悦の権能 その16
2000年8月6日。
薄明かりの小部屋には、私を含めて4人の参加者が、円いテーブルを囲んで座っていた。
そのうち2人は、既に我を失っている。
片方の伊勢 健之助くんは気を失い、時々うめき声を上げていた。
もう片方の麻谷 杏子はというと、目を大きく見開き、時折、気色の悪い高笑いをしている。
「それを頂戴!わたくしに!さあ!!ふふ……ふふふ……そうよ……ふふ……」
私はその女を一瞥して、耳障りな声に舌打ちする。
ふと、左隣の邪神に向かい、1つ疑問を投げかけた。
「ねえ邪神。麻谷 杏子は、自分の権能を止めることもできたはずよね……?」
麻谷は口の横から泡を吹いていた。
自分自身の権能でこうなっていること、邪神はどう思うんだろう。
「風香よ。権能者である以上、如何なる状態でも自らの権能を解くは容易い。
悦の権能は、まだ解かれておらぬ。
思うに。ヤツはどこかでこの敗北を、望んでいたのやもしれぬ。」
「そんなの……!」
納得いかない。
一時的とはいえ、この街を徹底的に破壊した最凶の権能。
その主が、こんなにもあっさり自滅?
負けたかった?ふざけないで。
邪神は私の目を見ると、微笑んで言った。
「お前にはきっと、まだ分かるまい。
形はどうあれ、悦の権能は奴にとって、また町民の一部にとって……確かな救いだったのだ。」
「でも負けたら、誰も『救えない』じゃない。」
「左様。だが、風香よ。
人間は救われたいのだ。他者への救済によって。」
「一体どういう……」
邪神は指を立てて続ける。
「だが、自らが救われる目的を前に、欲深き者は他者を救うという手段を見失う。人は、そうして欲に溺れるのだ。
故に、我は弱き人間を愛そう。
ともかく、ヤツは正しいことをした。
快楽によって支配された世。
我にとっても、実に美しく、正しい理想郷。
楽園の女王は翌朝、いち住民になった。
喜ばしいではないか。」
……麻薬という最悪の形で「救済」を為した麻谷 杏子。
最後には自らを「救済」し、逃げ切るように廃人と化した。
本当に、自分勝手。
「それで、誰か救われたの?」
邪神は私の問いかけに、目を逸らしてこう答えた。
「わざわざ尋ねるか。お前の目にはどう映る。」
「……質問に答えて。」
「見ただろう、この街を。」
「救済」されたこの街に残ったのは、全てを失った人々。
そして、効力を残した数々の銃と、「悦」の依代。
「悦の権能は……結局、どう解除するの?あなたなら、知ってるんでしょう。」
沈黙した邪神の、表情が僅かに強張った。
邪神は、うめき声を上げる麻谷をゆっくりと指差し、冷たく言い放つ。
「殺すのだ。」
その言葉は、妙に重みを帯びていた。
「……は?」
「権能を止めるには、権能者の息を止めるしかあるまい。
見よ。麻谷 杏子には、『悦』の権能を解く意思などない。」
快楽を貪っては、哀れに狂う姿がそこにあった。
やらなくちゃいけないのかもしれない。でも……!
「……なんかもっと、他にないの?」
その問いかけに、邪神は笑っていた。
「知っているのだろう。
お前も、そこで寝ている健之助も。
……生死問わず、権能を解けば我にとって都合が悪い。」
……都合が悪い?
「もしかして、日下 萌々奈?」
「左様。だがヤツはここに来ない。
故に我も、このパラディーソを戦場に選んだ。」
健之助くんの言ってた、「日下 萌々奈」、そして「水分補給」。
思い返してみれば、権能の解除は、あまりにも簡単だった。
「……給湯室はどこ?」
「知らぬ。知っていたとしても、我にその必要は無かろう。」
「じゃあ私が探す。」
「然らば、阻ませてもらおう。」
邪神が両手を合わせ、広げた。
突如として、手の間にバスケットボール大の……星雲?が現れた。
小宇宙には夥しい恒星が煌めき、敵意を放つ。
「……なんで、そうなるのよ!」
コイツと戦闘になるのはまずい。
勝てないし逃げられない。
どうにか、気を逸らさなきゃ!
誰かから着信が掛かったように装う!?
……そもそも携帯なんて持ってるの?
「決して、お前になど奪わせぬ。」
余裕がない!
星雲の無数の煌めきは、一層強まる。
その時だった。邪神が遠くを見て、こう言った。
「……ん? 珍能像に、触れた者がおるな。」
「珍能像……?」
邪神はあの像を、遠隔操作でもしているの?
すぐに星雲は消失した。
邪神は怪訝な顔を浮かべる。
「触れた。誰だ、お前は……?」
会話をしている、という様子ではなかった。独り言のよう。
「願いは……
『愛する人を守る』……?
フッ、実に、実に美しいな。
しかし。我は、混沌を求める。
そんなものは、神にでも願え。
……そうか。うむ。
混沌を求めぬ者に、与える権能などない。
お前を、11人目にするつもりなどない。」
新たな権能者、いったい……?
「お前の名は……日下 勇次というのか。」
日下……? あの女の親類?
邪神は話し終えると、私に言った。
「さて風香よ。お前の権能を、呉 建炫という男に繋ぐのだ。」
「電話じゃないわ。 」
「拒否権はない。だが見返りはやる。場所は、珍能像だ。」
「……ええ。」
「言ってもらおう。『首尾はどうだ』と。」
元は全てコイツのせいなのに、良いようにされているのが腹立たしい。
珍能像横の座標。
群衆のどよめきが響くその空間で、
どことなく外国訛りの、1人の男に意識を向けた。
『……呉さん、首尾はどうだ、と。』
すぐ返答があった。
「その権能……三春 風香か。邪神様もおられるのだな。」
呉 建炫という男は、相当の切れ者らしい。
そのまま話をつづけた。
「今、珍能像に一人の男が触れた。
日下 萌々奈の父親だ。
邪神様は、どうしろと仰っている。」
私が頷くと、斜め後ろにいた邪神は
「奴は何と?」
と私に尋ねた。
「日下パパはどうする?だって。」
……そう言いながら、私は思い出していた。
健之助くんが発動した、あの不思議な感覚のこと。
その場にいた全員、見えない何かが、部屋の外に出ていくのを感じたことを。
あれから少しの時間差と、奇跡的な展開。
邪神と連絡手段がない忠臣。
彼が齎した、好機。
でも下手を打てば、私は消し炭にされる。
もう少し、様子を見るしかないようね。
「うむ。父親はエーデルワイスに任せておけ。娘の熱はお前が抑えよ。そう伝えよ。」
アイツと父親の前に立ちはだかる敵は、呉 建炫、エーデルワイスという二人の手下。
私は呉 建炫の周囲に、意識を巡らす。
「パパ!!何やってるの!?ソレから手を離して!」
クソ萌々奈の声。癪に障る。
「本物だというなら!!俺の願いを!叶えよ!!ご神体よ!!」
藁にも縋るような、その父親の声も聞こえた。
……ご神体?そう呼ばれているの?
アレでしょ。どう見ても。
まあいいわ。もう少し、聴いてみましょう。
次は、拡声器越しの少女の声が響いた。
「えーと、ご神木の、恵みは。
選ばれしものに、えーと、さいされる。
だから、その、触っちゃダメ。」
すかさず、 建炫の声が入った。
「よく見ろエーデルワイス!! 神木じゃない。ご神体だ。
木に見えるのか?マヌケ!
それと読み方も覚えろ。『齎される』、だ。
齋藤の齋ではない。」
切れ者の建炫に対して、エーデルワイスは、うん。
「おい三春 風香!!邪神様には伝えたんだろうな! なんと仰った! 」
気づかれた。早く返事しなきゃ。
「ケホン。」
1つ咳払いをして、音の権能を使う。
『あー、邪神より連絡があったわ。
その男が11人目だ。
邪神は確かにそう言った。珍能像が選んだ。そういうことよ。』
「……邪神様がそんなことを?嘘ではないだろうな。」
まずい。騙せそうにない。
そこに、エーデルワイスの肉声が聴こえた。
「建炫さん、綿使っちゃダメ?」
「まだダメだ。エーデルワイス、お前が珍能像より目立ってどうする。
……って、おい三春 風香!!聞いているのか!!」
「誰と話してるの?ミハルって?」
いまの会話で、状況は把握した。
珍能像を信奉する集会。
頭の切れる忠臣、呉 建炫。
綿の権能者、アホのエーデルワイス。
クソの日下 萌々奈とその父親。
さしずめ、邪神たちは新興宗教を興そうとしている、といったところね。
なんでアイツと父親がいるのかは、理解できないけど。
邪神の本当の目的は、やはりこっちだ。
効率的な洗脳。そのために、麻谷 杏子の権能が欲しかったわけね。
邪神は私を見つめて言った。
「 建炫に伝えたか。」
「ええ。止めるようにと。」
「……そうか。」
そう言いながらも、何か面白いものを見つけたような笑みを浮かべ、呟いた。
「……奇跡が起こる今宵。
使徒は、福音の権能を振るう。
群衆は、新たなる神の御業を証しするだろう。
……呉 建炫。エーデルワイス。
死ぬでないぞ。」
持ち主不在の権能を巡る、新たな闘い。
伊勢 健之助くん……田代 雅樹くん。
必ず、アイツと私で、助けるから!
……「悦」の災禍は、まだまだ留まるところを知らない。
あらすじ:
三春 風香が麻谷 杏子を撃破する。そして邪神が探知したのは、珍能像に触れた萌々奈の父、日下 勇次だった。
パラディーソでのゲームの最中。珍能像前では、呉 建炫とエーデルワイスが、人々を集めて集会を開いていた。
健之助の働きにより、権能を望んだ勇次。それをよく思わない邪神。
珍能像と、持ち主不在の悦の権能を巡る、日下父娘の戦いが今始まる。
Tips:
悦の権能編、完結です。長かったですね、すいません。
珍能像から権能が与えられるプロセスについては、実は明らかになっていません。かなり難解なので割愛したい……と思っていました。
ですが、多分そこをやらないと置いてけぼりですよね。
補足: 珍能像では邪神と本人の希望の擦り合わせによって中身を決めます(氷、音では邪神が上っ面の願いを却下することもありました)。が、珍能像に触れられるという時点でなんか選ばれし者なので、邪神が本気で嫌がらない限り権能を得られます。難しいですね。




