悦の権能 その7
2週間を経て連載を再開いたしました。
この機に、あまりに代わり映えしなさすぎるテンプレ前書きを廃止しようと思います。
今度は本業との兼ね合いで再び更新が滞るかもしれませんが、失踪だけはしないつもりです。
2000年8月6日。
健之助さんと、デート、なんだよね?
私、日下 萌々奈は助手席から、ハンドルを握る彼の横顔を見ていた。こうして見ると、顔が良いんだと思う。
ぼんやりとしながら、卵焼き味のテュッポチャッパスの包みを剥く。話のタネにはいいと思ったけど、こういう時に飴なんか買ってくるのは私くらいだ。
「はい、『あーん』して?」
私が飴を彼の口元に差し出すと、彼は慌てた。
「運転中に良くないよ。」
彼はそう言いながらも、口を開けていた。飴玉を待つ緩んだ顔が、なんだか可愛らしい。健之助さんは、こういう時にノってくれる人。
ふと我に返る。あーんだなんて、すごく恥ずかしいことをしているのでは?
「やっぱちょっと待って!心の準備が!」
「準備?卵焼き味、気になるんだけどな……じゃあ、次の赤信号で。」
……そこまでして飴を食べたいのかな。予想もつかない卵焼き味だから?
それとも、私からの「あーん」が……いやいやいや、絶対そんなことない!
一人で首を横に振った。
「どうしたの?」
「な、なんでもないよ!」
車内に気まずさが漂う。でもこの空気が、不思議と嫌ではなかった。
その時、健之助さんが言う。
「あ、あの看板……ハ○ーキ○ィの偽物?なんか癖になる顔だよね。」
彼が見たのは、クリーニング屋の看板。この町で育った私にはお馴染みだけど、去年来た健之助さんは喜んでいた。
「ね。もうちょっと進んだ先に、その弟みたいなのいるよ。」
「おお!どんなの?」
「うーん、ミッフ○ー。」
「ダメなやつじゃん。あ、赤信号。」
車は減速し、停止線の上に……停車した。今だ。飴の話をしなきゃ。声を振り絞った。
「あ、あの!飴……ど、どうぞ!」
右手に、手汗でふやけた紙の棒を持って、彼の口に運ぶ。
彼は優しく微笑むと、私の方を向いて口を開けた。心なしか、表情が強張っているように見える。
その顔を、真っ直ぐ見れない!私がいまやっているのは、「あーん」なんだ!
彼が下手に気を利かせて、「自分で食べる」と言わなかったからこその、青春みたいなイベント。
いや、そんな彼が逆に気を利かせたから、「自分で食べる」と言わなかったの?
わからない!でも、やらないわけにいかない!
手先が震える。青信号までまだ時間がある。顔が赤くなるのを感じながら、健之助さんと目が合ってしまった。私は咄嗟に顔を逸らす。
もう少しだけ、手を伸ばそう。
「えいっ。」
同時に、彼も顔を私の方に近づけた。
健之助さんの下唇が、手にぶつかった。
「んごっ!」
口に飴が入ったようだ。
「ごめん!喉大丈夫?」
「大丈夫。こちらこそごめん……」
私には、その横顔が少し紅潮しているように見えた。
そして、青信号。発進する。
「……不味い゛ね、これ゛。」
健之助さんはえづきながら言ったので、ずっと舐めさせておくのも可哀想だと思った。
「我慢しなくていいよ?」
恥ずかしそうに、彼は言った。
「別に我慢してるわけじゃ……してるかも。ありがとう。」
「じゃあ、取るね。」
彼の口から出た棒を引っ張り、まだ大きい飴をティッシュで包んだ。
「ごめん、せっかく買ってきてくれたのに……。」
「いいの!こちらこそ、変なの食べさせちゃった。」
「いつかまたリベンジを。」
「あはは!しなくていいよ!」
飴の一件から、私たちはいろんな話をした。明日になったら、忘れちゃうような話。
緑が深い山の中を、進んでいった。
「着いたよ。ここに行きたいと思って。」
こじんまりとした駐車場に車を停めると、そこには可愛らしい、赤い屋根のお店。「コーヒーハウス・セラヴィ」と書いてあった。ガイドブックにも載った、有名なお店だ。
ドアを開けると、カランコロンと、小気味いい鈴が鳴った。
「いらっしゃいませー。」
「2名です。」
店内は驚くほど空いていて、他のお客さんは一組の老夫婦だけ。
アンティーク調の店内に入ると、窓際の席に通された。向かいの山の瑞々しい木々が、綺麗に見えるとても素敵な場所だ。
席に着き、水を飲む。
外をぼんやり眺めていると、健之助さんが声をかけた。
「萌々奈はコーヒーに牛乳入れる?」
コーヒーは好きだけど、ブラックは苦くて好きじゃない。
「う、うん。」
彼は店員さんを呼んだ。
「すみません、カフェオレと、エッグタルトを2つずつお願いします。」
「はい、かしこまりました~」
コーヒーは少し後に到着した。すかさずコーヒーを飲む。
優しくてほろ苦いその風味が、私の気持ちを肯定してくれるようだった。
特に面白い話をするわけでもない、健之助さんとの時間が嬉しい。なんて、私の気持ちを。
たとえ、彼の気持ちがわからなくても。
今日も、明日も、きっと来週も、来月も。
私は伊勢 健之助に会いたい。
そんな小さくて大きい願いのために、何を話そう。
コーヒーを口の中で転がした。
次に目が合った時、彼が放った言葉は、突飛なものだった。
「死ぬかもしれないって、さっきまで思ってた。僕はこれから、邪神と、『悦』の権能者のところに向かう。萌々奈を連れていけない。だから昨日は、お別れを言うつもりで、突然誘ったんだ。」
ふと、私の中で何かが止まった気がした。コーヒーの味が、消えた。
「……え?嫌だよ。」
なんで?なんで彼がそんな、死ぬだなんて。絶対死なないと思っていた。彼は私を守るし、私だって彼を守るって思ってたから。聞きたくなかった。お別れなんて、考えたくなかった。
私の表情が消えるのを見て、彼は慌てて付け足す。
「でも、萌々奈のお母さんが言ってくれたんだ。『生きて会いに来なさい』って。それで、今日ようやく決心がついた。萌々奈、やっぱり君には、お別れを言うつもりなんてない。」
「私の、ママが……?」
今到着したエッグタルトには、誰も口を付けなかった。
「ああ。だから今日呼んだのは、別れを言うためじゃない。僕の気持ちを、ちゃんと伝えるためなんだ。」
健之助さんの、気持ち……?
知りたい。でも、知ってしまったら……それがどんなものだとしても、受け止められないと思う。わからないままでいたい、そんな甘えが、まだどこかにあった。
彼は、深く息を吸った。沈黙が流れる。そして。
「萌々奈……その、僕は、君のことが……」
「ちょっと待って!」
店内のご夫婦が驚いてこちらを見るほど、私の声が大きく響いてしまった。
「ご、ごめん健之助さん。まず確認しておきたいんだけど、今晩、何をするの?……私のこと、『連れていけない』って?」
ごめんね。せっかく言葉にしてくれようとしたのに。きっと、彼が言おうとしていたのは……私が欲しかった言葉。だけど、受け取るのは今じゃない。
その決心めいた言葉を遮られた彼は、どこか安堵したようにも見えた。……と思いたい。
「話してなかったね。今夜、悦の権能者とゲームをする、邪神はそう言って、僕に映画のチケットを2枚渡した。」
話を聞きながらも、なんだか口角が上がってしまった。胸の高鳴りが収まらなくて、喉がコーヒーを拒むようだった。
そして彼が取り出したチケットは、「神流パラディーソ 映画観賞券」。
なるほど。それで私を連れていけないというわけね。邪神の指示とはいえ、ちょっと幻滅した。
「……健之助さん。私だって女の子なんだけど。」
「ええ?うん。」
「いや『ええ』じゃなくて。パラディーソって、知らない?」
「……知らない。」
マジで知らないのか。好きな人がそういう所行くのって、ちょっと嫌だ。
「……ピンク映画館!」
「へえ。」
「……それで、あとの一枚で。一体誰を連れていくつもり?」
彼は目を逸らして、小さく呟いた。
「……三春 風香に声を掛けてある。」
私が入れないピンク映画館に、よりによって……あの変態ストーカー女と?私になんの断りもなく?
仮に健之助さんが私のことを好きだとしても、ストーカーであることを除けば、女として三春にはいろいろと及ばないのは明らかだ。彼があの女のデカい胸に顔を挟んでいた光景を思い出すだけで、頭痛がする。
じゃなくて。敵は「悦」と、邪神。対策不能な麻薬の権能と戦う上で、妨害や精神攻撃に長けたあの女が最適だ。他に誰が?病室から冷田 篤志を叩き起こすこともできないし。
そう言って自分を納得させると、記憶の奥底からあの女の声が聞こえた。
「あなたが彼のこと、分不相応に好きになるから悪いのよ。」
堪らなく腹立たしかった。あの女も、変な所で合理的な健之助さんも。
こういう時って、グラスを持って思いっきり水をかければいいんだっけ。
いや、違う。こういう時こそ、とりあえず信じるしかない。
「絶対、勝ってね。」
健之助さんは笑顔で応える。彼は彼なりに、私を大事に思ってくれていることを、その眼差しが熱く物語っていた。
そして私たちは、目を合わせて笑い合った。
あらすじ: ドライブで車を運転する健之助に、マズい飴を食べさせる萌々奈。そんな二人は山奥の小さな喫茶店に入る。健之助への想いを募らせる萌々奈であったが、健之助の意を決した告白を遮ってしまう。そして、今夜健之助が挑む決戦の舞台は、未成年の自分が入れないピンク映画館で、彼が選んだ助っ人は恋敵、三春風香であることを知る。
Tips: 本物のチュッパチャップスは、混川の舌がヒリヒリするくらい必死こいて舐めて、約28分かかりました。ちゃんとストップウォッチで測ってます。飴の話をするんだから、飴を舐めながら書くのは当然です。美味しいプリン味でした。
補足:エッグタルトのブームが起こったのが、1999年らしいです。今となっては当たり前にあるものの筆頭で、好きなんです。




