんな時なのに、もう」
わたしは怒ったようなふりをします。なんだか、今、あー様がとても近くに感じます。
「世界をずっと旅してきて、この街ほどじゃないけれど、どの国も魔王の脅威にさらされているのがよく分かりました」
二人でまた街を見下ろします。
日は既に落ちて、ところどころに弱い街の灯りが見えます。城下町とかとは比べるべくもなく、同じくらいの規模の街と比較しても、この街の夜は暗い。
「わたしは……魔王を倒して、世界を救いたい。この世界の住人なら誰もがそう思う事でしょう」
あー様の方を向きます。
あー様の張り付いたような薄い笑顔を見つめます。
「あー様。あー様は勇者様です。伝説の……勇者様です」
無反応。
わたしは言いました。
「……あー様。勇者様とは何者なのですか? 多分、きっと、それは聞いてはいけないことなのでしょうね。でも、でも、あー様。あー様はその…………この世界の人では……ないん、ですか?」
あー様は無反応。
ただ、動きのないあー様のその所作が、わたしには答えるのを迷っているように見えて、次の言葉を紡げませんでした。
わたしはあー様の返答を待っている。でも、あー様を問い質しておきながら、あー様にできれば……その嘘を突き通して欲しいとも思っている。
わたしは「別の話をしましょう」とでも言ってこの話を打ち切らないといけなかったのに、結局それができませんでした。
やがて、あー様は、ゆっくりと親指を立てました。
そして、抱きしめてくれました。
あそこに辿り着いた時、冒険は終わる。
この世界を救う役割のあー様との冒険は、終わる。
翌日。あー様の命令がみんなに伝わりました。
【しゅっぱつ】
【もくてき:まおうじょう】
●
魔王の城は森の中にあり、わたし達はまず森を抜ける必要がありました。
かつて別の大陸で森を抜けるとき、あー様は好奇心旺盛に周辺一帯を練り歩き、真っ直ぐ抜ければ二日かからないところを一週間かけて踏破しました。
そして今、あの時の森とは違うオドロオドロしいこの森を前にして、あー様はどうしているかというと……またも同じようにウロウロしながら道無き道を進んでおられるのです。
巨大アリクイの落とし穴寄りを歩いて下を覗きこんでみたり、毒の沼地を道にしてグッチャグッチャと毒しぶきをあげながら歩いたり、大蜘蛛の糸が網の目のように張り巡らされた木々の上を獲物よろしく渡り歩いたり。
あー様の後を影のようにきっちり付いてこさせられるわたし達は、とても大変です。
すっかりいつもの調子を取り戻したかのごとく、冒険を楽しんでおられるあー様。わたしもならって、魔王を倒す旅という事を一時忘れて、楽しもうと試みました。
でも、ごめんなさい、あー様。魔物の住処を笑顔で歩き続けることは、まだわたしには難しいようです。特に大蜘蛛。見るだけで全身から力が抜けます。本当に申し訳ありません、あー様。一刻も早く、ここを抜けたい。
それでも歩みの早くなったわたし達の前では、一日とかからず森は踏破されました。
目の前には魔王の住まう城。塔のように背が高く、天辺は雲にまでかかっています。
最後の戦いが待っています。
城の中は空気こそ淀んではいましたが、空間が広く取られ、おぞましくも気品はあるようです。調度品などは少なく、よく見れば閑散としてはいるのですが、これまでのダンジョンとは違い、迷路のような構造はしておらず、王の住まう城としての体を成していました。
なので、その攻略自体は意外なほど苦労はなく、わたし達は一歩一歩を最後の戦いへの心の準備にだけ割くようにして歩き進めました。
何時間経ったでしょうか。
まったく同じフロア構成の連続に、永遠に続くのではないかと思われたところに変化が現れました。他の扉の四倍は大きく、色も赤くて、ゴツゴツとした意匠も施されている大扉。
あからさまに、この先何かがあると告げています。
わたしやアレクスさん達が頷き合う中、あー様はさっさと手荷物の確認を始めていました。毎度の事ながら緊張感などなく、どこか事務的です。それでこそあー様なんですけれど。
わたしに、みなさんの体力をしっかり満タンとするよう、指示がありました。
アレクスさんには予備の属性付きの武器と、みなさんの体力を法力無しで小回復できる秘宝が手渡されます。
マーリンさんは最後尾にいたアレクスさんと隊列を入れ替わります。
そして、あー様が先頭に立ち、扉を両手で押し開きました。
入り口からまっすぐ敷かれた赤い絨毯の上を歩きます。その先には玉座。そこに座る一人の人間の姿がだんだんと見えてきました。
あれは……まさか!
「……よくぞここまで来たな。勇者たちよ」
なんというドラマなのでしょう。彼はかつて訪れた、わたしが投獄された国の宰相です。
「あ、あなたが何故?」
わたしはその場の空気で、ちょっとだけ出しゃばってそう言いました。
「……私は魔王。かつては人間だったけれどな……」
魔王がいきなり気になる発言をします。
「かつては人間だった、だと? それはどういう事なのですか」
アレクスさんが片足を一歩前に出し、そう問いかけます。
「……昔の話。もはやどうでもよい事だ」
自分から気になる事を言っておいて、それはヒドイ。
「おぬしが宰相として糸を引いていた国で、親を目の前で殺された子どもの話を聞いた事があるのう」
マーリンさんがあごひげを手で弄びながら、突然名推理を始めます。
「……どうでもよい事だと言っている!」
魔王が怒り始めているようです。
「確か、騎士隊長の男が娶った姫にずっと好意を抱いていた二人の幼馴染で親友でもあった魔法師団長の召喚した魔物によって騎士隊長と姫が殺された、という話ですね。まさか、その二人の子どもが魔王、あなたか!」
アレクスさんがいつになく饒舌になっています。
「……ククク、そうだ。その召喚された魔物に育てられて私は魔王となった。初めて殺した人間はその魔法師団長だ!」
悲しい。なんて悲しい話なのでしょう。そして最後にあー様の勇ましい声が、
「だからといって にんげんすべてが あくではない」
あー様かっこいい!
あー様はここぞという時に、時折誰かに用意されたようなかっこいいセリフを言うのです。普段無口気味で、変わった行動の多いあー様だけに、ギャップでわたしは痺れてしまいます。
見るとあー様は、何故か真横を向いていて、魔王というよりいくつもある松明の一つに言っているような形になっていました。
どうして違う方向を向いていたのかは分かりません。小さなミスですが、他のところをいくつか目を瞑ってでも、こういう大事なシーンだけは何とかして欲しかったものです。
しかし、魔王の方は瑣末なこととしてそれに反応することはなく、
「……ならば止めてみせよ! 勇者の力とやらで!」
そう言って、ついに戦いの火蓋は切って落とされました。
魔王の攻撃。
手に持った杖による物理打撃、最上級の爆発系呪文、補助系の魔法を解呪する得体のしれない専用の技。
早い。こちらの誰よりも早く攻撃を繰り出してきました。しかも、一時に三つもの行動を取れるなんて、さすが魔王です。最後の行動は先制したうえでは意味の無いものだと思うのですが、そういうよく分からないところも脅威です。
わたしは定番の戦略として、みなさんの力や防御を補助する魔法を唱え始めました。続いてあー様やアレクスさんが武器を振りかざして突撃していきます。
魔王はそれらを片手で払いのけるようにして防ぎます。杖なんかをもって魔法使いっぽく見えますが、案外肉体派なのかもしれません。呪文も唱えていましたし、さすがに魔王ともなれば、偏りなくなんでもできるのでしょう。
マーリンさんが、あー様達が払いのけられて退くその隙間を縫うように、火の玉を光線のように一直線で魔王へと放ちました。人の動きで避けられる速度ではありません。見事魔王に直撃。一瞬にして魔王が青白い炎に包まれます。
マーリンさんが使える魔法の中でも最上位にある炎の呪文。魔王戦なのです。始めから最大火力を惜しみなく使っていくのは、当然ですね。
【さくせん:じゅもんをつかうな】
あー様の命令が下りました。
え? と一瞬思いますが、あー様の命令に逆らう事などありえません。わたしとマーリンさんはそれきりで、呪文を唱える事をやめます。
魔王を包む青白い炎が全てを焼き尽くし、やがて収まりました。まさかこれで魔王は倒せたのでしょうか。周辺には焼けた絨毯と玉座があるばかり。魔王の亡骸はありません。
しかしどこからか、
『……クックック』
と、辺りに響き渡る不気味な魔王の笑い声が聞こえました。
『……おもしろい。我の本当の力を見せてやろう』
そして湧き上がった黒い煙が収束していき、再び姿を現した魔王。魔法使い寄りの外見だった先程よりも、ガッチリとした肉体を見せる格好をし、角も生やしています。一転肉体派の外見となりました。
「変身……じゃと」
「これは、手強そうですね」
マーリンさんとアレクスさんが歯噛みして感想を漏らします。
変身だなんて、これはなんという熱い展開。武者震いをしながらあー様を見ると、よそ見しながら薬草をガジガジとかじって、僅かな体力消費分を回復していました。
さすがにここに至っては、緊張感が欲しいです。あー様。
しかし、すぐに思い直します。よくよく考えれば、まだ戦い始めて一度剣を交えたぐらいでしかありません。わたしもあー様に習って、冷静に魔法の草をガジガジかじらせてもらいました。
きっと、これが勇者あー様流の戦い方なのです。あー様と一緒なら誰が相手でも負けないのだから、リラックスしていいのです。いつの間にかわたしの緊張もほぐれ、武者震いさえしなくなっていました。
勇者様を見ます。目が合って、グッと親指を立てられました。
魔王が後二回ぐらい変身しても、倒せそうな気がしてきました。
●
「……グオオオオオオオオオオオォォォ……」
地の底から聞こえるような、重低音の断末魔。
ついに、魔王は倒れました。
レベルも十分にあり、間違いなく世界屈指のパーティであったわたし達にとっても、それは死闘と言える闘いでした。
始めは長身の男性ぐらいだった魔王は、最終的に三度の変身を経て、体積が十倍ぐらいになっていました。それが今、暗黒の煙となって霧散していきます。
その光景を前に死力を出し尽くして膝をついていたみんなは、痛みも忘れて立ち上がり勝鬨をあげました。
アレクスさんが吠えています。普段礼儀正しい彼が、最後の闘いの間は自分を奮い立たせる為にか、叫び続けていました。今も喜びで息継ぎをしては吠え続け、まるで魔物か獣のようです。新たな敵を呼ぶことがないように願います。
マーリンさんが両手を天に掲げて何か言っています。言葉の端々に神という言葉があります。僧侶であるわたしと違って、神に祈る姿を見ることはこれまで一度もなかったのですが、魔王を倒して最初に報告するのは神ですか。調子がいいですね、このおじいさまは。
あー様は……あー様は、ただ魔王の骸の前に立っていました。崩れゆく魔王だった塊を見下ろし、力なく手から延びた剣は今にもその指から零れ落ちそうです。勝利したことを喜んでいるようには見えませんでした。感慨にひたっているような、哀愁の漂うお姿。
「あー様」
その背中が淋しそうで、思わずわたしは近づき、声をかけました。
振り向いたあー様は、しかしいつもの凛々しいお顔に薄い笑顔のままです。そして、わたしを抱きしめてくださいました。
「あー様」
あー様。魔王は倒れました。
あー様。この世界は平和になるんです。
あー様。わたし達の世界のために、ありがとうございます。
休憩の後、僅かに回復した法力で皆さんの体力を回復すると、興奮するアレクスさんは、すぐに魔法で王様の元へ飛んで帰ろうと言い出しました。
わたしはそれをなだめて、伝達は魔法で済ませてあるから急ぐ必要はないと言いました。マーリンさんも、凱旋パーティの準備のため、数日空けて戻るのが良いと言ってくれました。
結局アレクスさんは、マーリンさんの説得を受けて、足で帰ることに納得してくれました。
マーリンさんがわたしにシワの多い目でウィンクをしてきます。マーリンさんはあー様の抱える事情について、何か知っているのかもしれません。
わたし達は、すっかり大人しくなり影を潜めた魔物達を知り目に、数日間の帰り旅を楽しむ事にしました。
魔王城近くの最後の街は、魔王が倒された事が魔物の様子やどんよりとしていた空気の変化からいち早く気づき、ある種パニック状態でした。おそらくは良い事だと思ってはいるが、突然の変化でどうしてよいかよくわからないといった感じでした。
わたし達が町長のところへ出向いて説明すると、街は夜までの間にお祭りの準備を整え、滞在中は見られなかった盛大な騒ぎとなりました。
これを行く先々でやっていたらいつ帰れるか分かったものではありません。わたし達は一ヶ月以上続くのではと思われた狂乱から、逃げるように翌日出立しました。
秘境の一つ。妖精たちの住むジャングル。
お借りしていた法力無しで体力を小回復できる秘宝を妖精女王に返却しました。こういう旅でなかったらお目にかかることもなかった妖精さん達が、クルクルと回ってわたし達の事を称えてくれます。
その姿がもう可愛くて可愛くて、つれて帰りたくなります。……ああ、一匹、ぐらいなら。
ビシィッ!
あー様のチョップは、きっといつだって正義のチョップなのでした。
広大な砂漠を、低空飛行する魔法の乗り物で素早く横断します。
霧の深い世界最大の湖を、封印の解かれた祠からひとっ飛びに転移します。
浮遊大陸と地上を結ぶ塔を、人間達との確執の歴史を解決した雷の精霊の力でもって、カラクリ仕掛けの箱により移動します。
帰りの旅は、わたし達が成した功績や奇跡を確認するものでもありました。苦労した長い道を一瞬で行き来できてしまう事に、どこか悔しい気持ちを持ってしまったりもしますが、出会う人々みんながみんな感謝を伝えてきて、もうたまりません。
あー様は照れ隠しなのか開き直っているのか、その度にわたしを横から、後ろから抱きすくめるのです。
あー様。わたしはせっかく平和になった世界から、恥ずかしさで消えてしまいたくなります。
わたしが捉えられた国。魔王であった宰相のいた国。
戦争でボロボロでした。宰相に糸を引かれて始まった争いは、正義も悪も信念も目的も曖昧で、ゆえに見るべき決着を見つける事ができないまま、不満の膨れ上がった国民による内部からの崩壊で幕を閉じました。
魔王を倒して手に入れた平和は、この国にはほとんど関係がありません。
わたし達の旅は、まだ本当の意味で終わってはいないのではないか。そう思いましたが、あー様は宰相の両親の墓跡に空チョップをしただけでした。
異世界から来た勇者様。
その目的は、わたし達には計り知れないものです。
そして旅の出発点。始まりの国へと戻って来ました。わたし達の到着が隣の街から港からと、人づてで詳細に伝わり続けていたのでしょう。街の入口から城まで、人垣によるうるさくて艶やかな凱旋の為の道が作られていました。
そこを歩くわたし達三人。
ええ、三人です。
わたしはあー様に抱きかかえられて進みました。アレクスさんは民衆に手を振り、マーリンさんはなるべく腰を曲げずに歩きます。わたしがすることは、両手で顔を隠す事でした。
ごめんなさい、あー様。嬉しさよりも、圧倒的に恥ずかしさが勝ります。でも、なぜだか自分で歩くとは言い出せません。嬉し恥ずかし乙女心。ああ、頭の中が混乱する。あー様との冒険では、よく混乱させていただきました。
そして凱旋パーティ。
それは三日三晩続きました。
それが終わった時、あー様は新たな冒険へと一人で旅立たれました。
別れの言葉もなく、出立するお姿を見たものもいないそうです。
王様は言いました。まこと、伝説の勇者であった、と。
アレクスさんは言いました。彼こそが真の勇者です、と。
マーリンさんは言いました。あの方はいつまでも勇者であるのじゃろうな、と。
でも、わたしは願うのです。
あー様が、勇者様という殻で自分を偽ることなく、ただのあー様として、今は幸せな日々を歩んでくださっていたら嬉しいな、と。
…………なんてね。
また、いつでも気軽に勇者あー様となって、散々意地悪されてもめげずにあー様を信頼し、いつだって出迎える準備を欠かさない日々を過ごしている、このマリアの元へ戻ってきてください。
ずっとお待ちしていますよ。
あー様。
【Good End】