刃の権能 その7
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
2000年8月2日。
私、日下 萌々奈は再び、エーデルワイスの綿に両手両足を拘束された。伊勢 健之助、宮島 瑠美もだ。
4体の熊だって倒した……勝てると思ったのに!
腕に絡みつく綿を、できる限りの熱で燃やす。
なんとか焼き切ることはできても、綿の切れ目からは素早く綿が伸び、再び私を拘束する。
しまった……これじゃ、あの時と同じじゃない!
その時だった。猫崎 唯はエーデルワイスの後ろに立ち、その首にナイフを突き立てていた。
お願い、唯……!
健之助さんも、綿に拘束された。
だから今は、あなたしか……!
その時、声が聞こえた。
「邪神様は来ない!猫崎 唯!」
外国訛りだが、とても流暢な日本語。
目を動かして、珍能像が囲う領域の外を見ると、背の高い男がいた。黒い7分袖のジャケットとスラックスを纏い、片耳に提げた翡翠のピアスがよく目立つ。
かっこいい顔立ち。そういうのに疎い私だって、素直にそう思った。
唯だって、そう思うはず。
瑠美は……案の定、あの男を見て締まりのない顔をしている。ダメそう。
「なんなのよ!!……どういうこと?」
唯はその男を見ると、刃を納めて言う。
エーデルワイスが、
「あ、建炫さん、来てたんですね。」
と言った。建炫と呼ばれたその男が応える。
「この場を用意したのは俺だ。4体のチンアナゴ像の中でなら、隠密に行動できる。やりやすかっただろう?」
「えーと、建炫さん?あれ、珍能像、じゃなくて?」
その、チンアナゴ……?像が囲う領域に、ようやく足を踏み入れた男は、やれやれといった様子で肩をすくめて言う。
「よく見ろエーデルワイス。珍能像ではない。
あれは……チンアナゴ像だっ!!
お前には違いがわからないのか?愚かなガキめ。」
一瞬の沈黙。建炫は再び言った。
「もう一度言う。チンアナゴ像だ。よく見てこい。」
「……はーい。チンアナゴ像、ですね。」
エーデルワイスは、背後にいる唯には目もくれず、軽い足取りでレジを離れる。そして、チンアナゴ像の1つに駆け寄った。
えーっと、この状況で……?
……多分、ここにいる全員が同じことを思った。
どーーでもいいわそんなこと!!!!!!
馬鹿なの!?何やってんの!?
それマジでどうでもよくない?
唯だって、ポカンとしてないでなんか言いなさいよ!!
「ちょっと!待ちなさい!」
唯の声が聞こえた。
……そうそう!話を戻して!今チンアナゴどうでもいいから!
「エーデルワイス!あなた、建炫さんの仲間なのに、これがチンアナゴだって気づかなかったの!?」
……ええ!?アイツ状況見えてないの!?それとも空気読んだの!?ねえ!
そう言い終わると、唯が両手から鉤爪を出し、エーデルワイスを斬りつけようとする。
「……!」
……よかった。唯はこの馬鹿みたいな状況でも、やるべきことを見失ってない!
長い鉤爪が鈍い光を帯び、大振り、それでいて滑らかな筋を描いた。
……しかし、建炫が人差し指をくるりと回すと、その瞬間だった。
唯の鉤爪だけが、空中で静止して動かなくなった。
その時、チンアナゴ像?の1つが、少し光っているようにも見えた。
「どう……して??それが……アンタの、権能なの?」
唯の言葉は、少しずつ芯がブレていくようだった。
……遠目からでもわかる。あの男は、今まで会った誰よりも、天才。そして、熟練。圧倒的な権能者であると。
「俺の権能は、権能を操る権能……とでも言うべきだろうか。種明かしなどはしないがな。」
権能を操る権能?
そんなの……あまりにもズルすぎる!
唯の攻撃を免れたエーデルワイスは、チンアナゴ像をジロジロと見ていた。
ちょこん、としゃがみ込んで言う。
「あ。ほんとだ!チンアナゴだ……かわいい。」
……わかるの遅くない?
「そういえば、名乗っていなかったな。俺は呉 建炫。そして、アイツはエーデルワイス。戸籍名を呉 雪瑤という。日下 萌々奈……お前は、確か知り合いだったな。」
「会ったのは、3日前……だったかしら。」
「どうでもいい。俺はその男に用があるからな。」
……どうでもいいのかよ。
健之助さんの方を向き直して、男は言った。
「そいつが、『奇跡』だろう?名は、何というのだ。」
「嫌だ、と言ったら?」
そう私が答えると、男は、私を鋭く見つめた。これは……忠誠と、決意の目にも思えた。
「イヤダという名だろうとなんだろうと、邪神様の脅威ならば除かねばならない。」
すると、チンアナゴ像を眺めていたエーデルワイスが、小さく呟く。
「……伊勢 健之助。」
「……そうか。ではその伊勢 健之助とやら。」
呉 建炫は、健之助さんの方を見つめながら、近づいていった。
健之助さんはというと……ただ遠くを見つめていた。大丈夫、なのかな?
……いや、彼のことだ、何か考えがあるに違いない。
「おい、健之助。何があった。」
呉 建炫が顔を覗き込むと、健之助さんはようやく口を開いた。
「チ……チンアナゴ……なぜ……なぜ、チンアナゴなんだ!!」
……うわあ、もうおしまいだあ!!大丈夫じゃなかった!もれなく馬鹿だった!さっきまでカッコいいとか思ってたの返せ!!
「なるほど……お前、見込みのある男だ。いいだろう!」
……見込みあるの?
「ここのチンアナゴ……珍能像とは、何が違うんだ?」
健之助さんは綿に縛られたまま、真剣な顔つきでくだらないことを尋ねた。
呉 建炫が恍惚とした表情で答える。
「何も。何も違わないさ。ただし!崇高な芸術というものは、意味を、空間を映し出す!!
……健之助よ、わかるか。」
「……ああ。」
「珍能像が映し出すは、人間のくだらない欲と、邪神様の力。そして創られる異様な空間と、新しい時だ。まさに、芸術。真の芸術である珍能像……その全ての造形に意味が、世界観が、邪神様の……想いが、宿る。」
「それが、あの形であると?」
「そうだ。邪神様も俺も、フザけたことなど一度もない。現に珍能像は……権能に相応しい者を選別するための、異空間を創っている。まさに芸術が至る……高みなのだ。」
「そうなのか……では、チンアナゴ像は?」
……これだ。これが健之助さんの狙い。
「あれもまた芸術だ。水族館にあって、まるでその砂底のように静かなこの戦場を支える……良き意匠だろう、健之助よ。」
「なるほど……!それを僕に、見せてくれないか?」
「……勿論だ!近くで見ろ。」
呉 建炫は人差し指をパチン、と鳴らすと、健之助さんを縛る綿を霧散させた。
……やった!
「建炫さん、何を……?」
エーデルワイスが問いかけた。すると、その男はこう答えた。
「ただの芸術談義だ。なに、もうすぐこの男の力が見える。エーデルワイス、目を離すなよ。……それで、その瞬間で十分だ。」
……ようやく理解した。健之助さんは、芸術家としての 呉 建炫を突き動かしたんだ。
その時。呉 建炫は、綿の拘束から放たれた健之助さんの耳元で囁く。
「……さあ、使うがいい。
その『奇跡』を。
理を……覆す力を!」
そして、空気の流れ。これは紛れもなく……健之助さんの、「奇跡」だ。
不思議な感覚。神秘的、とでもいうような感覚。
……そしていま、男はこう言って、再び指を鳴らした。
「……それが、その権能の流れか!」
大きな刃と共に空中に固定されていた、猫崎 唯も解放された。
「……エーデルワイス、撤収だ。我々の目的は達成された。」
「帰るんですか?私は別にいいですけど……」
私と瑠美を覆っていた、綿の拘束が解かれる。床を覆い尽くしていた綿は、エーデルワイスの身体へと吸い寄せられていった。
「伊勢 健之助……。邪神様が完全であるためにも、今消していい相手ではない。」
「へえ、なるほど。」
そこで健之助さんが尋ねる。
「ところで、ここの片付けはどうするんだ?」
あんなことの後に気にすることじゃないと思うけど、もっともだ。……私は、彼のこういうところも好き。
呉 建炫が言った。
「そうだな。この件は、一時休戦とさせてくれないか。俺とエーデルワイスが迷惑をかけた。ここは非礼を詫びると共に、皆にも現状復帰を手伝ってはもらえないだろうか。」
私達6人は、散乱したお土産ショップの復旧作業に当たることになった。
……なんで?
お土産ショップ内での戦闘を隠密に行うための領域。エーデルワイスの権能に捕らわれた一行の前には、邪神の腹心、呉 建炫が現れる。
曰く、その像は珍能像ではなくチンアナゴ像だという。そんなことは、萌々奈にとっては心底どうでもよかった。
しかし、そこに目をつけた健之助は、建炫の「権能を操る権能」で綿の拘束を解き、奇跡の権能によって休戦へと持ち込む。
その場に居合わせた全員、ノーサイドで復旧作業をすることになった。
健之助が解放されるまでの流れについて補足です。
健之助の権能 (ダジャレじゃないよ)には、萌々奈のような「最大出力は掌じゃないと出せない」というルールはありません。しかし、この話の序盤で、エーデルワイスにも建炫にも、健之助を解放するという発想はなかったので、解放させるための権能は使えませんでした。
ですが、チンアナゴ像にまつわる談義を経て、「解放してもいいかな」と建炫が思い始めます。そうなったらこっちのもんです。
エーデルワイスは、奇跡の権能がなくともやめろと言われればやめる性格です。
結果として、健之助たちは解放されます。
一方、奇跡の権能を体験したことで、健之助の情報を集めるという邪神チームの目的は達成されたので、どちらかと言うと襲撃を仕掛けたそっち側の勝利です。
すいませんでした、普段はその6で終わるはずが、その7まで来てしまいました。ご安心ください、その8までいきます。




