屍の権能 その6
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
僕、伊勢 健之助は、遠くにベルゼブブが現れたのを見た。
あのデッキブラシを置いてきたから、嗅覚で追跡されることはないと思っていた。
不気味なエンジン音が響き渡る。
……いや、僕はなんてバカなんだ!
僕はベルゼブブと相対するとき、常にそれを持っていた。僕の汗の臭いと、そのデッキブラシの臭いを合わせて僕の臭いとして認識されていた。
デッキブラシとエリーは同じ臭いだ。つまり、今隣にいるエリーそのものと僕の汗の臭いが合わさっても、それは僕の臭いだ。
こんなに簡単なことを見落としていたなんて!
遠くのベルゼブブは身を屈めた。背中のエンジン音はより一層重みを増し、緊張が走る。
来る。
「いい子だ!ベルゼブブ!!この男を殺してしまえ!!」
鬼怒川 真悟がそう言うと、巨体は一直線に迫ってきた。左足をぐっと踏み込んで、僕に向かって左の腕を振り下ろす。
素早い動きだが、見える。宮島さんをかばって、右後ろに避けた。
「ワン!ワンワン!」
攻撃を躱されて苛立っているような鳴き声だった。
「……ラッセル?やっぱりラッセルなの?」
突進の構えをしていたその獣は、ぴたりと動きを止めた。
「ねえ、ラッセル……?そこにいるの?私だよ、瑠美だよ?」
3つの猪の頭が、一人の女の子をじっと眺めていた。その背中のエンジンは静まった。
「ラッセルだぁ?ふざけるんじゃない!私の最高傑作、ベルゼブブだ!おい!聞いているのかベルゼブブ!!」
怒りに悶える鬼怒川をよそに、宮島さんはベルゼブブ……いや、ラッセルに涙を流して語り掛ける。
「私ね、ラッセルがもう死んじったんじゃないかって、毎日すごく怖かった。それでね、2日ぶりに遭ったら、声も、若返って、しかもこんなに、逞しく、なったみたいで。なんだかね、少し嬉しかったの……」
「そうだろう!これほどまでに逞しい命だ!!素晴らしいだろう!」
「黙れ!」
僕は口を挟んだ鬼怒川を静止し、両手をその額に当てた。が、やめた。彼女は嗚咽をこらえて続ける。
「でもね、ラッセル、あなた……苦しかったんじゃ、ない?私、わかる、の。」
「くぅーん。」
彼女は肩を震わせ、イノシシの顔に手を当てる。
「こんな、ラッセル……私、つらい。ねえ、ラッセルは、どうだった?」
「ワンワン!ワン!」
「そうだよね……そう、だよね。」
宮島さんは流れる涙を拭って、立ち尽くした。怪物は彼女に寄り添って、両腕で抱きしめた。
「うう、う、ごめんね、ラッセル。私、ダメだね。ごめんね……」
中央のイノシシが、彼女の顔をペロペロと舐めた。
「ははは、やめ、て、ラッセル。いまのあなた、くさい……」
彼女は笑った。
「ねえ、おととい、何が、あったの。ごめ、んね、私、わからないの。」
のっそのっそと向きを変えた怪物は、僕の足元のエリーを見て、しきりに吠えだした。
「その、猫が、どうかしたの?ねえ、ラッセル?でも、その子もね、きっと……」
怪物は少女の手に触れられ、また静かになった。
「よーしよし。よーし、よし。偉いね、許して、あげるんだね。」
彼女はまた大粒の涙を流す。
「……じゃあ、ラッセルに、ひどいことしたのは、誰?」
……宮島さんの声色が変わった。ラッセルは、鬼怒川 真悟の方を向く。背中のエンジンが駆動した。
「……許しちゃダメだよ。ラッセル。」
まずい!
「待て!ベルゼ……ラッセル!老いぼれのお前に命を与えたのは私だ!待……ぐあああああ!!!!!」
巨体から繰り出される頭突きが、生身の男に命中した。
「あなたが!ラッセルを殺したんでしょう!」
「いいや!私が……手を、下さなくても……死んでいた!生きるのも……辛かった、はずだ!だが!こんなにも、生きてる!喜ばしいじゃ、ないか!」
「違う。違う!!こんなの。ラッセルは、もう……」
怪物は男にとどめを刺そうとしたが、宮島さんの方を向いて止まった。
「もう、いいの。ラッセル。ありがとう、ね。私、ラッセルの、こと、大好き、だよ。最後まで、ダメな、飼い主、だった、よね……もう、いいの。」
宮島さんはラッセルに駆け寄り、再び目には涙。
その涙に触れると、ベルゼブブの肉体が、温かい光で少しずつ朽ちていくのを見た。
「馬鹿な!私の権能を解けるのは私だけだ!なぜ!」
僕にはわかった。
「……意思だ。」
これは想像だが、ラッセルが殺されてベルゼブブに取り込まれた日、そこにいたエリーの臭いを、ラッセルは死んでもなお記憶していた。
ラッセルは既に……腐臭の記憶とともに、自分の命が終わっていたことを知っていたのだろう。
だから、宮島さんと再び出会えた今、現実を受け入れて自壊することを選んだ。
「うわあ、わ、わあああ、ラッセル…………!ひぐっ、うぐっ、うああああああ!!!!!!!わあああああああん!!!!」
「私は……ベルゼブブは……終わったのか。……エリー、私のとこにおいで。」
「もう終わりだ。感動的な権能だった。だが……」
僕は、天を仰ぐその男の額に、両手を当てた。
僕の足元にいたエリーは、ようやく鬼怒川の近くへと歩み寄っては、その手に頬ずりした。
「エリー、やっと……来てくれた。こうするのも、あの日以来だね……」
そして、大粒の涙を流すその男に寄り添って、エリーは静かに眠った。
「本当に、すまなかった……私のせいで!君は……!」
エリーの体からは、もう血液が流れ出していなかった。
私、鬼怒川 真悟は、エリーに出会った日のことを思い出していた。
勤めている動物愛護センター「かんながわんにゃんライフセンター」の職員と保健所の職員が、異臭がすると通報のあった家に向かった。
そこには5匹の親猫と、8匹の子猫。そして、5匹の子猫の亡骸があった。そこが猫たちにとって最も過酷な環境だったことは、想像に難くなかった。
私は勤めていた動物愛護センターに送られてきた猫たちの、メディカルチェックと去勢手術を担当した。
幸い、栄養失調を除いて問題は見られなかったが、エリーと名付けられた一匹の子猫は、生まれつき足が悪かった。それでも、その子は私の顔を見ては、嬉しそうに這い寄って、手に頬ずりするほど、何故か私に懐いてくれた。
それから1年が過ぎ、保健所からの通達があった。
殺処分。獣医である私に振り分けられた仕事だ。
対象は、あの日届けられた2匹の親猫と、1匹の子猫だ。3匹の親猫は既に他界し、他の7匹の子猫には引き取り手が見つかっていた。
そんな折だった。
リン、ダイ、そしてエリーはここに来てから、元気に暮らしていた。リンとダイは人間を憎んでいたが、愛護センターで育ったエリーは、私にもよく懐いた。
エリーは自分の最期であるとは知らず、まともに動かない脚で這っては、いつものように私の手に頬ずりした。
それでも躊躇いは、なかった。私はその手を引っ込めた。
ただ猫たちを……
私が、やるしかなかったんだ。
……その日の夜も、私は眠れなかった。
足の悪いエリーだったが、懸命に這っては、ミルクを欲しがって元気に鳴いていた。飛び跳ねることはできなくても、楽しそうにオモチャで遊んでいた。
そんなことを思いながら外に出ると、吸い寄せられるようにあの像の前にいた。
なぜ彼らは、生きられないのに生まれたんだ……?
なぜ私は、救いたかったのに、殺したんだ……?
これは私の罪だ。人の傲慢によって生まれた命を、人が奪う。その逃れられない罪を、私が背負ってきた。
せめて、蘇らせる力があれば……そんなのは、ただの気の迷いだ。
「気の迷いではない。可能だ。」
その像の内側から、声が聞こえた。男とも、女ともつかない声だ。私は像に触れてみた。
「お前は人間の罪を背負ってきた。我が罪なる力で、贖うがよい。」
「願いは聞かれた。邪神が権能を、神に代わって授けん。」
その時、ヒトのソレを象ったその像には、交差する二重螺旋と、彼岸花のシンボルが浮かび上がった。その印を見て、私の権能とやらが、死者の合成だということを理解した。
すぐに車で愛護センターに向かい、猫たちの死体を運び出した。
ただ権能を使うだけでなく、何かと合成する必要がある。
私は建物の外で、ゴミを漁るハクビシンをよそに、なぜか鶏頭と魚の背びれを拾っていた。
それらをエリーにつけると、エリーは再び動き出した。息はしていなかったが。
嬉しかった。また私の顔を見て、可愛く鳴く様子が愛おしかった。
……なんとなく、違和感を感じていた。
だが、脚が悪くて動けないのは相変わらずだった。そこで私は再び外に出ると、少しの躊躇いは合ったものの、ゴミを漁っていたハクビシンを棒で打って殺し、その脚をエリーに接合した。
肉体の接合は不慣れだった。どうにもうまくできず、血が無尽蔵にあふれ出してくる。それでも、慣れない足取りでゆっくりと歩き出すエリーを見て、私は命の素晴らしさを感じた。
これが……「屍」、いや、命の権能だと。
しかし、エリーは私の側にいなかった。私に近寄らなくなったのだ。
いや、今思えば、歩けるようになったからでも、コインランドリーと、そこに転がった古いデッキブラシがお気に入りだからでもない。
私から、死臭がしたからだ。
私ははじめから、命を操ってなどいなかった。ただ屍をこねくり回しては、悦に浸っていただけに過ぎない。
すまない、エリー。すまない、みんな……
私は、気づくのが遅すぎた……
僕、伊勢 健之助は、相手の権能を一定時間停止させる権能を手に入れた。もって30分か。
「あの、伊勢さん!本当に、ありがとう、ございました……うちのラッセルも、ようやく逝けました……」
「いえ、僕の方こそ。ありがとうございます、宮島さん。」
すぐに警察が来て、鬼怒川 真悟は死体損壊等罪、動物愛護法違反の疑いで連行された。
パトカーに向かう鬼怒川は僕に言った。
「どうか片隅に生まれた、奇跡に選ばれなかった命を……忘れないではくれないか。」
誰にも知られず、ただ黙々と命に向き合ってきた男の背中だった。……権能さえ、なければ。
命あるものは、必ず消える。
遠くの国で。この町の片隅で。目の前で。
ならば、せめて全ての命が、尊厳をもって終われるように。
僕たちは、目を逸らさずに生きていこう。
そういえば、あの白いドームはなくなっていた。
瑠美は怪物・ベルゼブブの中に捕らわれた愛犬ラッセルと再会を果たすものの、永遠の別れを告げる。屍の権能者、鬼怒川 真悟を打ち破った健之助は、鬼怒川や瑠美が向き合ってきた命というものに、思いを馳せるのであった。
屍の権能編、これにて終幕です。基本的に1話3000文字を目安にしていますが、最終話だけ文字数が増えたのは許してくださいね。この重さで次の話にはいかないのでご安心を。




