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第22話 子育ての苦労と限界

 レオがハイハイを覚えてから数週間が経過した頃、いつものようにエルナはレオに食事を与えていた。


「レオく~ん! ご飯!」

「あう~!」


 最近、レオは「ご飯」という単語を理解したようで、エルナが呼ぶとハイハイして嬉しそうにやって来る。

 今日も一生懸命ハイハイをして、ご飯を持ったエルナに向かってきた。

 そんな可愛らしくも「ご飯」に夢中な彼を抱き上げて、高い高いする。


「今日も歩いたね~! よく頑張りました!」

「うう~!」


 レオは手足をバタバタしながら、椅子に座らされる。

 エルナもレオの隣の椅子に座ってテーブルにあるヨーグルトをとると、それを彼に食べさせた。


「あうあう!」


(今日も喜んでる!)


 人間の子どもはヨーグルトの酸味が苦手という子が多い中、レオはこのヨーグルトが大好物であった。

 子どもにはちみつはまだ与えてはならないため、いつも日替わりでほんの少し果物のジャムを混ぜている。


(やっぱりいちごが好きなのかな?)


 マーマレードやブルーベリージャムなど様々試した中でも、いちごジャムが一番レオの食いつきがいいように思えた。


「あう~!」

「え、また!?」


 レオはエルナの持っているスプーンに手を伸ばしている。


(でもなあ……)


「あうあう! あう!」


 エルナが不安に思う中、レオは何度もくれくれとアピールしている。

 仕方がないといった様子で彼女は渋々レオにスプーンを渡すと、ヨーグルトをぎこちなくすくって口に運ぶ。


(あ、今日は上手……)


 いつもはヨーグルトの入ったスプーンを頬にぶつけて、エルナがレオの顔を何度も拭くというやり取りをしていた。

 しかし、今日は違った。

 まだぎこちなさは残るものの、なんとか口に半分ほど運んでもぐもぐと食べている。


「すごい! また成長したの!?」

「あう!」


 エルナは手を叩いてレオの成長を喜んだ。

 次の瞬間、彼女は自身の行動を後悔することになる……。


「えへへへっ!」


 レオはヨーグルトの入ったスプーンを持ったまま、エルナの真似をして手を叩き始めたのだ。

 すると、どうなるだろうか。

 答えは明白だ──。


「うわっ!」


 レオのもとから勢いよく放たれたヨーグルトが、エルナの目に直撃する。


「いたっ!」


 急いで目を拭いて、水道まで走ると、目についたヨーグルトを洗い流した。


(いたい……)


 まだ沁みるような気がしたが、なんとか視界が良好になったので、後ろを振り返る。


 ──が、彼女は絶望した。


「あああああああーーーーーーーー!」


 壁や床、ベッドのほうまで飛び散ったヨーグルト。悲惨な現場でただひとり、レオだけがにこにこと笑ってエルナを見ている。


「えへっ! あう~!」


 それはもうご機嫌で手をバタバタさせており、顔中がヨーグルトだらけ。


(おわった……)


 彼女はその場にへたり込んで、頭を抱えた。


「シーツも洗濯か……」


 ヨーグルトが飛び散った天井を見上げた彼女から、乾いた笑いが零れた。


「あは、あはははは………」

「えへっ! きゃははははははっ!」


 心からの喜びと、全てを諦めた笑い。親子の対照的な笑い声が部屋に響き渡った。


(掃除するか……)


 エルナは気合を入れるために自分の頬を勢いよく叩いた。

 立ち上がってレオのもとに向かうと、彼からスプーンを取り上げる。


「うう~!」


 怒りの抗議をするレオに、代わりのパンを手渡す。


「ふんっ!」

「あっ!」


 手渡されたパンはレオの手によって放り投げられ、そのまま床に落ちてしまった。


「駄目でしょっ!」

「ぶうっ!」


 怒られたのが気にくわないのか、レオは口を尖らせてエルナから顔を背けた。

 そんな彼を叱るため、エルナはレオの両頬に手を合わせて自分と目を合わせるように顔の向きを変えさせた。


「レオくん、食べものを投げちゃ駄目」

「ぶうっ!」


 再び抗議の意を示すレオに、エルナは首を左右に振って「いけない」と教える。


「駄目、食べものを粗末にしちゃ駄目。ちゃんと食べてあげないとパンが悲しむよ」

「あう……?」


 レオはエルナの言葉の意味を完全に理解していて首をかしげている訳ではなく、「パン」という言葉に反応しただけ。


「分かった?」

「ぶう……」


 不満げにそう呟くと、エルナの顔をめがけて唇を震わせて唾を飛ばした。


「はあ……」


(またこれだ……)


 この癖はいったいいつになったら直るのだろうか。

 エルナはそう思ってしばらく経っていた。

 子どもが唇を震わせて食べものを吐いたり、唾を飛ばしたりする癖はよくあること。


 しかし、レオはそれをする回数が徐々に増えていき、食べもので嫌いなものがある度にそれをするようになってしまった。

 その度に飛び散る食べものや飲みものを拭いて掃除していたエルナにとっては、その行動を出るとため息が漏れてしまう。


 エルナはひどく疲れた様子でレオの顔や身体を拭いていった。

 レオの周りを拭いた後は、椅子をテーブルから離してテーブルや床を掃除していく。


「あ……先にシーツをとっとこう……」


 エルナはヨーグルトが飛び散ったシーツを剥がすと、水道の前に立った。


(さすがに水道ではシーツは洗えないな……)


 そうして、シーツを持ったまま風呂場へ持っていき、掃除を始めた。

 すると、洗濯用の石鹸がないことに気づく。


(しまった、昨日キッチンにいった帰りにもらってこようとして忘れてた……)


 踏んだり蹴ったりなこの状況に、エルナのストレスは爆発した。


「あああああああーーーーーーー!」


 大きな声で叫び終えた後、彼女は浴槽に手をかけてうなだれる。


(子育て、大変だ……)


 自分を育ててくれた父親に感謝の思いがこみ上げてくる中、彼女は風呂場を出た。

 すると、レオの傍にはジュリエットがいるではないか。


「メイド長!」


 エルナは急いで身なりを整えると、頭を下げて挨拶をした。


「気を遣わなくていいですよ。それより、ずいぶんな叫び声が聞こえましたけども」

「申し訳ございません……」

「謝らなくてもいいです。レオ様のことで疲れたのでしょう?」

「は、はい……」


 ヨーグルトが飛び散った床やレオの汚れた服を見て、ジュリエットはすぐに状況を把握した。

 そんなジュリエットは疲れた顔をしているエルナのもとへ向かい、背中をさすった。


「メイド長……?」

「貴方をメイドに選んだ理由をまだ言っていませんでしたね」


 メイド長はエルナの背中を優しく撫でながら、ゆっくりと告げる。


「メイドとして働きたいと貴方から手紙が届いた時、初めは断ろうと考えていました。知っての通りここはヴァイラント公爵家。メイドであってもここにいる大半が貴族出身の者でしたから」


 メイドとして働き口を探していたエルナは、領地主であるヴァイラント公爵家にメイドとして働かせて欲しいと手紙を送っていた。

 無事にその願いは聞き届けられた訳だが、なぜエルナをメイドとして雇おうとしたのか、ジュリエットはその真相を語る。


「しかし、貴方が手紙に書いた最後の一文で採用を決めました」

「あ……」


 エルナ自身も覚えていた、最後に書いた一文。


「貴方は最後に『メイドの仕事を通して、私も成長したいです』と書いていました」


(そうだ……私、お父さんのことを書いた最後にそう書いたんだった。でも……)


「今、私はメイドのお仕事をできていません……」


 エルナがそう答えると、ジュリエットは彼女に問いかける。


「なぜ私がその一文で採用したか、分かりますか?」

「いえ、分かりません……」


 エルナの中でも疑問に思っていたのだ。

 どうして自分は貴族の子女ではない庶民出身であるのに採用されたのか。

 ジュリエットは彼女の疑問に答えるように告げる。


「皆、他の者は家庭教師の指示や定型文として、『メイドとして精一杯ヴァイラント公爵家のために尽くさせていただきます』と書いてくるのです。ですが、貴方は庶民出身だからこそ、というのもありますが、真っ直ぐな想いを書きました。自分も成長したい、と」

「はい」

「確かに奉仕精神はメイドとして重要な要素のひとつです。しかし、メイドとしてわたくしは自身も成長して欲しい、何かの夢を叶えるために奉仕して欲しいと願っています」

「夢を叶えるため……?」

「自己の欲望だと捉える者もいると思いますが、わたくしはこの自分を大切にする気持ちは良いと思っています。奉仕というものはその人に幸せになってもらいたいと願うものです。誰かに幸せになってもらうのに、自分を幸せにできなくてどうしますか」


(あ……)


 ジュリエットに説かれて初めて気づいた。


(今、私は自分を幸せにできていない……?)


 レオの『親』であることに必死で、自分を見失っていたのではないか。

 エルナはジュリエットの言葉でそのことに気づいた。


「ほら、見てください」


 ジュリエットはエルナを姿見の前へ連れて行って、エルナ自身の姿を見るように促した。


「これ、私……?」


 エルナはこの数週間で五キロも瘦せてしまい、頬はこけて、目の下にはクマができていた。

 姿勢も猫背で丸まっており、顔には笑顔も覇気もない。

 エルナが自分の姿を認識したところで、ジュリエットは言う。


「今の貴方の姿を見ましたか? これで貴方は幸せだと言えますか?」


 エルナは唇を噛んで目を閉じた。


「うう……」


 エルナの中で我慢していた何かがぶわっと湧き上がってきて、涙がどんどん溢れてくる。

 喉の奥がツンとして、堰き止めようとしても止まらない。


「泣いてもいいのですよ。わたくしの胸でいいのなら貸しますから」

「うう……うわあああああーーーーーーー!」


 エルナの叫び声が部屋中に響き渡った。

 周りを気にせずわんわんと泣いて、感情を吐き出していく。

 ただひたすらに心の苦しさを取り除くように、閉じ込めていた不安や怒りを全てぶつけるように、泣いて、泣いて、涙を流す。


「よく頑張っています、貴方は」


 ジュリエットの優しい声がエルナの耳にも届き、泣いてしまって声で返事ができない代わりに何度も何度も頷いた。


「あう……」


 そんなエルナの姿をレオもじっと見守っていた。


 そして、扉の外にはひとりの男がいる。

 廊下の壁にもたれかかった若き当主は、じっと彼女の泣き声を聞いていた──。


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