悦の権能 その6
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
2000年8月6日。
古びた下宿のワンルームにいる。たまには掃除でもしようか、なんて考えていたが、体は思うように動かない。
「明日にはきっと、僕はいない。」
そんな予感がした。携帯を手に取り、しばらく連絡できていない、実家の母親にカーソルを合わせた。
……今本当のことを話せば、全力で止められるに違いない。
やはり、再び携帯を置いた。
自分の命が今日終わるかもしれない、そんな時、人は何をするだろうか。
僕はただ……安い布団に包まって、逃れられない戦いと、未知の権能に怯え震えていた。
時折、萌々奈にどう別れを告げるべきかを考えては、胸が痛くなった。
情けないことに、ずっとその繰り返しだ。
なぜ僕のは目の前に、これほどまでに死が横たわるのか。
それは僕が、「奇跡」の権能を持つ者、伊勢 健之助だからだ。
僕の権能は、敵の攻撃を避ける。
神様に近い存在が、僕に身を守るための動き方を教えているからだ。神流町での戦いを通して僕はこの権能を、まるで自分の物のように扱えるようになっていた。
それは、僕の恐怖心が、研ぎ澄まされたからに他ならない。
「瞬」の権能者、速水 龍太との戦いで痛手を負った僕は、「奇跡」の権能によって何故か体力を回復することはできたものの……あと少しで、確実に死んでいた。
思えばその時から、僕はこの戦いが死と隣合わせであり、避けられない使命であると悟っていたのだろう。
僕が出会う権能者は、益々強力になっていった。
この街に漂う死の気配と、僕の中にある死にたくない思いが段々と強まった。
僕自身は、戦うための力なんてないのに。
「屍」の権能者、鬼怒川 真悟が生み出した怪物ベルゼブブや、
聴覚と精神を蝕む「音」の権能者、三春 風香との件があった。
他にも、敵かはわからないが絶対的な切れ味の「刃」を繰り出す猫崎 唯。
逃れられない「綿」とぬいぐるみを操るエーデルワイスに、
権能そのものを歪める呉 建炫。
果ては無尽蔵に繰り出される全ての「星」が致命的な、邪神。
怖くないわけがない。
もう一つ。僕の権能は、奇妙な言葉を発した。確か……
「サタンよ。終末に、あなたは再び滅びる。」
邪神がサタンの成れの果て、という話をしていたか。有史より人を唆し、騙し、呪ってきた強大な悪魔だ。
終末なんて、人間にとっては永遠に遠い未来だ。永遠に生きる悪魔。僕は、そんな奴と戦わなくちゃいけないのか?
身を守ったあの光も、次こそは通じない。終末どころか寿命より前に、僕は殺される。
「もう、ダメかもしれないな。」
力ない声が、空気のように漏れてしまった。
僕は手元にある……邪神が病院に置いていった、玩具を見つめた。
「サイケシューター」。誰だって一瞬で、麻薬中毒になれる権能。
「悦」の麻薬は、それだけじゃないはずだ。
目を見るだけとか、声を聴くだけとか……もっと簡単で、避けられないかもしれない。
あまりにも、おぞましい力。足が竦み、肩が震えるようだった。
……いっそ、この恐怖を掻き消してみようか?
安っぽい銃口を、こめかみに当てる。
恐怖も、使命も、人格も。捨てるのは簡単だ。堕ちてしまえばいい。ひょっとしたら狂気に駆られて、ヤツらとも戦えるかもしれない。
引き金に指を掛けたその時。
ふと、萌々奈のお母さんの言葉を思い出した。
「あなたが消える必要ない。萌々奈も私も、絶対に許さない。」
忘れかけていた言葉が、反響する。
優しい言葉だった。娘に近づく男とあらば、撥ね退けるのが親というものだろうに。
実際、親心というものはよくわからないが……間違いなくそれは愛というやつだろう。
お母さんが、萌々奈を悲しませまい願う気持ち。。
……ようやく腑に落ちた。僕は結局、自分のことしか考えていなかった。
この戦いに、恐怖を越えて死ぬ覚悟で挑むこと。
死ぬ前に、いつしかかけがえのない存在になっていた萌々奈に、別れを告げること……
そんなのは「中途半端は優しさ」ですらない。彼女を蔑ろにした、ただのエゴだ。
今だって、弱い僕は萌々奈を悲しませる選択をしかけた。
「バカだな。」
銃口を頭から離していた。
……もし僕が堕ちたら、萌々奈はどうなる?
行き場のない自問自答に、1つの解。
最後の戦い?違う。僕は終わらない。だから、萌々奈との別れを惜しむ必要なんかない。
命への執着でも、死への恐怖でもない。彼女の為に、死なない。
当たり前だけど、「来週も、来月も、来年も……生きていかなきゃいけない」から。別れを告げる為なんかじゃない。生きていくと宣言するため。会いたい人に会う為に。
髪を整え、ジャケットを羽織る。車のキーをポケットに入れて、一つ呟いた。
「迎えに行くか。」
今日も、明日も、きっと来週も、来月も。
僕は日下 萌々奈に会いたい。
……勢いよく、エンジンキーを捻る。
僕の家は神流町の南東部にある。駅前から南の外れに萌々奈の家があったから、そのあたりのコンビニに車を停めることにした。多分家から近いはずだ。
神流町では治安の悪化に伴う非常事態宣言が出された。町は閑散としているが、車からたまに見かけるのは、目が据わっていなかったり、真っ直ぐ歩けない人がほとんどだ。
細々と営業しているそのコンビニの前で、僕は車から降りた。店内では重装備の店員が一人。
周りには誰もいないと思ったていたが、コンビニ横の従業員入口の前には、チンピラのようには見えない、二人の男がたむろしていた。間違いなく、「悦」の権能の中毒者だろう。
すると、その男の片方が、店内に向かう僕に気が付いた。血走った眼をした20代半ばの男たちは、口の横からは泡を吹き、頭をガシガシと掻きむしりながら笑っていた。正気を失い、青白い顔をした男たち。骨格は他人だが、その風貌は瓜二つ、まさにゾンビのようだった。
異様な光景に、僕は思わず後ずさりする。
……もしかして、僕が懐に隠したアレに、気が付いているというのか?
男たちは僕の目に飛び出してくると、「そのサイケシューターを寄越せ」と言わんばかりにコンビニの入り口で仁王立ちした。不潔と異常分泌による、劣悪な臭いが鼻を刺した。
「アハ!!ハアア!寄越せ!ウヒッイイ!」
「ウィヤハー!珍能像!珍能像!!」
……ん?今、珍能像と言ったのか?権能者しか知らないと思ってたが。
力が入っていないパンチを、後ろに退いて避ける。
とにかく、こんなところで落ち合うなんて、萌々奈にとっても危険だ。すぐにでも彼女の家に……って、どこだか聞いてなかった。
今はこの男たちを、どうにかやり過ごすしかない、そう思って僕はコンビニに背を向け……降りてきた車へと駆け出した。
だが、片方の男は動きが素早い。後ろからジャケットの襟元を掴まれた。振り切れるか?
バランスを崩しながら、僕は片足で踏ん張った。もう少しで逃げられる。
その時だった。コンビニのドアが開くのが見えた。
「あつ!!あああ!!あち!」
すぐ後ろから断末魔が響くと、僕は踏ん張った勢いで前に転びかけた。
「ぎゃああ!あつい!あああ!」
もう一人の男も、叫び声をあげた。
「私のお友達に、何してんの!」
見慣れた声と共にドアから出てきたのは、赤身を帯びた黒髪に、パステルグリーンのブラウス、デニムのミニスカートを纏った少女、日下 萌々奈だった。何を着ても似合う……僕は呑気にもそう思った。
「いでぇよぉ……」
うめき声をあげて蹲る男たちの側には、焼け焦げてカラメルになったロリポップキャンディーが転がっていた。
「健之助さん、お待たせ。テュッポチャッパスってさ……たまにぶん投げたくなる味あるよね。」
待たせたのは僕の方なのに。あっけらかんとした彼女を見て思った。
「助かった、ありがとう。でも燃やす人は見たことないや。何味だったの?」
「あはは!だったって、過去形!ええと、確か……ブルーチーズ味が泣くほど不味くて、ペペロンチーノ味もキレるほど不味くて。」
「うわあ……よく買おうと思ったね。」
「もしも美味しかったら、ちょっと嬉しいじゃん?不味くても面白いし。」
「確かに。その気持ちわかるなあ。」
「ホント!?健之助さんならわかってくれると思ってた!」
なんだか、いろいろと思い悩んだのがバカみたいだ。そう思えるほど、彼女の表情が眩しかった。
空元気……なのかもしれないけど。
「じゃあ、助手席でいい?」
僕は軽自動車の助手席を開ける。
「うん、今日はよろしくね!」
僕が運転席に乗ると、萌々奈はポケットから、ストロベリー味のテュッポチャッパスを取り出した。
「まだ持ってたの?」
「えへへ。保険も必要でしょ?もう一本も欲しい?」
「いらない。」
「卵焼き味。」
「……やっぱ要る。」
「『あーん』して?」
「ちょ、それは!ダメだって!」
呻く男たちをよそに、この街を出た。
あらすじ: 邪神、悦の権能者が集う「パラディーソ」での決戦に臨む健之助は、萌々奈を誘う。それは危険さを増す戦いの中で、自身の命への執着が強まり、ついに死を悟ったからであった。
自問自答を経て、萌々奈の母からの言葉に光明を見出す健之助。死なないこと。悲しませないこと。当たり前のことを再確認する中で、健之助は萌々奈への想いに気づく。
二人は、更なる混沌に苛まれる神流町を抜け出し、束の間の大切な時間を過ごす。
tips: 久々に健之助がグダグダ回想する話でした。この機に今までの流れを振り返っておきましょう。
補足: 健之助が萌々奈の自宅を知らないのは、単純に萌々奈が男性に対してそれなりの警戒心を持っているからです。親の教育が行き届いているんです。「もう仲いいんだから別にいいのでは?」というのもありますが、年賀状の時期以外に「住所どこ?」なんて会話する人いないと思います。
補足2: 登場人物の服装については本当に何もこだわりがないのですが、Y2Kファッションを基本としています。




