音の権能 その2
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
「……それが、あなたの力だから?」
この湿った空気に溶けるような声が、僕、伊勢 健之助の脳内を幾度となく反射した。
……「奇跡」?「力」?
……三春 風香は、僕のことをどこまで知っている?
彼女は悪戯っぽく、僕の顔を覗き込んだ。その潤んだ瞳には、月の光が冷たく宿る。
「ふふ……なんで知ってるんだ、みたいな顔してるね。」
僕は息を飲んでは、視線を逸らす。
「え……」
「無理に答えなくてもいいの。私ね、あなたのこと……あなたが思ってるより、たくさん知ってるのよ?」
僕は三春さんのことを、特段気にも留めていなかった。
そんな彼女が、僕をじわじわと追い詰める。
僕は三春 風香のこと、今までちゃんと知ろうとしていたのか……?
知られているということと、知らないということの非対称性が僕の心に重くのしかかった。
「私ね。知ってるんだ。健之助くんのことならなんでも……考えてることだってわかるのよ。
今だって……私のことを「怖い」と思った以上に、私の気持ちに気づかなかったこと……申し訳なく思ってるんでしょ?」
細い人さし指が、僕の頬に触れていた。
……そのまま、首筋、肩、胸、腰へと、柔らかく指を滑らせる。
まるで……砂漠の中心で、蠍にでも刺されるような気分だった。耳元で囁く声が、脳の奥底で痺れとなって伝わる。
「……あなたはね、そういう人。私には、それがたまらなく愛おしい。」
……僕はこの女に、どこまで握られているんだ?
ごくり、と唾を飲む音が体を駆け巡る。
「あなたの音……唾を飲む音まで、聞こえるの。あなたは……なにも、答えなくていい。」
体が硬直する。僕はなぜ、これほどまでに追い込まれている?
蠱惑的な微笑みから、僕は目を逸らすこともできなかった。
瞳が、艶かしく光る。紅潮した頬が近づいて、その胸からは確かな鼓動。
「ふふっ。胸の鼓動。私の?あなたの?」
「……!」
「……大丈夫。私、あなたのどんな音も……愛してるから。」
甘くて熱い吐息を感じると、至近距離で目が合った。
夜の10時。この辺りには人通りが全くない。
「ねえ、私を……見て……?」
不可抗力だ。
だが、僕の意識は彼女を見ていなかった。
……そして、なぜだろう。日下 萌々奈の顔を思い浮かべていた。
再び三春 風香の目を見ると、大粒の涙が浮かんでいた。
「私ね。あなたのこと知ってるから……本当は、あなたが私のものにならないことだって……」
僕の口からは、
「ああ。」
という、気のない返事。きっと何も、してやれることはないから。
「そう、だよね……私、それなのに、こんなにも、あなたの、こと……!」
一瞬の沈黙に、僕は成す術なく立っていた。
「ねえ、今だけ。……私を、赦して…。」
……僕の唇に、三春 風香の唇が重なっていた。
それが事実として残った。
僕にとっては、それだけだった。
「ごめんね。でも、もしよかったら……明日……」
「ふざけるなっ!!」
僕の権能ではなく、僕自身の言葉だった。
「……うん。それでも私、健之助くんと、ずっと。」
そう言って彼女は肩を小刻みに震わせて、暗闇に消えていった。
「……さよなら。」
こうして、僕の長い一日は終わった。
2000年7月30日。
家に帰った私、日下 萌々奈は、胃薬を飲んで寝ていた。
目が覚めると、外には眩しいほどの月が出ていた。
……そろそろ、健之助さんに電話でもしてみようかな。
なんて考えていたら、着信が来た。友人の宮島 瑠美からだった。
「はい、こんばんは、瑠美。」
どこか物悲しく、落ち込んだ雰囲気だった。
「もしもし 萌々奈?いま、ちょっといい?話したいことがあって。」
「うん。私で良かったら、何でも聞かせて。」
「あのね、今日、うちのラッセルが……」
瑠美の家の大きな犬だ。先月くらいに見かけたときは、もうヨボヨボだった。ひょっとして……
電話口では、すすり上げるように泣く声が聞こえた。
「ひぐっ、ラッセルが……ううう。」
「ずっと、一緒だったんだもんね。」
「それでね、今日、ラッセルが……ね……」
瑠美の声はとても苦しそうだった。無理もない。
「大丈夫だよ、無理に話そうとしなくていい。私ちゃんと聞くからさ、ゆっくりでいいよ。」
「ありがとう。ぐすっ。」
「ラッセル、一昨日ね、行方不明だったんだけど……今日、いたの。」
「見つかった、ってこと?」
そもそも、ずっと瑠美や瑠美のご両親と一緒にいたはずなのに、行方不明になるとは考え難い。
「ラッセルはね、化け物に……!」
「……!」
化け物?健之助さんが遭遇したという、キメラやゾンビ……?
「ねえ瑠美、それって……死体の……」
「そう。今日ニュースにもなってた、死体の化け物。ラッセルはね、その化け物に……」
「殺された……?」
「……ううん、取り込まれてたの。」
取り込む?そういう権能なの!?
こんな時に変かもしれないけど、私は彼のことがすごく気になった。
「あのさ……男の人、いなかった?伊勢 健之助っていう人。」
「うん、いたよ?もしかして、あれが萌々奈が前に話してた……?」
きょとん、とした様子だった。
「そうだけど、健之助さんは、どうだった?」
「萌々奈が言ってた通り、カッコよかったよ。あの怪物相手に戦ってたし、ラッセルを化け物に取り込んだ張本人は、彼が倒したんだよ。」
「私そんなこと言ったっけ?……とにかく、無事なのね。良かった。」
「言ってたよ!『チンチン像前でも、駐車場跡でも、彼が身を挺して守ってくれたの~』って!それが、その人なのね!」
……だいぶ盛ってる。というか私そんなこと言ってないから!
「違う!言ってない!そういう印象を持つかもしれないけど。」
やば、恥ずかしい。耳の上まで赤くなるのを感じる。
私、なんでこんなに……たかが瑠美の戯言でしょ!……たかがってのも可哀想だけど。
「やっぱり、すごい人だよ。彼のおかげで……ラッセルも。」
「そうでしょ……じゃなかった。そうなんだ。」
彼はただ者じゃない。どんな「奇跡」を起こしたというの?
「ラッセルはね、化け物にされちゃったけど、必死に戦ってたんだ。最期に、私たちのラッセルでありたいって。私、それがすごく嬉しかった。」
瑠美の声は、なんだか晴れやかになった気がした。
「……そっか、ラッセルとして、ちゃんと、逝ったんだね。」
「そうなんだよ。伊勢 健之助さんが必死に化け物と戦ってくれて、ラッセルも化け物の中で戦ってくれたから。」
私たちは、ふふ、と小さく笑った。
「萌々奈があの人のこと好きになっちゃうの、なんかわかる気がするなあ。だって、その化け物の能力者?から、その力を取り上げちゃうんだよ?すごすぎるよ。」
ん?聞き捨てならないな。
「ちょっと瑠美、それもう一回言ってくれない?」
「『化け物の能力者から、力を取り上げちゃう』のこと?」
……「力を取り上げる」って?一体どういう意味!?
。
「訳わかんないよね、それ。……で、その前にはなんて言ったのよ?ええ?」
「『萌々奈があの人のこと好きになっちゃう』のも、わかる」
違う……とも言いたくないけど、絶対そういうのじゃない。
「なによ!なんなのよ!それ!好きだとかそういうのになるのは違くない?あまりに短絡的というか、そういう発想に至るのが瑠美チャンくらいですが??てかなに?『わかる』ってなに!?どうせあんたにはわからないですー!」
「マアマア、落ち着イテクダサイヨ萌々奈サン。」
「なぜ片言だし。」
「いや彼ね、結構モテるらしいんですよ。今日の一件のとき、誰か彼のことを見てるみたいだったというか……ものすごく綺麗なのに、何故か空気の薄い人。」
「瑠美、ありがと。もういいから。」
「いいの?それ以上知ってることも別にないけど。」
「あー、ごめん、私眠くなっちゃったしまた今度でいい……?」
「そうだね、今日はありがとう、おやすみ。」
「はーい、おやすみなさーい。」
半ば強引な流れで通話を切った。
……ものすごく……綺麗だって??????
私が、一目見ておかなきゃ。場合によっては……
アルバイトからの帰り道、健之助は風香に唇を奪われる。キャー!
一方萌々奈は、ラッセルを喪った悲しみに暮れる瑠美から健之助を尾ける人物の存在を聞き、居ても立っても居られないのであった。キャー!




