悦の権能 その5
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
2000年8月5日。
この日は、雨が降った。
日下 萌々奈は、リビングでテレビを見ていた。
ニュースでは連日神流町が取り上げられている。
書店の殺人事件、巨大な綿と死骸の山、水族館での器物破損事件。最近は、違法薬物が出回っているという話も聞く。
全国区のニュースを見ているのに、その3割はこの町で起こった事件……日本有数の、危険な町。
今朝大々的に報じられたのは、神流中央病院の不審な事故だった。
「昨日14時頃、県立神流町中央病院にて、『不審な物音があり、廊下を見ると壁や天井が破損している』と、病院職員より消防署に通報がありました。
被害があったのは、入院患者がいる病棟の3階と、4階の一部。
病室の壁や天井に穴が空く等の被害が確認されていますが、この事故によるけが人は報告されていません。
また階段付近には、二人も警備員が倒れていたとのことです。二人の警備員は、現在神流町内で流行中の違法薬物『サイケシューター』によるものとみられる、中毒症状を発症していました。
病院職員の証言によると、『邪神を名乗る不審な人物が現れた。警備員に様子を見てもらおうとしたが、途中で連絡が途絶えた。』とのこと。
神流地域西域警察署は、この『邪神』を名乗る人物が、今回の事故や一連の薬物関連事件に関係があるとみて捜査を進めております。
一方で、設置されている火災報知器が全て破損していること、銃創痕、血痕などが全く発見されていないこと、現場付近には鉄を多く含む鉱石が多く発見されていることなど、この件にも不可解な点が多くあり、神流町内で発生している他の事件と同様、警察の捜査は依然として難航しております。」
間違いない。ようやく、邪神が足跡を残し始めたんだ。
街の人たちが危険な目に遭う前に、私が……私たちが、止めなきゃいけない。
顔をしかめていた私に、母、日下 奈緒美が声をかけた。
「ねえ萌々奈?邪神ってのがどこにいるかわからないなら、大人しくしてた方がいいんじゃない?今外に出ると、ヤク中の人がウヨウヨいるっていうし。」
ママの言うとおりだ。
治安は最悪。ここは、戦闘どころか外出がリスクになる街だ。
あるワイドショーは、この街を「ゾンビタウン」と呼ぶ。それほどまでに、神流町は違法薬物「サイケシューター」が蔓延している。
奇妙なことに、錠剤でも、注射器でもない、安物のBB弾用ピストル。その弾に撃たれた人は、意識障害、幻覚、依存症、社会性の崩壊……どんな症状が起こるかも今のところ不明で、とにかく文字通りの廃人になるらしい。
専門家が言うには、中毒患者がその銃で他の人を撃ち、撃たれた人が中毒を発症して、また他の人を撃ち……ネズミ算式に中毒患者が増えているらしい。
需要に対して「サイケシューター」の数が足りず、その奪い合いを発端とする暴行事件も相次いでいるとのことだ。
「あのさママ、パパは、大丈夫かな?」
私が尋ねると、ママは少し無理したように笑った。
「大丈夫。職場は神流町の外にあるし、駅改札での持ち物検査が義務化されたって電話で言ってたわ。それで少し遅れたけど、職場にはもう着いたって。」
「そっか。」
神流駅は、当然危険な場所だ。
パパになにもなければいいんだけど。
「あ、携帯鳴ってるよ。ええと、『伊勢 健之助』?あ、ボーイフレンドの。」
突然私の元に、一本の電話。
「ちょっとママ!そんなんじゃ……!」
ママはその携帯を手渡して言う。
「最近話せてないんでしょ。言うべきこと、ちゃんと言わなきゃ。」
「……うん。」
ソファを立って電話を開く。何から話そう……受話ボタンを押す指が震えた。
「はい、萌々奈ですー。」
「もしもし?良かった。えーっと、大丈夫?」
「だ、大丈夫。健之助さんは?」
「僕なら大丈夫。ちょっと心配になって。最近いろいろあったし。」
「あ、ありがとう……」
まずい。ぎこちない会話に息が詰まりそう。何とかしなきゃ。
少しの沈黙。私は息を吸って、胸につかえた言葉を押し出した。
「あ、あの、健の……」
「明日、会えないかな?」
「へ……?」
「ごめん、何か言おうとしてた?」
彼の口から飛び出た「会えないかな?」の言葉に、私は一瞬固まった。
正直、その言葉が聞けるなんて、想定外だったから。
「……いいえ!何でもないの!」
少しだけ踵が浮く。心なしか、声がワントーン上がった。
「そう?……じゃあ明日の昼、町の外れに……」
そのまま健之助さんは言い淀んだ。
窓の外から、強まる雨音が沈黙を埋める。
私には、雨音が怖かった。幽かな期待感が、いとも簡単に洗い流されてしまう気がしたから。
やがて脳内に響く雨音が、心の声になった。
「……彼が私に声をかけるのは、どうせ、この街の異変絡みのこと。
彼が欲しいのは、私の権能。
ただの私を、彼が選ぶ理由なんてある?
所詮私だって独り善がり。三春 風香となにも変わらない。」
「違う!」なんて、言えない。
私、情けないな。
だから今、彼の言葉で言って欲しい。
彼が私を、連れ出そうとしてくれるのは嬉しい。
でもそれは、邪神との戦いの為じゃなくて……「萌々奈の為なんだ」って、言って欲しい。
受話口からは、酷いノイズが鳴る。
そっか、私、彼との時間のみならず……彼の気持ちまで、欲してしまっているんだ。
まるで、あのストーカーみたいに。
自分が彼のことをどう思ってるか、それすらよくわかっていないのに。
寧ろそれなら、私の方がよっぽど質が悪い。
やっぱり、こんな我儘、許されるわけない。
そんなことわかってる。なのに……
……
「……しもし?おーい、萌々奈?」
「あっ!な、な、なに!?」
ふと我に返った。
「それで、隣の野木原市に行きたいと思って。」
車でそう遠くない場所だ。
「えーっと、そっちにどんな用事で?」
ちょっと、意地悪な質問だったかもしれない。
「用事は……特にないよ。出かけるにしても、神流町は危険だからね。ドライブくらいしかできることもないけど。」
彼はいつもどおり、穏やかに答えた。
「そう、だよね……!」
知りたい、彼の本心が。私は髪をくるくる指で回し、尋ねる。
「もしかして、私と……?」
聞かなくたって、相手は私だ。でも、言葉にしてほしい。
少しの空白に、電波のノイズ。
「う、うん……萌々奈とが、いい……」
……そして、しどろもどろな健之助さんの声が聞こえた。
どうせなら、もっと堂々と言って欲しかった。……じゃなくて。
私が欲したその言葉は、雨に濡れた私を乾かす、優しい日差しにも思えた。
「うん、ありがとう!ドライブ、楽しみにしてるね!」
ここ数日で最も、明るい声が出た。
「ああ、危険だから家の近くまで迎えに……」
「ちょっとぉ!ドライブ!?ダメよ萌々奈!」
駆けつけてきたのは、私のママだ。あまりの声量に、電話がよく聞こえない。
「相手は幾ら人が良くっても、結局は男なのよ?ドライブなんて、絶対いかがわしいことされるに決まってる!山合いにラブホテルが何軒あると……!」
「ちょっとママ、落ち着いて!早く帰るから!」
「携帯貸しなさい!その男に文句言ってあげる!」
「あっ、やめて……!」
体をひねって携帯を覆い隠したものの、奪われてしまった。
「萌々奈の母です!娘がど~うもお世話になっております~!
あのですね、この街の治安も鑑みて、ドライブしかできないのはわかるんですよ~。
でも!年頃の娘をもつ親としてそれは看過できない!
条件を出します!必ず、夕方までには家に帰すこと!あと、県道沿いのラブホテル街には近づかないこと!その場合問答無用で殺す!あとは何かあった時の為に、私と電話番号を交換すること!いい?何か質問は!!」
よくもまあこんなに口が回るなと、我が母親ながら感心した。あと、すごく恥ずかしい。
……それと、もしや、行っていいってこと?
健之助さんは、ママと何を話してるんだろう。
「うん……うん、そう。
それが……あなたの気持ちなのね。
……ううん、あの子も喜ぶと思う。わかった、それは黙っとくわ。
……でもね健之助くん、うちの子はね、あなたを信じて一緒に戦ってきた。
それなのに……そんな理由で、明日連れてくって言うの?
中途半端な優しさが……萌々奈をどれだけ悲しませるか、少しでも想像した?」
ママの声が、震えているように聞こえた。
「あなたの戦いは、正しいこと。
だけど、邪神がどれだけ強くて危険だろうと、あなたが消える必要ない。萌々奈も私も、絶対に許さない。
明日が最後なんかじゃない。来週も、来月も、来年も……生きて、会いに来なさい。
……他には?そう。じゃ、切るわね。よろしく。」
「あ、切っちゃった?なに話してたの?」
「ん?忘れた。」
「そんな~!」
……外を見ると、雨が止んでいた。
確か、明日もこのまま晴れる予報だ。
あらすじ: 萌々奈が母奈緒美に思いを打ち明けた2日後。健之助が邪神と邂逅した翌日。神流町は更なる混沌に覆われていた。健之助への想いに翻弄される萌々奈だったが、突然の電話により、翌日ドライブに行くことに。奈緒美は親心からドライブの条件を取り付けるとともに、邪神との戦いに臨む健之助に釘を刺す。
tips: 田舎の山合いにあるラブホテルって、なんか面白いですよね。おひとり様でも泊まれれば、創作のいいネタになりそうなのですが。あ、だいたい観光資源がない所にあるし、おひとり様が行く意味なんてそもそもないかー、あははは(乾いた笑い)。
補足: 症状から暫定的に違法薬物とされているサイケシューターですが、化学物質ではなく、実物の玩具に「悦」の権能を込めたものです。そのため鑑識には絶対引っかからず、足がつきません。
(こんなこと本編で解説しても面白くないのでここに。)




