悦の権能 その9
鋭いヒールの音は、カツン、カツンとこちらに近づいてくる。
僕、伊勢 健之助は身動きが取れないまま、迫りくる狂気を感じ取った。
僕の隣では、相変わらず不敵な笑みを浮かべた邪神と、いつになく強張った表情をした三春 風香。
奇妙な組み合わせだが、二人も僕と同じくソファの上に手錠で拘束されていた。
前方には、シネマで僕たちにサイケシューターを撃ち、手錠をかけた男たち。
階段の前の薄暗がりから、ヒールの音がさらに近づいてくる。
そして目の前に現れたのは……煌びやかな紺のカクテルドレスを纏った、齢四十手前であろう女だった。
その細い肩には、不自然に角張った、黒いポシェットを掛けていた。
その女は、僕たち3人を前に小さく礼をして言った。
「当館のスタッフが手荒なことをしてしまい、申し訳ございません。
近頃この街でもいろいろありまして……警戒を強めております。どうかご承知ください。」
「しかしだ。玩具はやりすぎだろう。我は二発も撃たれた。
手荒い歓迎は、先代の教えか?」
邪神が呑気に言うと、その女は鼻で笑って言った。
「邪神様。お爺様なら、もう2年前に逝きましたわ。ご存じでしょう?」
「……ああ、すまない。我にとっては一刻に満たないものでな。」
どこかもの悲しそうな邪神をよそに、その女は僕たちの方を向いた。
「申し遅れましたわ。わたくしは当館パラディーソの2代目総支配人……
麻谷 杏子と申しますわ。以後、お見知りおきを。
本日は当館にお越しくださり、誠にありがとうございます。」
柔らかい微笑みの裏からから放たれるのは、底無しに禍々しい気迫。
間違いない、麻谷 杏子が、「悦」の権能者だ。
「皆様、先ほどの上映はお楽しみいただけましたか?」
まあ、それほど楽しくはなかった。
『別に。駄作だったわ。』
僕は黙っていたし、三春はなぜか僕の脳内に向かって言った。
「ノーコメントだ。」
答えたのは邪神だった。
「左様ですか。いささか残念ですわ。さて皆様。恐れながら、手荷物検査をさせていただいても?
……お二方、お願いしますわ。」
2人の男は、麻谷 杏子と名乗った女の一声で、僕と、邪神の服をまさぐった。
僕の持ち物を調べた男の首元から、赤や緑の鮮やかな刺青が見え隠れしていた。
「そちらの荷物検査は、お任せしますわね。」
女はそう言いながら、三春 風香の方に詰め寄る。
「さて、お嬢ちゃんはわたくしが調べますわ。変なものは、ありませんこと?例えば……」
三春は麻谷を下から睨めつけて言う。
「……触るんじゃないわよ。」
小さな抵抗もお構いなしに、麻谷は三春の身体をいやらしい手つきで撫でた。
「あらお嬢ちゃん。声は小さいのに、こちらは大きいですわね。これなら意中の殿方だって……」
「……うるさい。」
その場を包んだ、沈黙。そして……
次の瞬間。麻谷と2人の男が、両耳を抱えて蹲った。
「……何よ!いきなり!!」
「……うわあ!鼓膜が割れそうだ!」
立っていられないといった様相で、耳を押さえ、身をよじらせる。
僕はつい先日目の当たりにしていた……これが、三春 風香が持つ、「音」の権能だ。
対象に爆音を浴びせ、その逆に聴覚や声を遮断する。一方では情報伝達に盗聴など、まさに自由自在に音を操る力だ。
男たちが呻き声をあげているが、麻谷はすぐに、その騒音に順応したようだ。
二人の男に人差し指を向け、妖しく唱えた。
「……苦痛をも、愉悦としなさい。」
すると男たちは笑いながら立ち上がり、再び僕と邪神の身体をまさぐり始めた。
そういえば、僕のポケットにサイケシューターがある。……すぐに見つかった。
「姐さん!ブツですよォ~!コイツがァ!持って、やがったァ!」
僕たちを捕らえた時とは、別人のような口調。
「没収ですわ、伊勢……健之助くん。なぜあなたがこれを?」
間髪入れずに邪神が口を挟んだ。
「あー、我から宿敵への土産だ。それはそうと、風香よ。権能を解いてやれ。」
三春は不機嫌な顔をしながら、権能を解いたように見えた。
すると僕に小さく目くばせして、脳内に語り掛けた。
『健之助くん、私があなたを守るからね。そしたら、さっきの映画みたいなこと、私ならなんだって……』
めんどくさいのでそっぽを向いた。
……待てよ?なぜ麻谷と男たちは、三春の攻撃を受けて平然としていられたんだ?
「ねえ、邪神様は、何も持っておられませんでしたの? 」
麻谷は片方の男に声をかけるが、嬉々とした表情で小躍りするだけで、返事がない。
「……聞こえるわけもないわね。」
呆れたように呟いた。
これも、悦の権能なのか……? 隣で拘束されている邪神に尋ねた。
「なあ邪神。悦の権能は、音を無効化したのか?」
「否。無効化ではない。音の権能が与える苦痛でさえも、快楽であると暗示をかけたのだ。
故に、奴等の脳や耳には、計り知れない負担が掛かっている。
さながら、痛覚を消した狂戦士といったところか。成程、実に美しい権能だな。」
音の権能は、簡単に人を壊せる凶悪な力だ。それを狂気で誤魔化すほどの、強力な暗示。感心している場合じゃない。
「やはり、この力を授けてくださった邪神様はよくご存じですわね。」
さらに麻谷は滔々と語る。
「健之助くん。わたくしの権能……その玩具は気に入ってくれましたこと?ここ数日、神流町では本当に人気でしてね。
……これ欲しさに、住民たちは日々お祭り騒ぎ。
今やここは、世界で最も賑やかな街ですわ。可哀想だと思いませんこと? 」
この町で人気?賑やか?可哀想だって?
他人事のように話すその内容には……つくづく反吐が出る。
全て、お前がやったことだというのに。
元はといえば邪神のせいだ。
だが、「悦」の権能はこの街をここまで変えてしまった。
田代 雅樹君だって。あまりにも、惨い力だ。
「…… 一体何が、望みだ?」
図らずも、僕と邪神は口を揃えて言った。
勿論、その言葉の意図は異なる。
狂気を浮かべた女は、高らかに言い放つ。
「もちろん、お爺様から受け継いだこの映画館が、この先も皆様に笑顔を届けていくことですわ。
でも……その方法はチンケなポルノ映画だけではありませんの。
ですから、この笑顔の権能をくださった邪神様には、感謝してもしきれませんわ。
わたくしの真の願いは、皆が笑顔で過ごせる理想郷の実現。
まずはこの神流町から、わたくしの帝国を作り上げますのよ! 」
邪神が深々と頷いて言う。
「うむ。やはりお前は、この上なく素晴らしい権能者。女帝として君臨する日も遠くないだろう。
新しい世の為に権能を用いると宣うか。
それもまた、街そのものを欲するほどの強欲さゆえか、はたまた……」
「この世界のため。
わたくしは権能の依り代である玩具を、町外にも売り出していますのよ。
多くの人に、幸せを届けたい一心で。
もちろん、この権能があれば、街の人々を操るのだって難しくありませんわ。お金もたくさん集まりますし。
幸せな人民が、幸せを運ぶわたくしに従うのは当然ですもの。現にわたくしは、この街のほぼ全域……個人商店から町役場までをも掌握していますわ。
そう……わたくしの権能は、全ての人間が愛してやまない、最高の快楽を与える力!
どんなギャンブルより!アルコールより!セックスより!
まったく、素晴らしいとは思いませんこと!? 」
沈黙の末、声を発したのは三春だった。
「……いいえ。クソくらえ、だわ。」
静かに、鋭く言い放つ。
「風香ちゃんといったかしら。……どうせあなたも、自我なんか残りませんわ。」
その声色は、演説を邪魔されてどこか苛立って見えた。
麻谷は三春に対し、人差し指を向けた。
……やばい!「悦」の暗示か!
その瞬間、バチン!と、配電盤がショートするような音が響いた。
だが、停電が起こった様子はない。
「奇妙ですわね。あー、お二方、見てきてくださいませんこと?
いえ、彼らは使い物になりませんわね。」
背広の男たちはへらへら笑い声をあげるだけで、指示を聞かない。
「そもそも。当館の配電盤は、あちらではなくってよ? これはあなたの仕業ですわね? ……風香ちゃん。」
無表情の麻谷が三春を見下して言うと、三春が言った。
「どうせこんな小細工は、アンタには通用しないんでしょう?でもね、私からアンタに、一つだけ言わせて。」
三春の目に、冷たい光が宿る。
「アンタが与えたっていう『幸せ』のぶん、苦しみなさい……!」
「……ちょ、三春さん!まずいって!」
思わず僕も声が出た。
「ほう。面白いではないか。」
邪神は終始、余裕綽々だ。
「あら……精々、口の利き方には気をつけることですわね。小娘。」
そう言って、麻谷 杏子が角張ったポシェットから取り出したのは……一丁の、高級感のあるピストル。
三春の頭に、銃口を向ける。
金属が重々しく揺れる音が、静寂に突き刺さった。
あらすじ ;
捕らわれていた健之助、風香、邪神の三人を前に、ついに悦の権能者、麻谷 杏子が姿を現す。一行は音の権能を誤魔化すほどの、圧倒的な権能を目の当たりにする。一方で麻谷はその権能で人々を支配し、幸せに満ちた理想郷を建設するという野望を語る。
大勢の尊厳を踏みにじった、歪んだ理想。そこに異議を唱えた風香に対し、麻谷は本物の銃を突き立てるのだった。
Tips: 休載多い上に展開が遅くてほんとうにすいません。9話目にしてようやく登場って遅すぎますね。ここからも長いですが。
補足: 手錠一つじゃ拘束が足りないと思われるかもしれませんが、ふかふかのソファに深々と座って(ダジャレじゃないです!)、後ろ手で組んでソファの背もたれの後ろに出すと、驚くほど立ち上がれません。




