第8話 メイドの朝は早い
そのおめめは、エルナと目が合うとにやりと笑って嬉しそうに彼女の頬を叩く。
「い、痛いっ! 痛いっ!」
「うきゃはははっ!」
「もう、レオくん! ぺちぺちしたら痛いでしょ!」
口を尖らせて注意するエルナに、レオはきょとんしてじっと彼女を見つめている。
(まだ伝わらないか~)
エルナがため息をついた時、街の鐘が鳴った。
この町では朝八時と昼十二時、そして夕方五時に王都の衛兵が鐘を鳴らす。
「えっ!? もう八時!?」
エルナの耳に届いたのは、朝の八時を知らせる鐘の音だった。
メイドの仕事は朝早くから始まる。
朝食を終えた後メイド達は、別邸のグループと本邸のグループの二つに分かれて掃除をおこなう。
メイドや使用人達の宿舎は別邸にあり、本邸には主人や側近が生活をしている。
そのため、新人メイドは基本的に別邸の掃除から始めていく。
別邸や庭の掃除を一通り終えてメイド長に認められれば、本邸の掃除を担当することができるのだ。
もちろん、昨日入ったばかりのエルナは別邸の掃除担当となる。
「急がないと!」
クローゼットからメイド服の替えをとって、袖を通していく。
エプロンの紐を結びながら、急ぎ足で姿見の前に行って、髪を櫛で梳かす。
「うう~こんな日に限って寝癖!」
何度も何度も櫛で梳かしたり、手で押さえたりしてもぴょこんと跳ねてしまう。
慌てて洗面所に向かおうとドアノブに手をかけたところで、扉のすぐ横に洗面所があることに気づく。
「うえ!? 洗面所が部屋にある!?」
庶民の家では部屋ごとに洗面所やお手洗いはついていない。もちろんメイドの宿舎も部屋ごとについている訳ではなく、全員で使う共同のものがあるのみ。
しかし、この部屋は違った。
高貴な貴族の屋敷では、居住する部屋には洗面所など生活に必要なものが一式揃っている場合が多い。唯一、風呂のみ共同であったり、主人とそれ以外の二つがあったりする場合とに分かれている。
この屋敷には風呂が主人とその配偶者のものと、それ以外の者が使う二つ風呂があった。
「さすが公爵様のお家……」
エルナは感嘆の声を漏らした後、ありがたく部屋の洗面所を使わせてもらうことにした。
水をすくって顔に浴びせると、冷たさで顔が引き締まっていく。
「あっ! エプロンに水飛んじゃった!」
近くにあった布で水を拭き取るも、くっきりと水の跡がついている。
いつもであれば洗面から始めて服を着るのだが、寝坊したことに焦って順序を間違えてしまった。
じっとそのシミを見つめたエルナは、こう呟いた。
「……まあ、いっか」
どうせ掃除するのだから、このエプロンや服も濡れるだろう。
エルナはそう考えたのだった。
「あう~!」
「あっ! ごめんね! 今抱っこするから~!」
エルナに構ってもらえなかったレオは、抗議の声を上げていた。
なんとか寝癖を直したエルナは、レオを抱き上げて背中に抱っこする。
「あう~うきゃっ!」
よく眠ったからか、レオの機嫌はとても良く、手足を動かしてはパクリと自分の手を食べている。
(よし、レオくんの機嫌もいいし、大丈夫ね!)
エルナは支度を済ませると、レオを連れて部屋を後にした。
「おはようございますっ!!」
宿舎に着いたエルナは、開口一番大きな声で挨拶をした。
すると、掃除をしていたメイド達が手を止めて一斉にエルナを睨みつける。
「なんで、あの子が……」
「クラウス様に色目使ったらしいわよ」
「え~!? でも、だってそうじゃなきゃメイドの分際で、本邸で住むとかできないもの。しかも、あの背負ってる子ども、捨て子らしいわよ」
「うわっ! そんなどこの馬の骨かも分からない子どもを育てるだなんて。自分も子どもみたいなものなのにね~!」
(わざと聞こえるように言ってる……)
メイド達の悪態が加速していたその時、誰かが手を叩く音がした。
エルナが音のしたほうへ目を向けると、メイド長が丁度奥の部屋から出てくるところだった。
「お黙りなさい。この者の処遇に文句をつけるのならば、主人へ刃を向けるも同然。貴方がたはクラウス様の決定に不満がおありということですか?」
「い、いえ……メイド長! そんなつもりは……」
「では、仕事に早く戻りなさい」
「か、かしこまりました!」
彼女の忠告によって、エルナに悪態をついていたメイド達は蜘蛛の子を散らすように持ち場に戻っていった。
(す、すごい……)
改めてメイド長はエルナに向き直ると、厳しい表情のまま告げる。
「まずはここでの仕事で慣れてもらいます」
「は、はい!」
エルナがお辞儀をすると、おぶっているレオが手足をばたつかせて喜ぶ。
「あ、こら、じっとして!」
「きゃはは! えへへ~」
エルナに諭されるも、レオはどこ吹く風といった様子で楽しそうにはしゃいでいる。
部屋から出られたことや様々な場所に出られたことが楽しいと言った様子だ。
「貴方とその子の事情は、クラウス様より聞いています。しかし、メイドとして働くと決めた以上、貴方を仕事の上で特別扱いはしませんので、そのつもりでいるように」
エルナはその言葉を聞いて、深くゆっくりと頷いた。
「まずは庭の掃除を行なってもらいます」
「井戸のある裏庭でしょうか?」
「いいえ、そこではなく庭園です。この屋敷には玄関に面した庭、屋敷最奥にある裏庭、そして庭園があります」
メイド長は箒をエルナに渡して言う。
「庭師がさっき剪定をおこなってくれました。その後始末をお願いできますか?」
「は、はい! かしこまりました!」
エルナの返事を聞くと、メイド長はわずかに微笑んで屋敷の外廊下を指さす。
「そこの廊下が庭園に続いています。お願いしますね」
そう言ってエルナに落ち葉や小枝を入れるための大きな袋を手渡した。
「ありがとうございます!」
袋を受け取ったエルナは、駆け足で廊下の方へと向かったが、後ろから注意される。
「子どもを背負っているのです。歩いて行きなさい!」
「は、はいっ!」
エルナはメイド長の言葉を聞いて、慌てて歩く速度を緩めた。
(そうだった、レオくんがいるんだから、慎重に動かないと)
精霊の子どもは人間の子どもより、少しばかり軽い。
そのため、ついついエルナは背負ったり、抱っこしているレオの存在を忘れてしまうことがあるのだ。
もう一度存在を確認することも含め、エルナは背中にいるレオをポンポンと叩く。
「うう~」
何か気に入らないことがあったのか、レオは少しご機嫌ななめ。
「レオくん? どうしたの?」
「ぶう……うう~!」
(このままじゃ機嫌悪くなっちゃう! それは駄目!)
昨日の雷雨がエルナの脳裏に蘇る。
しかし、レオの機嫌が悪い理由は意外とすぐに見つかった。
「あれ……」
レオをよく見ると、抱っこひもが足の指に絡まっているではないか。
「もしかして、これ……?」
エルナはそっとレオの指に絡まっている紐をとってあげると、レオは先程の様子とは一転してにっこりと笑った。
「きゃはは!」
「よかった……」
レオの不機嫌の理由が分かり、解決したことで、エルナは安堵した。
「さ、レオくん、お庭に行こうか!」
「あうっ!」
おそらく何を言われているのかは理解していないだろう。
しかし、何か嬉しいことが待っている、その様子は伝わっているようで、レオは大きな声で嬉しそうに返事をした。




