刃の権能 その1
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
独り、クラゲの水槽を眺めていた。
水中に漂っては、膨らんだり、縮んだりしている。
海の月……そんな言葉が似合うような、上品な静けさ。
あたしには、そんなものはない。
真っ白で、ファンタジーのお姫様みたいだ。
ふわふわで、煌びやかな可愛らしさ。
あたしには、そんなものはない。
どんなことを考えているのかな。なにも考えていなかったりして。
水流に逆らっては、変わらずとどまっている強さ。
あたしには、そんなものはない。
種類とかは詳しくないけど……クラゲを眺めているのが好きなんだ。
いつだって、あたしはないものねだりだ。
……好き、なんだよね?
2000年8月2日。
猫崎 唯は一人、アクアリウム神流にいた。
夏休みというだけあって、ガキンチョの声がうるさいけれど。そんなことは関係ない。
大きい水槽の前で、ぼんやりと突っ立っていると、イワシの群れが私の前を通り過ぎる。
その大きな群れは、一匹のエイがひらひらとやってくると、その通り道を作るようにいとも簡単に散らされていった。
強大な力。自然界では、体の大きさが物をいう。いたってシンプルだ。
人間はどう……?いや、あたしにはそういう難しいことはわからない。やめておこう。
上を見上げる。水面には光が揺らめいていて、そこから餌の塊が投下されるのが見えた。
「なんか……薄暗くて素敵ですよね!えへへ……」
まさか……
ガキンチョが騒がしい中でも聞き分けられる。この無性に腹立たしい声。なんだよ「薄暗くて素敵」って。バカか?
「そ、そうですよね……萌々奈さんは、あの、こういう場所、す、好き、ですか?」
以前よりも、その男の声は緊張しているようだ。アイツは確か……
やはり!憎き日下 萌々奈と、謎の男伊勢 健之助……!!クソ!なんでよりによってあいつらなのよ!最悪!!
「はい!好き……です!」
好きです、じゃねーよ。あたしはアンタが何よりも嫌いだよ!なんでか知らないけど!
……あれ?ちょっと待って?なんか、前病室で会った時より、ぎこちなくない?もう2週間は経ってると思うけど。
ははーん、さては、アイツら、デキてるな。いや、さしずめ初デートってところね。
この処女と童貞特有のぎこちなさでわかる。面白そうだし、尾行してみるか。
あ!こっちに向かってくる!隠れなきゃ!
……アイツらには、あたしは借りがある。
7月半ばごろの話だった。「猫崎 唯が万引きしていた」という根も葉もないデマが広まったのが事の発端だった。
あたしは素行のいい生徒じゃない。年上の元カレとこっそり酒を飲んだことだってあるし、出席日数だってほぼ足りてない。留年がある高校だから、たぶん、来年も女子高生だ。
でも、やってもいないことで貶されるのだけは耐えられなかった。どうしようもないあたしにだって、プライドがあるから。
だからあたしは、日下 萌々奈を無実の罪で徹底的に追いつめてしまった。
本当にそのデマを言いふらしたのは、隣のクラスの横俵 優子ってヤツとその取り巻き。あたしはそいつのことをよく知らなかった。横俵には、あたしと違って人望があった。
だから、罪をなすりつけるのにちょうどいい、あたしに罪を擦り付けることだって簡単だったんだ。
柱の陰に隠れて、あたしは水槽の前の二人を見ていた。初々しいカップルみたいで、ますます癪に障った。
萌々奈は、少し後ろから伊勢さんの手に触れようとしては、引っ込める。
……何ビビってんのよ、バカ!
「何か、見たいの……ある?」
しょうもない質問。まあ、何もないよりはマシね。萌々奈は当たりを見まわして答える。
「……クラゲ、見たい。」
そうね。今、目の前にクラゲの水槽があるからね。この女、多分何も考えてないな。
二人はクラゲの水槽前に来た。あれは、シロクラゲだ。
「ふふ、見て、健之助さん。あのクラゲ、可愛い、ですよね……」
萌々奈は水槽を指さしては、伊勢さんの方を見た。
「そ、そうだね。結構強い毒があるみたいだから、気を付けないといけないね。」
今の返答はダメ。「可愛い」って言われたんだから、「可愛いね」から話を拡げなさいよ!
「えへへ、そう、だよね。」
……ほら、気まずい感じになった。
そんな雰囲気のまま、二人はクラゲの水槽を後にする。大丈夫かなあ。
「あ、そうだ萌々奈さん。」
その男が振り返る。
彼をぼんやりと見上げていた萌々奈は、目を逸らしてはうつむいて赤面している。
そんな萌々奈の反応を見て、伊勢さんはたじろいでいた。それはそうだ。こんな乙女チックな反応、普通の男にはどうリアクションしていいかわかるわけもない。
「ええと、もしかして、喉が渇いた……?」
違うだろ!これはそういうんじゃない!ああもう、じれったいな。
いや、そもそも、女の子の反応を気にするってだけでも上出来ね。少なくとも冷田 篤志よりはマシ……いけない、忘れようと思ってたのに、あんな奴。
自販機前に行った。ジュース代を女の子に出させるケチ男じゃないみたいね。さて、萌々奈は何を選ぶの……?
あれは……ペットボトル入りのコーヒー!?萌々奈……やっぱりバカだ!
こういう時に一番値段の高いソレを選ぶのって違くない?ちょっとは遠慮しときなさいよ!
それに、ほら!この後ここを出て夕陽を背に抱きあって……みたいなのあるのに、その時コーヒーの臭いしたら絶対萎える!
……あ、伊勢さんも何か飲むのね。お、同じのだ。なるほどね、ナイスフォロー……なのかな?
ペットボトル入りコーヒーを飲んで休憩する二人。
……なんか喋りなさいよ!!ほら、萌々奈!!もじもじしてないでなんか言え!
背後では、大きいマンボウがじっとこちらを見ていた。そうだよね、気になるよね。
「ねえ、健之助さん。今日は、ありがとう。」
萌々奈が笑いかける。クソ……屈託のない笑顔が眩しい。一瞬可愛いと思ってしまった。本当にムカつく!
「あ、ああ……」
お、伊勢さんが顔を赤くして、そっぽを向いた。……効いてるぞ!
「そろそろ、イルカショーの時間だ、早めに行こうか。」
腕時計を見て席を立つと、二人は外へと向かっていった。もちろん尾行する。
「人、多いですね……」
「うん。でも早めに行けば、前の方に座れるはずだよ。」
デキる男だ。人混みではぐれないように手を引いて、ちゃんと最前列を取った。
……ん?手を引いて……?あのバカ女は……
どんな反応しているのか気になった。
なんか変な顔してる!キモい!嬉しいのか恥ずかしいのか緊張してるのか、一周回って無の境地だ……!しっかりしろ!
やけに積極的だと思ったのに、やっぱりアイツはバカだ。こういう時こそしっかり甘えろよ!
そんなこんなでイルカショーが始まった。けれど、4列後ろに陣取ったアタシは、イルカなんか見ていなかった。
……こういう時にちょっと寄りかかって、ドキドキさせたりとかするんだけどな。
二人とも、ヘンに距離取ってるせいで互いの隣にいる家族連れとの方が近くなってる。
前方では2頭のイルカが高く飛び上がった。そして、水しぶきが上がる。
その瞬間。あの男……萌々奈の頭上、視線は遮らないように、パンフレットを取り出して水しぶきから守った。
……え、素直にすごいな。確かに、萌々奈は濡れたら大変そうな恰好をしている。ナイス!
ほら、バカ萌々奈がうっとりした表情で見てるぞ!どう返す男伊勢!
……目を逸らすなよ!そこは「君の美しい髪が濡れると大変だから……」とかキザなこと言えよ!
ああ、もうじれったい!
その時、ある女の声が左隣から聞こえた。
「もしかしてあなた、隣のクラスの……」
「……!!」
「猫崎 唯さんね。やっぱり、気になるよね?私もそう。イルカショーなんか、見てないわ。」
こいつ、確か……ええっと……。
あの後、水族館にデート?をしに来た健之助と萌々奈。偶然居合わせた猫崎 唯は、なかなか距離が縮まらない二人を苛立ちながらも見守る。そんな時、唯は二人を尾行するもう一人の人物に声を掛けられる。果たしてこの人物は……?
猫崎唯、久々の登場です。謎の人物、皆さんだいたい察しがついていると思います。




