悦の権能 その2
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
2000年8月4日。
この日も、真昼の太陽が肌を刺す。私は黒い日傘を差して、バイト先のドラマティック個別スクールに向かっている。
あの一件が以来、伊勢 健之助くんと出勤日が重なるのは今日が初めてだ。彼はここ数日忙しいようだから、夏期講習にはあまり顔を出していない。
一昨日の健之助くんは特に忙しかった。あのクソ女……日下 萌々奈とデートして、後ろから猫崎って権能者に尾行されて、邪神の使い2人に襲撃された。
……彼に何が起こったのか、勿論私は全部把握してる。なんでもお見通し?いや、筒抜けなのよ。
アイツとうまく行ってないことだって、ね。
左目に掛かる髪をかきあげる。
……痛っ!唐突に、左肩が引き攣った。
アイツにやられた火傷。痛み止めと化膿止めを処方してもらったものの、どうしても痕は残ると言われた。
1週間もすれば痛みが引くらしいけど……
傷口の奥で何かが滾る。これは、怒り?それとも、失望?
この感情を形容する言葉を探すたび、アイツの声を思い出すたび……心臓と同調して傷が疼くんだ。
アイツこそ、痛みで人を縛る灼熱の悪魔。
彼を壊す人間がいるなら、それは日下 萌々奈。
私じゃない!
反対側の歩道には、部活帰りの女子高校生が歩いている。
……こいつらを見ると無性に腹立たしい。
そもそも。私は彼を壊そうだなんて、微塵も思っていなかった。ただ、愛していただけなのに。
愛しているから、私は身の程を知った。決してあの女の暴力に屈したとかじゃない。
彼を自分の物にしようだなんて、もうそんな思い上がりはしない。彼の生き方は彼のものだから。
別に彼がクソ女とくっつこうが、もうどうでもいい。……いや、それは言い過ぎか。
それくらいには、彼への執着は捨て去ったつもりだ。
だから私は、彼を盗聴なんかしていない。彼ほどの存在感がある偉大な人間は、その武勇が勝手に耳に入ってしまうし、音の権能が聞かずにはいられないって、ただそれだけ。
なんてことを考えて歩いていたら、フザけた看板が目に入る。もうすぐバイト先。
小さなビルの階段を上がりながら、講師の名札をカバンから取り出した。
名札に映った私の名前は……「三春 風香」。
慈愛に生きる、孤高の女。なんてね。
「ドラマティックお疲れ様でーす。」
そう言いながらドアを開け、奥にあるタイムカードを押した。
「ドラマティック!えーっと。……まあ、ドラマティック授業準備よろしいくね。」
ふんぞり返った大男が塾長だ。生徒と両親からは、塾長の態度だけが悪いとの評判だ。
例に漏れず、この人も私の名前を覚えてない。
「ドラマティック。」
私はヘンな相槌を打ちながら、塾長に権能を使った。
本人の脳内に、直接語り掛ける権能を。
『……三春 風香よ。いい加減覚えて頂戴。』
「ところで、伊勢くんは見てない?」
「いえ。知りませんが?」
そう言って私は控室に入ると、その中のカーテンを閉め、仕事用のスーツに着替えた。
本当は知っている。健之助くんなら、ちょうどいま階段を上がっている。遅刻の心配はない。
私は控室を出て、彼が入ってくるのを見た。
汗ばんだ彼も、魅力的。
……いけない、私ったら。気を抜くと、表情が緩んでしまう。
「伊勢先生、ドラマティック~。」
「……ドラマティック。」
不愛想な挨拶。一瞬目を合わせては、すぐ逸らした。
まあ、無理もないわね。許してもらえるなんて、思ってない。
それで構わない。
塾長が、彼を呼び止める。
「伊勢くん、ドラマティック。ところで、今日夏期講習の予定が入ってた生徒さん……まだ来てないみたいなんだ。数学は伊勢先生の担当だよね?」
「あ、はい。」
塾長は名簿の上を指でなぞる。
「あ、彼だ。田代くん。ドラマティック成績いい子。」
「田代……雅樹くんですね。親御さんに連絡してみますか。」
「ありがとう。ドラマティックよろしく頼むよ。」
私は国語の教材をまとめながら、電話に聞き耳を立てた。
……田代 雅樹。
彼はきっと、邪神好みだ。
音の権能を得たあの日、邪神は私にこう言った。
「その権能で……強大な力で奪い取るのだ。」
邪神に私の思いなんてわかるはずない。でも、この言葉で邪神は私の「共犯者」になった。
共犯者として、邪神が彼を好むのは容易に想像がついた。
確信はないけど。
なんてことを考えていると、電話がつながったようだ。出たのは、田代くんのお母さま。
「もしもし。ドラマティック個別スクール、講師の伊勢です。田代様のお宅でしょうか。」
「はい、お世話になっております。連絡できず申し訳ありません。」
その声は、ひどくやつれていた。
「夏期講習の予定が入っていますが、雅樹さんは?」
涙をこらえるような声で、田代くんのお母さまは答えた。
「今日はお休みします……ウチの雅樹は、いま病院で……一昨日、大怪我して、それで……」
震える声。
「そうでしたか……お大事になさってください。それでは今日は……」
私は健之助くんに向かって、咄嗟に権能を使った。
『待って健之助くん、まだ切らないで!!嫌な予感がする!何があったのか聞き出して!お願い!』
健之助くんは、私を一瞥した。「邪魔するな」と言わんばかりの、冷たい視線。
……ちょっと、ゾクゾクした。
「あの、田代様。差支えなければ、どのような状況か教えていただけますか?」
流石、健之助くんはデキる男ね。
電話口では、せせり泣く声。
「一昨日の夜です。雅樹はいつものように、岬に行くと言って……それからは何があったか知りません。好きなようにさせてましたから。そしたら救急車で運ばれたって聞いたんです。幸い、命に別状はありません。」
「雅樹くんの命が助かったようで、なによりです。どのような症状か、わかりますか?」
人の事情に踏み込みすぎとは思えど、彼の権能ならそれができる。
田代くんのお母さまは語る。
「雅樹の担当の先生には、お話ししたほうがいいでしょうか。雅樹は崖から落ちて頭を打った、と病院では言われましたが……気になるところがあって。傷があるのは、背中なんです。」
「背中?」
「はい。しかも、石でぶつけたような、それでいて焼けたような跡。変だと思いませんか?」
「ええ、気になりますね。病院が誤診したということでしょうか?」
「いいえ、わかりません。脳に障害が残った、というのもあるかもしれませんが。」
「障害……?ええと、お母さまのことは、わかりますか?」
「それが、わからないみたいなんです。私が呼びかければ、応えはするんです。でも、何を言っても上の空で……」
「なるほど……」
「4年前に亡くなったその子の名前を、ずっと呼んでいるんです。よく遊んでた女の子。雅樹はもう……戻れないかもしれないって。お医者さんにも、そう言われました。」
「お辛いですね……」
「もう、雅樹は、人間じゃ……」
「……お母さま!!」
健之助くんが制止する。私も、それを言ってしまったらお仕舞いだと思った。
だけど、それが今の田代くんを取り巻く状況。
健之助くんの表情は、暗かった。そしてあれは、怒り。彼にはきっと、ことの顛末が見えている。
「お母さま。お時間いただき、ありがとうございます。雅樹くんにも、よろしくお伝えください。お母さまも、どうかご無理なさらぬようお願いします。」
「ええ。連絡できずすみません。それでは失礼します。」
「失礼します。」
電話の切れる音が聞こえ、健之助くんは受話器を置いた。
その表情のまま、塾長にこう言った。
「すみません塾長。田代くんの件で、どうしてもそちらに行かなければならないのです。」
「ちょっと待って伊勢くん。お母さまと電話したんだよね?なんて言ってた?」
「……病院にいて、しばらく治らないって言われました。」
「一介の塾講師、それも大学生に何ができるんだ?ああ?」
「ここに来るよう、お母さまから頼まれました。」
そんなのはここを出るための、適当な嘘だ。徐々に塾長の顔色が変わる。
「そういうのはやってねーだろ。お前授業あんだろ?」
「……欠勤ということにして、代わりに塾長にお願いできますか?」
「お前さあ!仕事ナメてんの?んなことまで俺にやらせんのかよ!」
「……それでも、行かなきゃいけないんです。」
埒が明かない!私は権能を使う。
『彼の命が掛かってるの!健之助くんを行かせて、お願い!!私が、数学と国語を同時に教えれば問題ないでしょ!?』
塾長は苛立ちに任せて、机に両の拳を叩きつけた。
「うるっせえなあ!!クソが!!」
この権能は、対象を塾長だけに絞ってある。静まり返った教室に怒鳴り声が響き、それを聞いた小さい女の子が怯えて泣き出す。
『お願い、健之助くん。あなたが行って。』
彼は私に親指を立てると、どさくさ紛れに外へ駆け出して行った。
仕事着のスーツのまま。
あらすじ: 図書館と公民館での一件の後、萌々奈への恨みを募らせるも、健之助への思いは変わらなかった風香。バイト先の塾で健之助に会うも、当然、ぎこちない空気が流れる。そんな中、塾生の田代 雅樹が来ていないということで、健之助と風香は、雅樹の母から事情を聞く。雅樹を救うべく、健之助はバイトを放り出して飛び出した。
tips: 混川が塾講バイトやってた頃のことを思い出しました。塾長によく怒られてましたが、すこし言い淀んだのが気に入らないという理由がほとんどでした。生徒には評判よかったのに、偉い人的には口下手だとムカつくんですかね。終業後1時間拘束されて怒られたこともありましたね。中身?そうなればただの人格否定ですよ。
補足: 風香の健之助に対する思いは、結構複雑なんです。矛盾や自己弁護に溢れている。それを言葉で表現するほど私は巧くないので、感じ取っていただければ嬉しいです(丸投げ)




