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ああああ  作者: ああああ
1st QUEST
10/17

2-5

 新しい大陸にたどり着いて迎えた新天地。勇者様は綺麗な大自然の景色を前にしても、いまだ足取りはやや重いようです。

 崖下に落ちないよう忍び足のようにゆっくり歩いたり、浅い川でもそれを避け、なるべく足取りのしっかりした道を選んだり、大量の枝葉が網の目のように張り巡らされた木々の下を、枯葉を踏む音にまで警戒しながら歩いたりしています。

 勇者様の後をついて行くわたしは、慎重過ぎると苦言を呈するわけにもいかず、とても気を使います。

 勇者様は、かつての冒険を楽しむ様子がなくなりました。それは、残念に思います。

 でも、この旅は曲がりなりにも人間に仇なす魔王を倒す旅なのです。ですから、緊張感を持たれ、未開の地に足を踏み入れるさいに恐れにも似た態度を持って突き進むのは、正しいことなのです。

 おそらく勇者様もそれに気づいたのでしょう。やがては、緊張も晴れ、以前のようにとはいかないまでも、冒険を元気に楽しめるようになってくださるかもしれません。

 わたしも、いろいろあって勇者様を恐れたり逃げたりとありました。でも今は伝説に残る勇者様のこと、頼りにしております。


 港町を出てから昼夜を数えること六回。

 堅牢な塀に守られた城下町に、高い塔のそびえ立つ城を中央に構えた王国へと辿り着きました。

「数日腰を落ち着けられそうな、大きな国ですね、勇者様」

「…………」

 勇者様は街が見えるようになってから、それをジッと見つめて押し黙っています。いえ、黙っているのはいつものことなんですが。

「! あれは?」

 たくさんの兵士や馬車が街から出てくる姿が見えます。まだ遠くですが、物々しい雰囲気。あんなにぞろぞろと、戦争でもするのでしょうか。しかし、なにか悪さをしたわけではないのですが、このまま進んで相対するのは避けたいところです。なんででしょう。生まれてこのかたずっといい子で育ってきたのに。法の名の下に捕まるような出来事、これまで一度だって…………。

「どうしましょう。道を逸れましょうか、勇者様」

 視線を行軍する兵士たちに移しているように見える勇者様に、わたしは尋ねました。当然のように返事はありません。が、立ち止まってクルリとこちらに向き直る勇者様。涼しい微笑がわたしを捉えます。まるで見つめ合うように。

「あ、あの……」

 今更ながら、ちょっとだけかっこいいと思っている勇者様に正面から見つめられ、わたしは少し照れてしまいます。街道のど真ん中で向き合う二人。あれ? これってロマンス? そういえばそういえば、この旅って二人旅なんですよね。年若い男女の二人旅。勇者様との出会いとか、勇者様の人格とかがぶっ飛んでいましたんで、それと意識するようなこともこれまである訳がなかったのですが、これって結構ロマンシングなことだったりしますよね――


【しゅうごう】


 ――この間までならともかく、今の勇者様は無鉄砲な子どもみたいなところは鳴りを潜めて、寡黙で慎重な男の人となっています。わたしへの愛情のようなものもあるようですし、わたしもそんな勇者様を支えていくという意思表明をしたばっかりです。これは見ようによっては既に、もう既にその……こ、恋人の様相を呈しているのではないでしょうか。いけません。そこまでは思っていませんでした。しかし、情況証拠といいますか、お膳立ては出来ているわけで。それに、そう思っていなかったのはわたしだけで、勇者様はとっくにそういうおつもりである可能性も否定出来ないわけで。ああ。となると、これまでの野宿の夜とかは、実はとってもバイオレンスだったのでは。貞操が。乙女の貞操の危機が。でも、わたしも実はそれほど嫌というわけでもないような気もするようなそんなこんなもあったりなかったり――


【しゅうごう】


「……はっ!」

 街道の真ん中に突っ立っているのはわたし一人でした。指示が来る方向を見ると、茂みに潜んでいる勇者様がいました。しびれを切らしてか、身を乗り出して、今にもこちらにやって来そうです。

 ザッ、ザッ……。

 多くの、それでいていくらか規則正しいリズムを保った足音が聞こえました。街道の先を見ると、兵士の方々がだいぶ近くまで迫っていました。

「あっ……と」

 わたしは動転して、慌てて茂みへと駆け出してしまいます。

「! そこの奴!」

 若い男の人の声。列の先頭を歩く兵士の人の声です。

「止まれ! 何故逃げる!」

 わたしはビクッとして一瞬硬直しますが、結局また駆け出してしまいます。

「おいっ!」

 ダダダッ、と背中方向から幾人かの走りだす音を耳が捉えました。怖い。違うの。逃げたんじゃないんです。じゃあ何かって言われると、困るんですけど。

 わたしは兵士を撒くことが出来るわけもなく、一目散に勇者様のいる茂みへと駆け込みました。そこに勇者様の姿を見とめ、勢いそのままに飛びつきました。勇者様は両手を横に構えた立ちポーズのままでわたしを受け止めましたが、しばらくしていつものように抱きしめ返してくれました。

「おい、咎がないのならば、出てこれるはずだ」

 いくらかの距離を開けて、兵士が三名構えてこちらに声をかけてきます。

「……勇者様、ごめんなさい」

 わたしは勇者様の胸の中から見上げ、謝ります。わたしの謝罪はいつもあまり効力がありませんでしたが、いつだって真面目な気持ちなんです。

 勇者様はもう一度ぎゅっと抱きしめられて、そして軽くわたしにチョップ。そして茂みからゆっくり堂々と出て行きました。わたしもすぐ後ろに続きます。

「……何者だ」

 兵士の一人が尋ねてきます。街道ではたくさんの兵士と馬車が立ち止まったまま、こちらを待っているようでした。

「ぼくはゆうしゃだ まおうをたおす たびをしている」

 勇者様が言いました。凛々しいお顔。勇者様ならではの衣装、佇まい。まごうことなき伝説の勇者様、ここにありです。

「勇者……? 勇者が何故茂みに隠れて……いや、それはいい」

 その兵士は後の二人に指示をして、馬車の方へと駆け戻って行きました。残った二人の兵士が、こちらに向けた槍をそのままに、緊張した様子で身構えています。

「……勇者様って名乗ったのに、まだ槍を構えてみせるなんて」

 わたしは勇者様にだけ聞こえる声で、そう言いました。

「ぼくはゆうしゃだ しゅっぱつする」

 勇者様は、残った二人の兵士にそう朗らかに言いました。さすが勇者様。堂々としてらっしゃいます。そして爽やか。普段無口気味で、変わった行動の多い勇者様だけに、ギャップでわたしは痺れてしまいます。

「だ、ダメだ。ジッとしてろ」

 しかし、兵士は感銘を受ける様子でもなく、さらに緊張してこちらに槍を突き出してきました。下っ端はこれだから困ります。後で上官の方にこっぴどく怒られちゃえばいいんです。そう思い、勇者様の隣にいることもあってわたしも堂々と少し偉そうに構えていたのですが、ふと勇者様を見ると、言葉とは裏腹に少し落ち着きない感じがします。誰かに体を抑えられてでもいるかのように動きませんが、しかし、クルリクルリと回りたがっているように見えました。

「勇者様?」

 声をかけます。しかし返答はなく、涼しい顔に薄い笑顔をたたえたまま。

 やがて馬車から兵士の人が戻って来ました。さらに三人ほど兵士を連れて。

「……我が国の王が、勇者様と会いたがっております。一緒に来てください」

 そう言われました。王様との謁見。さすが勇者様。始まりの国でも王様から支度金を頂いていました。もしかしたら、行く先々で歓迎が受けられるのかもしれません。しかし、


【へいしに どうこうしますか?】


【 はい】

【→いいえ】


 勇者様は即、断られました。

「え?」

 わたしは勇者様を見ました。その瞬間、勇者様を捉えていた謎の拘束が解けたのか、クルリと回り、動き出した勇者様。こちらを向いて、


【しゅうごう】


 集まるように指示が。そして茂み方向、たくさんの兵士たちのいる街道とは逆に走り出します。

「逃がすな! 捕まえろ!」

 兵士の怒号。いくつもの地を蹴る音が。

「勇者様! 勇者様!」

 わたしは理由も分からずに勇者様の後を追って走り出しました。地を蹴る音、茂みを擦る音、道を開けて逃げる小動物に鳥の声。茂みは既に林となっていて、わたしと勇者様は木々の間を縫うように走り抜けます。

「勇者様……はぁ、はぁ……どうしたんですか?」

 慌てて混乱していたわたしは、いくらか走り、すぐ背後には兵士が見えなくなってから、そう尋ねました。

「…………」

 やはり、無言。しかし、


【さくせん:いのちをだいじに】


 作戦指示です。最近はずっとこれなので、言われ直さずとも分かっております。

 でも、急に逃げ出す勇者様も疑問ですが、兵士の方達もどこか不自然でした。物々しい雰囲気は、本当に戦争に行く途中だったのかもしれません。それで勇者様と王様の面会? 「逃がすな」とか「捕まえろ」とか、職務熱心と言えるかもしれませんが、伝説の勇者様に対して失礼過ぎます。まあ、わたしも殺伐とした中で、引っ立てられるように城へ招待されるのはごめんです。というか、引っ立てられるのが、もうごめんです。まさかこれで王様の招待から逃げた罪、とか被せられるようなこともないでしょうし、このまま次の街まで行くのも悪くないかもしれません。

「はあ……はあ……はあ……」

 どれくらい走ったでしょうか。わたしの息はあがってしまいました。勇者様はさすがにちょっと火照っているくらいで、余裕がある様子。

 すでに追手の足音は聞こえなくなって久しく、当面の安全は確保されたと見てよさそうです。辺りは木々に囲まれ、天井は枝葉で覆われており、木漏れ日と木陰がまだらな模様を地面に作っています。時折どこかから鳥の鳴く声がして、あとは風が吹いて草を葉を揺らし擦る音だけがします。静かな森。わたしの荒い呼吸音だけが異質でしたが、それもやがて収まりました。

「落ち着きますね。勇者様」

 わたしは先程までのことは置いておいて、綺麗な森の中にいる今の感想を口にしました。

「森の妖精とか、出てきそうな雰囲気です」

 噂に聞く妖精。こういった森に暮らしているらしいのです。人間よりも全然小さくて、羽が生えていて飛ぶそうです。そんなの絶対可愛いじゃないですか。見つけたら、一匹ぐらいならつれて帰っても許されるはずです。

 ビシィッ!

 勇者様にチョップされました。声に出していたのでしょうか。ポカンとして勇者様を見上げるわたしに、お腹を抱えて笑われる勇者様。勇者様の笑うお姿、久しぶりに見た気がします。

「勇者様。勇者様は、どこから来たのですか?」

 わたしは尋ねました。ビクッとして、固まる勇者様。なにかまずい事を言ったのでしょうか。

「あ、いえ。勇者様は妖精とか、見たことあるのかなって。ほら『伝説の勇者様』って『森の中の妖精』と同じような神秘具合じゃないですか」

 ビシィッ!

 チョップ。わたしは頭をおさえます。その後で、勇者様はどこか自慢げにグッと親指を立てられました。……それって、

「見たことあるのですか!?」

 再度、力強く親指を立てられます。わたしは少し興奮してきました。

「すごい、すごい! 噂通りに小っちゃくて、パタパタしていて、可愛いんですか!?」

 グッ、グッと親指を立てる勇者様。

「わあー。ど、どのくらいの大きさなんですか?」

 勇者様はしばらくピタリと止まり、思い出しているのか、考えている様子。やがて、空中にチョップをして、僅かに横にずれ、再度空中チョップ。

「? 勇者様?」

 またチョップ、そしてチョップ。

「……もしかして、そのチョップとチョップの間の大きさ……ってことですか?」

 親指を突き出す勇者様。涼しい爽やかなお顔が、我が意を得たりと満足気です。

「……………………あははははっ! わ、分かりにくいですよ、勇者様。でも、そんなに小さいんですね。二十センチないくらい? あー、すごく、可愛いんだろうなあ」

 グッと立てられる、何度目かの親指。

「この旅が続けば、いずれはわたしも見ることができますよね?」

 親指。

「えへへ、楽しみだなあ……妖精」

 わたしは新しいベクトルからのやる気を手に入れました。両手を胸に当て、天を仰ぎ見ます。神様、可愛い生き物をありがとう。神様、代わりに可愛くないモンスターをいっぱい倒しますね。

 サワサワと草木の音だけがして、鳥の声もしなくなりました。

「そろそろ昼食にでもしますか? 勇者様」

 ぎゅう。

 そう言って振り向くわたしを、いきなり横から勇者様が抱きしめました。グッとその腕に力が入るのが分かります。

「えっ、あの。た、たしかにちょっといい感じの雰囲気でしたが。その、困りま……勇者様っ!」

 抱きしめる勇者様の右腕に矢が刺さっていました。勇者様のかっこいい衣服に、ジワジワと血が染み出してきます。

「勇者さ――」

 わたしを抱え、飛ぶように近くの木へ向かって走り出す勇者様。途中、わたしを木の影に放り、自分はそのまま剣を抜いて木を数歩駆け登り、より上に向かってジャンプ。

 シュ――。

 枝の間から、矢が勇者様を目掛けて撃ち出されました。おそらくは剣でその軌道を逸らされた矢は、勇者様の脇を抜けて地面に勢いよく刺さります。勇者様は剣を縦に一閃。枝が数本支えを失い、勇者様とともに地面へと落ちてきました。

「っ……ぐあっ!?」

 落ちた枝葉の間から現れた弓兵が立ち上がろうとする間もなく、勇者様が攻撃、兵はそのまま二度と起き上がりませんでした。

「勇者様……」

 いつの間にか周りは兵士に囲まれていました。ざっと数えても十人以上います。今の攻防の内に距離を詰められたのでしょうか。戦わずに逃げる道は無いようでした。

「…………」

 わたしを背後に庇おうと立つ勇者様。向かって正面には、一人だけ鎧を付けず、お飾りのような剣だけを腰につけた男性がいました。兵士には見えません。しかし、どう見ても一般市民でもありません。その男性が一歩前に出て、笑顔でわたし達を見て、そして一礼しました。

「お初にお目にかかります、勇者様。私はかの国で宰相を任されている者です。この度はうちの兵が大変失礼をいたしました」

 男性が深く頭を下げます。

 勇者様は動きません。動きませんが、その手がピクピクとしています。それが剣に伝わり、剣が小刻みに揺れていました。

「ぼくはゆうしゃだ なんのようだ」

 勇者様が答えました。その右腕には矢が刺さったままです。それにまったく頓着せず、勇者様は真っすぐ立って喋っています。宰相の人や、周りの兵士もそれには意識を払いません。わたしはその空気を崩さないようにこっそりと呪文を唱え、回復魔法を勇者様にかけました。青い光が腕を包み、矢がゆっくりと抜けて落ち、傷口が塞がっていきます。兵士たちに止められることなく回復できて、わたしはほっとしました。

「王と会ってはいただけませんか。盛大なもてなしをご用意いたしますが?」


【おうに あいますか?】


【 はい】

【→いいえ】


 即答。勇者様はまったく譲る気がないようです。体がピクピクと動きたそうにしていて、今にも宰相に斬りかかりそうです。何の力がそれを押し留めているのか、わたしには分かりませんが、勇者様はそれにも逆らいたがっているように見えました。

「……ふむ。何故執拗に断られるのか。……いいでしょう」

 宰相は背を向けました。諦めたのでしょうか。正直、先ほど矢を放ったことを考えても、そんな簡単に引くようには思えないのですが――と。

 ザザッ。

 剣を持って取り囲んでいた兵士たちと入れ替わりに、弓を構えた兵たちが現れました。わたし達を、いえ、どうもわたしに狙いを定めています。

「…………」

「勇者よ、招待はお一人だけでもいいんですよ。私としてはぜひお二人に来ていただきたかったんですけどね……」

 ギリッと弓を引く音が四方からしました。全部を避けるのも、勇者様がわたしをかばうのも難しいような気がします。でも、最悪でも、死ぬことはないかもしれません。多少の痛みは我慢します。それを先日誓いました。勇者様が宰相の誘いを断るというのならば、それを貫いて欲しいです。

「……勇者様、わたしは大丈夫です。走って逃げれば、何本かは当たるでしょうけど、でも――」

「来ていただけますね。勇者様はどうも私どもの国、いえ、私に何か思うところがありそうですし」

「…………」


【おうに あいますか?】


【→はい】

【 いいえ】


「勇者様っ」

 弓兵と再度入れ替わった兵士たちが、そのままわたし達に詰め寄りました。勇者様は剣を奪われて……あっ、あの兵士、勇者様を殴った。崩折れる勇者様。引き離されそうにもなり、わたしは反射的に勇者様の元へと駆け寄ろうとします。しかし、腹部に衝撃を感じ、意識はそこで途切れるのでした。



(かたい)

 わたしは弾力の全くない、床に直接敷かれた布のベッドから身を起こしました。朝の目覚めです。

 ピチャンと天井から滴った冷たい水滴が手を叩きました。

 床も壁も一面灰色の石造りで寒そうな見た目。実際冷えるため、ブルリと震えてしまいました。

 小窓から差し込む光がわたしのシルエットを床に投影します。小窓には縦線があって、その影はまるで牢屋に閉じ込められているようなものでした。

「…………」

 わたしは牢屋に閉じ込められていました。盛大なもてなしとか言っていたのに、この仕打ち。まあ嘘だとは思っていましたが、これはあんまりです。

 くつろげない部屋。牢屋ですからね。個室なのは安心します。

 食事は朝晩二回。それはいいと思います。多過ぎないあたりがよいと思います。

 退屈な時間。閉じ込めるだけ閉じ込めて何もなしとか。勇者様をただただ案じるばかりです。

 お水がない。食事時に貰える水でなんとかします。節約生活。

 トイレ。簡易トイレ。

 これがキツイんです。そう、何が簡易かって、部屋の中に取って付けただけなんですよコレ。丸見えなんです。時折兵士が見回りをしているんですが、その時にいたしていたらどうしてくれるんですか、どうなってしまうんですか、どうしたらいいのですか。

 見回りをされる時間は決まっているみたいなので、時計はありませんが体内時計と日の差す感じでどうにかスケジュールを立てて、大切な排泄ライフの維持に努めます。そして、今。見回りの人が行って足音が聞こえなくなり、さらに天井の水滴が五滴落ちる間隔を開けた、今。

「…………はふぅ」

 わたしは便座に跨り、無防備な姿を晒しました。

「あぁぁ……」

 わたしは便座の上で考えます。物事を考えるのはおトイレが何故か具合良いんです。狭い個室がそうさせるのかと思っていましたが、このような環境にあってもそうであるということは、何か別の要因があるのかもしれません。

「勇者様……」

 勇者様はどうしているのでしょうか。兵士達、あの宰相は一体何者なのでしょうか。王様が会いたがっているというのはまるきり嘘だったとして、わたし達を何故捕らえるのか。仮にも伝説の勇者様に対して、人間の側から攻撃されて捕まってしまうだなんて。魔王討伐の旅ではきっといろんな事があるんだろうなって思っていましたが、これは予想外でした。

 一体何の目的で宰相はわたし達を捕らえたのか。今、勇者様はどうなされているのか。気になることは色々ありますが、このままここにいて時間が解決してくれるということはなさそうです。

「ん……」

 至福の時間を終え、わたしは床に置かれた紙を前かがみになって取ります。硬い紙です。こんなもので、うっかりそのままおしりを擦った日には、例の恥ずかしい疾患を得てしまいます。恥ずかしいばかりか、あれは天にも昇る排便の大きな弊害となるのです。排泄から悦楽を取ったら、後には何が残るというのでしょう。ブツだけが残ります。乙女の危機。けして……けして「ぢ」になるわけにはいきません。

 わたしは紙を手の中でおにぎりを作るように転がしました。あらゆる角度から、握り、押し、折り、潰し、曲げ、揉み、捻り、圧し、絞り、挟み、強い、クシャクシャのヘロヘロにします。

「…………ふぅ……どうだ、まいったか」

 わたしは勝者特有の愉悦を顔に浮かべながら、すっかり柔らかくなった強さレベル1の紙を丁寧に三つ折にして、前から股の間へ差し入れました。フキフキ。紙が窄まりを擦る感触に、満足で糸目になるわたしの目とその視界。

 その薄い視界の中に、あるはずのない動きが見えました。

「えっ」

 鉄格子の向こうには勇者様。勇者様はこちらに頓着せず、呪文を唱えていました。やがて、一瞬視界が白一色になり、爆音が。ガシャンッと金属音がして、扉が勢いよく牢屋内の壁にぶつかります。勇者様が、爆発の呪文で鍵を壊したのです。

 涼しい微笑をたたえたままの勇者様がスタスタと歩き、真っ直ぐわたしの前に到達。そして、驚いて股の間に手を差し入れたまま止まっていたわたしを確認し、


【しゅうごう】


 集まるよう指示をしてきました。

「えっ……あの、でも、ちょっと」

 既に扉の外にダッシュしている勇者様。遠くから小さくですが、兵士の声が聞こえてきました。


【しゅうごう】


「あうぅ、分かりますが……もうちょっとだけ、もうちょっとだけ」


【しゅうごう】

【さくせん:ガンガンいこうぜ】


「そんな!」


【さくせん:ガンガンいこうぜ】

【さくせん:ガンガンいこうぜ】


「…………」

 わたしは残像が見えるほど勢いよく手を動かして、お股を擦り上げました。それでもまだ少し不安だったので、床の硬い紙を引っ掴んで股に差し込み、ザリっと擦りました。

「ううう、熱いです、痛いです」

 天国から地獄へ突き落とされた気持ちで、わたしは勇者様の後を追いかけました。



「見つけたか!」

「いない。どこに行ったんだ」

「まったく、何だってんだ。宰相様もどうして勇者を捕まえてきたんだ。やりたくもねぇ戦争だってきっとアイツが――」

「おいやめろ。誰かに聞かれていると事だぞ!」

「……ちっ」

 兵士達が苛立ちながら廊下の向こうを駆けて行きました。見届けてから、わたしと勇者様は暗がりから身を出します。

「兵士ばかりですね、勇者様」

 わたしは小さな声で言いました。牢屋のある階から二階層ほど下りてきましたが、石造り丸出しだった壁が壁紙の貼られた様相になった今も、そこかしこに兵士がいます。城内は貴族やメイドが品よく歩いているものだと思っていましたが、こういう国もあるのですね。まるでダンジョンにいるような心地です。

「どうしましょう、勇者様」

 見つからずに外まで出るのは難しそうでした。わたし達が逃げ出したことはすでに知られているらしく、警戒は厳重です。目の前の兵士がいなくなっても、広く長い廊下のそのどこかには兵士がおり、出るタイミングがありません。窓も多くなり、いっそのこと窓を割って飛び出して行きたいと思いましたが、見える景色からまだ四、五階の高さであることが分かります。

「…………」

 勇者様は無言でクルリクルリと回転し、辺りを見回していました。最近とみに慎重になられた勇者様のこと。余計な物音をたてない様、地形をよく確認しているのだと思われます。そして、

 ダダダッ。

「……へ?」

 勇者様が走り出しました。


【しゅうごう】


 そしてわたしを呼びます。

「いたぞーっ!」

 あっさり見つかりました。先程まで見えていなかった兵士達があちらこちらから顔を出してきます。

 ゆゆゆ、勇者様。一体急にどうしたのですか。わたしは勇者様と並走してそのお顔を覗います。勇者様は全然動じていませんでした。もしかしたら死ぬまで自信満々で涼しいお顔をしているのかもしれません。

 途中途中で合流してくる兵士達が今や総勢十名以上を数え、大勢で城の中を駆け抜けます。勇者様と違い、わたしは体力の限界が近いのです。先行していた距離はぐんぐん詰められ、わたしは、もう――

「…………」

 勇者様。勇者様だけでも逃げてください……そして、この世界を。

「はぁはぁ……勇者様っ……世界を……お救い、ください!」

 そう言ってわたしは足を止め、最後に笑顔を見せました。

 そんなわたしをガシッと捕まえる勇者様。

「!」

 それはいつもの抱きしめる仕草。というか、抱きかかえられました。その状態で、勇者様は廊下横の手すりをひらりと飛び越えました。下からくる強い空気の抵抗、上向きの風。お腹の底がキューっとして、すぐに大きな衝撃が。わたしは勇者様の腕の中で軽く跳ねました。勇者様はそのまますぐに前方に見える大きな扉に向かって駆け出します。

 そこに、黒い影が被さりました。

「きゃんっ!」

 次の瞬間、わたしは横に思いっきり放り投げられました。そして、鈍い音が聞こえます。見ると、勇者様が宙を飛んでいました。そのまま扉を挟んでわたしの反対側の壁に衝突。床に落ちます。

 扉の前に大きい黒い鎧の戦士が見えました。しかし、仁王立ちのその戦士は大木のような剣を構えたまま。扉とは反対側、城内側からニュッと突き出ているもう一本の大きな剣。それが動き、続いて現れた腕、体。大きな黒い鎧の戦士がもう一人現れます。勇者様を攻撃したのはこの大男のようでした。

「勇者様っ!」

 わたしは反射的に叫びました。勇者様が崩れた壁の瓦礫の中でピクリと動いたのが見えます。しかし、わたしはまだ胸を撫で下ろすことはできませんでした。大きなフロアの中央から四対、扉前に黒い戦士、その向かいにも同じく黒い戦士、扉に向かって左にわたし、右に勇者様。四ツ巴の構図。

「勇者さ――きゃあああっ!」

 わたしは間一髪で丸太のような剣の一閃を避けました。避けたというより、倒れこむ形をとったので、反撃どころかそのまま逃げることさえ叶いません。わたしが畏怖の眼差しで見上げると、扉側に立っていた黒の戦士が振りぬいた大剣を構え直すところでした。不器用に大振りしたためか、隙を見せたわたしをすぐに攻撃することはできなかったようです。それでも、わたしは胸を撫で下ろせません。大剣がゆらりと揺れ、わたしは死の恐怖を覚えて慄きます。

「…………!」

 勇者様が視界の隅で駆け出すのが見えました。大きなダメージを追っているのでしょう、その走りはどこか重く見えます。それでも、わたしには頼もしく見えました。

「勇――」

 その姿が黒く塗りつぶされました。城内側にいた戦士が間に立ちはだかったのです。

「……あ」

 勇者様のその姿が見えなくなり、続いてわたしの体に影がかかりました。わたしは、何を確かめるでもなく、すぐさま体を右に転がしました。

 ドッゴオオオッ……。

「ひっ……痛っ……」

 背中側で大きな破砕音。同時に地震でも起こったように大地が揺れ、わたしはバウンド。続いて左肩と左足首に殴られたような痛み。そのまま身悶えていたいのを堪え、上半身を起こして背後を振り返ります。わたしが居た場所の床は砕かれ、大剣がその先を半分ほどめり込ませていました。そこを中心に砕かれた床石が四散して、わたしの近辺にも大小様々の破片が落ちていました。

「痛い……」

 左半身のあちこちから絶え間ない痛みがありました。癖で回復魔法を詠唱し始め、すぐに口をつぐみました。くつろげない監禁生活で法力はほとんど体に宿っていません。一回魔法が使えるかどうかだと感じました。今、自分に使うべきか迷います。そして、わたしは痛む足から意識を外して、起き上がりました。

(勇者様の所に行かないと)

 わたしは左足を引きずるようにして歩きました。扉近くには例の黒い戦士がいるため、城内側に回りこむようにして勇者様の元へ行く事にします。破砕音が聞こえました。勇者様と相対している戦士が床か壁を壊した音です。わたしはそれに驚いて震える気力も残っていませんでした。わたしの意識はわたしを狙う方の黒い戦士に向いています。

 その戦士が大剣を横に振りかぶりました。わたしは唇を噛み、右足に力を入れます。そして前方へ向かって倒れこむように飛び込みました。

 床に張り付いて目を瞑るわたしの上で、轟音と豪風が通り過ぎました。両の指で絨毯を強く掴んでいましたが、体が風で浮いて吹き飛ばされそうでした。

 すぐに移動のために体を起こそうとします。ただ起き上がるだけでこんなに体力がいるだなんて、元気な時には気付きませんでした。何度も倒れるというわけにはいかなそうです。

 勇者様は戦士の攻撃を避けつつ回りこむように移動し、向かい合う戦士と位置を入れ替えていました。勇者様の背中が見えます。戦士の横薙ぎを勇者様はジャンプしてかわし、すぐに振り向きました。わたしと目が合います。そしてこちらにダッシュ。いつも集まるように支持を出す勇者様が、自分から来てくれることに、わたしは少しだけ嬉しくなります。

 わたし達は合流しました。黒い戦士が二人、大扉の前を塞ぐように立っています。攻撃はもうする様子はなく、やがて仁王立ちとなりました。

 上階から他の兵士達の声が聞こえてきました。わたしは勇者様を見上げました。勇者様はいつもの薄い笑顔をしていましたが、棒立ちで戦士の方を見て、クルリと振り返り階段を見て、ピクリと動こうとしてそれをやめて。表情とは裏腹にどうしたらいいか迷っているようでした。

 兵士達の声が、階段を駆け下りる音とともに聞こえるようになりました。勇者様はわたしを抱き上げ、城の中側へと駈け出しました。



「……お怪我はありませんか、勇者様」

 わたしを抱き上げながら全速力で走っている勇者様に聞きました。


【ステータス:あつのり HP 133/270】

【     :マリア  HP  19/ 91】


 勇者様が体力を提示してきます。わたしのことまで指摘されます。

 指摘した後、勇者様の足が急にピタリと止まりました。わたしは勢い投げ出されそうになります。

「…………」

「わっとと。……勇者様、意外と消耗されてますよね。牢屋に来た時からすでにダメージがあったんですか?」

 勇者様はわたしを廊下に下ろしました。

 わたし達はまたも城の内側へと戻ってしまいましたが、だいぶ走ったためか、追手の声は今は聞こえません。


【どうぐぶくろは ありません】


 勇者様は荷物を取り上げられていることを忘れているのか、道具袋をあさろうとした手が空をきっていました。

「ふふふ、薬草を取ろうとしたんですよね。今、わたしが回復しますから」

 わたしは回復魔法を詠唱し始めました。


【さくせん:じゅもんをつかうな】


 それはすぐに、止められます。


【ステータス:マリア MP 6/77】


 そして、わたしの残りの法力を具体的に試算して提示してきました。

「あと一回くらいかな、とは思っていたんですけど、ほんとにそうなんですね。でも勇者様。出し惜しみしても、死んでしまった後では意味がないですから」

 わたしはそう言って、また詠唱しようと試みましたが、どうしても勇者様の作戦行動に反することができません。

 勇者様はいつもの薄い笑みでわたしを見ています。

「勇者様を回復させてください」

「…………」

「わたしの体力を気にしているんですよね。……でも、勇者様を回復しないといけません」

「…………」

 しばしの間、無言で見つめ合うわたしと勇者様。

 ふぅ、とわたしは息をつきました。表情の少ない勇者様とのにらめっこに、わたしは勝てる気がしません。できるだけ穏やかな顔を作って、わたしは言いました。

「ただ勇者様を回復したいと思っているわけではないんです。この先も危険があります。その時にわたし、勇者様に守ってもらいたいかなって思ってまして」

 ちょっと照れて見せます。

「レベルも攻撃力も勇者様が圧倒的ですし。防御に関しても、わたしが一人あたふたするよりかは思い切って勇者様の影で守ってもらったほうが、効率的かなって。ご迷惑おかけしますけど、わたしを守ってください、勇者様」

「…………」

「だから勇者様。勇者様を回復しても、いいですか?」


【さくせん:いのちをだいじに】


「はい」

 わたしは回復魔法を唱え、勇者様にかけました。



 兵士の声がしては通路を折れ、戻り、時には隠れてやり過ごし、わたし達は進みました。どこへ向かっているのか、ただ行ける方へと進んでいるだけでした。兵士の姿を見ることがなくなり、わたし達は大きな廊下をできるだけ静かに歩いていました。迷っているつもりでしたが、右か左かを選ぶような局面は実はなく、まるで誰かに引き寄せられているような違和感が大きくなる中、奥にその扉は現れました。

 他の扉の四倍は大きく、色も赤くて、ゴツゴツとした意匠も施されている大扉。

 あからさまに、この先何かがあると告げています。

 入るべきか。あえて入る必要はないと思いますが、回りを見れば他は戻る道しかありません。わたしは勇者様にまかせることにします。

 勇者様は動きません。迷っているようです。しかし、わりとすぐに結論を出されたのか、クルリと振り返りました。扉は開かず、戻ることにしたみたいです。しかし――

 突然、ワアアァッ、と来た道の方から兵士達と覚しき複数の声がしました。駆ける足音もします。さらには背後で大扉が重い音を立ててゆっくりと開いていきました。

「勇者様っ」

 わたしは意味もなく勇者様を呼んでいました。これはきっと罠です。袋の鼠でした。

 勇者様は今度こそ扉の中へと入りました。わたしも続いて入ると、すぐに扉はひとりでに閉まりました。開いた時より重い音をたてて、それは固く閉ざされました。もう開くことがないのではないかと、壁のように見える大扉を見上げながらわたしは思いました。

 中は静かでした。先程聞こえた兵士の声もやみました。追い込むための一時の叫び声だったのか、この部屋が外の音を遮断しているのかはわかりません。

 広い空間の床は磨かれた石でできており、さらには入り口からまっすぐ奥へと敷かれた赤い絨毯があります。謁見の間。兵士の一人も見当たりませんでした。潜んでいる可能性はありますが、それは分かりようもありません。

 わたしは勇者様と絨毯の上を歩きます。慎重に。勇者様はどこか堂々としています。勇者様の歩き方や走り方は一貫していて、焦ったり落ち着いたりというのがその所作からはあまり判断できません。堂々としているといいましたが、そういったいつもの歩き方をしているからでした。よくよく見れば、わたしには緊張しているように取れました。どうしてそう感じたのかはわかりません。

 やがて絨毯の行き着く先、玉座が暗がりから現れ始めてきました。そしてそこに座る一人の人間の姿も見えてきます。

 それは、森で見た宰相でした。

「苦しゅうない。近う寄れ」

 両足を組み、肘掛けに肘を立てて手で頭を支えるポーズで座っていた宰相は、もったいぶった言い方でそう言いました。そして含み笑いをし、こちらの反応も待たずに立ち上がって、高い位置にある玉座の場からこちらへと降りてきました。

「いや、失礼。私が玉座に座っていたのは内緒にしていてくれないか。怒られてしまうから」

 宰相は悪びれもなくそう言って、苦笑します。

 わたしは何か不気味なものを感じます。それは勘でした。この人はただの悪者ではない気がします。思えば勇者様も、この国に来てから行動が慎重になったというか、基本逃げる姿勢を取るようになっていました。生き返らせられない死を知って慎重になったからとも取れましたが、それ以上の何かがあるのではないか。

「勇者よ」

 降りてきた宰相は、距離はありますが同じ目線の高さでこちらに話しかけてきました。

「最初にもてなしを断って逃げたのはどうしてか、教えてくれるかね?」


【どうして にげましたか?】


【 さきを いそいでた】

【 えんりょした】

【→きけんを かんじた】


「ほう。それは何故かね?」


【どうして きけんだと おもいましたか?】


【 さそいかたが いや】

【 ぶっそうな ふんいき】

【→しんそうを しっている】


「……それはなんのことかな?」


【しんそうとは なんですか?】


【 もてなしなどない】

【 おうなど いない】

【 おうは しんでいる】

【 おうは ふたりいる】

【 さいしょうは せんにん】

【→さいしょうは まおう】

【 もどる】


 勇者様は宰相が魔王だと言いました。

「魔王……?」

 わたしはポカンとした顔で勇者様の指摘を口にし、反芻します。

「そうだ。私が魔王だ」

 宰相もそう言いました。え? ホントに魔王?

「勇者。何故それを知っているのか……それは問わないでおこう」

 え!? 気になる!

「しかしさすが魔王を倒すという伝説の勇者だな。探りを入れようと捕まえたのはやり過ぎてしまったかと心配もしたが、どうやら正解だったようだ」

 わたしは事態が飲み込めないままでしたが、話はどんどん先へと進んでいます。

「さてどうだ勇者よ。私と一騎討ちといかないか?」

 勇者様はわたし以外にパーティを組んでいる仲間がいません。私も現在何の戦力にもなっていません。宰相……魔王はそれを知っててそう言っているのでしょうか。


【ひとりで たたかいますか?】


【→はい】

【 いいえ】


「…………」

 勇者様は涼しい平気な顔をしていましたが、少し考えているようでした。しかし、受けることにしたようです。

「ぼくはゆうしゃだ」

 そう言って勇者様は一歩前に踏み出しました。ズンズンと前に進んでいきます。

 わたしはこの場に残り、勇者様を見守ります。

 勇者様が離れていくことに、わたしは唐突に不安を感じました。

 ――わたしを守ってください、勇者様――

 何故か先ほど私が勇者様に言った言葉が思い出されます。離れて、ほんの僅かに小さく見えるようになってしまった勇者様の背中が、遠くへ、もう手の届かないところへ行ってしまったように思われます。

 勇者様、やはりわたしも――

 わたしは心細さから、一歩を踏み出そうとしました。

「……さて、勇者。勝負の前に後ろを見てくれないか」

 宰相が言いました。勇者様は律儀にクルリと振り返りました。

 勇者様の後ろ。そこには特に何があるわけでもなく、振り向いた勇者様とわたしは目が合います。踏み出そうとしていたわたしはビクッと体を震わせて静止し、その反動というわけではないと思いますが、軽く手を上げて、声を出さずにこちらを見る勇者様に笑みを返しました。

 当然こんな状況の中で勇者様がそれに答え、笑顔を返してくるはずはありません。勇者様はそれを見て、こちらの方へ弾かれたように駆け戻ってきました。

 同時にわたしは背後で床の鳴る小さな音を聞きました。

「ゆ――」

 勇者様、と言おうとしたわたしは、続く言葉を発することができませんでした。言葉どころか、意識も体も気を失ったかのように一瞬手放していました。

 何が起こったのか把握しようと考えますが、考える力が低下しているのを感じます。こう、脳への伝達速度が急に遅くなったような感じ。さっきまで自然と考えて、見て、体を動かしてきたのが嘘のようでした。

 まずはちゃんと見ようと思って少しぼやけた視界に意識を注力します。あれは柱で天井で、前に見える人影が勇者様でと、順番に確認してそれを認識していきます。

 今どうなっているのか、まだ全然わかりませんでした。異常が起こる前より視界が悪い気がします。辺りが暗くなったのか、わたしの目が悪くなったのか、後者かもしれません。

 体の動かし方がわかりませんでした。思い出そうとしましたが、思い出せません。こうやって動かすとかいうやり方なんて、無かったような気がします。結論として、わたしは体を動かせませんでした。

 大事なことを思い出しました。喋ればいいのです。まずは勇者様に声をかけるべきでした。勇者様に状況を聞けばいいのです。それに気付けたことに、わたしって冴えてるなあと自画自賛しました。それで、えへへ、と自分が少し笑ったのが分かりました。無意識的に行ったので、どうやって笑ったのかは分からないままです。喋り方というのも無かったように思いますが、まずは感覚で言い慣れた「勇者様」というフレーズを言おうと試みます。

「……ぁ……」

 喋り方は忘れていなかったようです。ですが、口がやけに重いというか動きません。とてもまともに喋れそうにありませんでした。勇者様とは言えませんでした。

 ――そこで、また気を失ったかのようにわたしは意識を手放し、時間が飛びます。

 何かが目に見えている気がします。状況確認のやり直しでした。こんなことでは状況を判断できたからといって、何が出来るわけでも無さそうです。勇者様には悪いですが、大人しく考えるのをやめてじっと待っていたほうがいいのかもしれません。

 ですが、わたしは気を抜いたらそこで終わりだという感覚に襲われました。そしてようやく気付きました。わたしは死にかけているのだと。

 考える力の低下をさらに感じます。目が見えているのかいないのかもよく分かりません。前には懐かしい勇者様の顔がありました。何故懐かしいのか分かりません。視界の殆どを占めているので、それ以外を認識する必要がないのは助かりました。ただそれは見ているのではなく、記憶にすぎない様な気もしました。確かめるすべはありませんが、どちらでも構いませんでした。わたしは最後に勇者様に言わなければいけないことがありました。

 幸いなことにわたしは今、死ぬことが悔しくも悲しくもありません。

 しかし、死ぬ時に悔しくないというのは、ある意味で悲しいことです。わたしにも、やりたいことなどがあったと思うのですが。そう、例えば、妖精さんには会ってみたかったです。後は……分かりません。心残りがあるとすれば、勇者様に最後までお伴できなかったこととしておきます。

「……ぅ……」

 ちゃんと喋れたのかどうかも分かりませんでした。


 勇者様、世界を、お救いください。


 ……………………。

 …………。

 ……。


【Lost En


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