悦の権能 その1
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
2000年8月2日。
今日は、散々な一日だった。
あれから帰りのバスで、彼とは大したことは話せなかった。
……私のせいだ。
私が、いろいろとしくじったから。
部屋に入ると、黒くて小さい肩掛けバッグを放り投げ、ベッドに飛び込む。
張り切って着てきた白いショートスリーブシャツには、イヤな汗が滲む。着替えようにも、余りの疲労感にそのまま寝てしまいそう。
「ちょっと萌々奈!帰ってきてすぐ横になって!!お化粧くらい落としなさい!!」
階下では母、日下 奈緒美が呼ぶ。
「はーい。」
枕に顔をうずめて言う。勿論聞こえているはずもない。
「今日パパ帰り遅いんだって!もう夕飯食べちゃいましょ!」
ああ、お腹空いたな。
階段を下ると、出汁と醤油の甘い匂い。
とりあえず、化粧落としを借りて顔を洗った。
今日の晩御飯は、肉じゃがとご飯と、なめこのみそ汁と、あとはトマト。
席に着いた。
「いただきまーす。」
私は早速、肉じゃがに箸を付ける。豚こま肉と程よく煮崩れたじゃがいもが、私好みの甘じょっぱさに仕上がっていて……疲れた体に染みわたる。にんじんやインゲン豆も、かつお出汁の効いたスープとの相性抜群。
「あー。糸こんにゃく入れ忘れた!」
ママはそういうことをよくやる。この前肉じゃがを作ったときには、じゃがいもを入れ忘れたっけ。
私はじゃがいもを崩して、口に運ぶ。
「やっぱ萌々奈コンロさんがいてくれれば、料理しやすかったんだけどなー。」
「煮物なんて何時間かかるの、やだよ。」
「ふーん。」
豚こま肉を箸で摘んでご飯に載せてから、口に運ぶ。うまみたっぷりの脂が、熱々の白米によく絡んで……
「でさ、萌々奈。どうだったの?今日のデートは。」
「……へッ!?」
あ、ご飯粒が、気管に。
「げほ、げほっ!!」
……なんなの!?いきなり。
「……別に。デートとかじゃ……」
「そう?恥ずかしいとかなら構わないけど、あんたどうせ隠し事なんかできないでしょ。」
味噌汁を啜る。なんだか、今日は少し薄く感じた。
「その感じだと……あんまり、うまくいかなかったのね?」
コクリ、と小さく頷いた。
「……なるほど、ね。」
「楽しかった、のよね?」
「うん。」
「彼のこと、好き?」
「……うん。」
「……嫌われちゃった、なんて心配してる?」
「それは……うん。」
「なにやらかしたのか、教えてもらえる?」
私はママに話そうか、少し迷った。
でも私……健之助さんのこと、ちゃんと見れてない気がする。三春 風香の一件から……?
「私、彼にこの力を使ったの。」
ママは驚いた表情だ。
「怪我、させてない?」
「させてない。私、彼なら絶対大丈夫だと思ったから、いきなり。」
「信頼してるから……ってこと?それでも危ないことしちゃダメ!反省しなさい。それはそうと、その彼にも、そういう力があるの?どんなの?」
「えーっと、動きを予知したり、相手の考えを制限したり、なんか体の回復が早かったり。」
「うわ、ズルじゃん。」
「うん……でね、ちょっと揶揄うつもりが、びっくりさせちゃった。」
「大丈夫そうだけども……それはアンタが悪い。」
……はっきりそう言ってもらえて、なんだか安心した。
「その彼は、なんて?」
「『私の力は本物なんだから、そういうことはしない方がいい』って。」
「ごもっとも。まあ、愛想尽かされたってわけじゃなさそうね。」
そうなのかな?
胸の奥がキュウと締まる。食欲が沸かない。
「あと私……彼にひどいこと言っちゃった。『私の気持ちも、あなたの力のせいなの?』って。」
この時ばかりは、ママはしばらく黙っていた。らしくもなく、ゆっくりと口を開いた。
「あのね萌々奈。心を操る力だかなんだか……そんなのママは知らない。でもね……
アンタがアンタの気持ち、信じてあげないでどうするの?」
「私の、気持ち……?」
「ダメよ。アンタの気持ちなんだから、彼のせいにしちゃ。」
「……わかんないよ。」
温くなったトマトを1枚取ってかじると、少しだけ、頭が冴える気がした。
「どうして?」
嫌われたくない気持ちはある。
もしも彼に嫌われていたら……そう考えるだけで、呼吸が浅くなるから。
……私は本心で、彼のことが好きなの?
健之助さんの勇気が、私に権能をくれた日。彼は私の、奇跡になった。
彼がこんな戦いに巻き込まれることになったのも、私のせいだ。
私の権能が暴走するのを、命がけで止めてくれた日。彼は私の、ヒーローになった。
彼が首に負った火傷の痕も、私のせいだ。
感謝にも似た、負い目なのに。
嫌われたくない、それだけなのに。
私の脳は、愚かにもこれを「恋」と呼んだ。
わからない。でも、それ以上に……
「私、怖いの。私なんかに、人を簡単に殺せる力があって。
そのせいで、彼も瞬間移動の殺人犯に襲われた。音を操る、彼のストーカーにだって。
今だって彼の力は……邪神とかいうヤバい奴と、その仲間に目を付けられてる。
彼と一緒なら大丈夫、そう、思ったのに……!」
熱い何かがこみ上げて、声が途切れ途切れになる。
「彼との時間が、この街が……すごく、怖い。
彼が、消えて……しまうんじゃ、ないか、って。」
「えーと、ちょっと待って。殺人犯のところ以外初耳なんだけど……ママついていけてないや。まさか、人を殺したりしてないわよね?」
「大丈夫。殺してない……」
ママは前のめりに、わたしに念押しした。
「だけど!いくらその人を好きだろうと、そうじゃなかろうと!そんな危ないことには関わっちゃダメ!萌々奈の気持ちも大事かもだけど……ママには、萌々奈の命の方が大事!いい?」
「そう、だよね……でも。」
「でもぉ?」
なんでだろう。涙が……
「私、彼に、ちゃんと謝りたい。確かに、彼と一緒にいるのは、少し怖い。それでも……私の、気持ち、嘘じゃない、って。私のなんだって……ちゃんと、伝えたい!」
「……そうだね。よく言った。じゃあ明日、ダメなら明後日にでも。会って、直接言いなさい。ママも応援してるから!
勿論、危ないことになったらすぐ警察ね?……尤も、最近は警察にも手に負えないことばかりらしいけど。
その時は、ママもパパも力になるわ。」
ママはそう言ってインゲン豆を1つ口に運ぶ。
「……ねえママ?私って……自分勝手、かな?彼は、私のこと、嫌い……なんじゃないかな?」
「自分勝手、なんじゃない?彼のことは知らない。でも、いいこと教えてあげる。」
「……萌々奈はやっぱり、自慢の娘だよ。ママは鼻が高い。」
「なんで?」
「親以外にもすごく大事にされて、人を好きになって……でも不安になって、自分に嘘ついてみたりして。そういうのって、心が綺麗な人だけの特権でしょ?」
「綺麗……なの?」
「それにほら、うちのコンロだと思ったら、邪神?から世界を救っちゃうかもしれないし。」
「コンロはやめてって!……え?邪神?」
「萌々奈には、戦ってなんかほしくない。でも、信じてるんでしょ?彼のこと。」
「……うん。とりあえずは。」
「ママもね、パパや萌々奈と一緒なら、なんだってできる気がするの。萌々奈は優しい子だから、人殺しなんかしない。
それにその彼が、アンタの言う通りの人なら、絶対にアンタを護る。
……やるだけやってみなさい。危なくなったら、逃げちゃえばいい。」
「ママ……!」
「大丈夫、ママが魔法をかけてあげるから。言うなれば……『愛の権能』ってやつ?」
「……なにそれ。え、待っていま『権能』って。」
「フフッ、冗談よ冗談〜?」
「なにそれー!」
そもそも、なんでママが権能のことを?
……まあ、いっか。
私達母娘は、再び食事に戻る。
「ありがと。なんか、元気出た。」
「どういたしまして……って、ねえ萌々奈、あれ……」
ママは窓の外を指差す。海の方、北の方角だ。確か、3キロ先に岩茨岬がある。
遠くでは青い光の筋が、空に向かって無数に伸びる。
それは咲き乱れる花火のようで……
違う。花火なんかとは違う邪悪さが、この距離からでもわかる。
「……邪神?」
私が纏う熱気と同じ、邪悪な気配。でも、私のそれとは比べ物にならない。
邪神の権能……いったい、何?
「……ママね、やっぱり神流町は、おかしくなってると思うの。
萌々奈もそう思わない?この前だって、家の辺りが綿だらけになったと思ったら、死骸まみれになって。昨日はいきなり街中に爆音が響いたりとか。」
「……うん。」
「……萌々奈。無理だけは、しないでね。」
私、やっぱり彼の気持ちが知りたい。
逃げたっていい、そんなことわかってる。
でも、逃げたくない。私の気持ちからも、この街を覆う邪悪からも。
大事な人たちを、守るために。
自分が、死なないように。
……健之助さんが、死なないように!
……なめこのお味噌汁を啜ると、もう、ぬるくなっていた。
自力で温め直した。
あらすじ: アクアリウム神流での失敗を引きずる萌々奈。母、奈緒美の問いかけにより、健之助に対する絡まった思いが、一つ一つ紐解かれていく。
戦いに巻き込まれる萌々奈を心配する奈緒美であったが、萌々奈の健之助への思いを知り、背中を押すようになる。
神流町に迫る脅威。萌々奈は健之助と向き合い、またこの街で戦う決意をするのであった。
tips: 実は物語が全く動いてない回です。宙編その1の振り返りでもあり、今までの振り返りでもあり、萌々奈の行動の答え合わせになってます。
補足: 萌々奈が健之助を好きかどうかわからない、と悩むところがありますが、後半はなんか好きってことで話が進んでますね。……わかんなくないんですよね、本当は。




